斥力士と静寂の古塔
第一章 浮遊都市の斥力士
俺の名はカイ。歴史の『重さ』を、その肌で感じる斥力士だ。
この浮遊都市アトリアでは、人々は過去を語らない。古い書物は焚かれ、先祖の墓標は風化に任される。歴史とは、我々を大地に縛り付ける重たい鎖なのだと、誰もが信じているからだ。
俺の仕事は、この街の浮沈を足の裏で感じ取り、人々に警告することだ。昨夜、街の長老たちが古い盟約書を処分したらしい。そのせいで、今朝の石畳は羽毛のように軽く、頼りない浮遊感を俺の足裏に伝えてくる。人々は、雲の上にまた一歩近づいたと無邪気に喜んでいるが、俺にはわかる。この軽さは、忘却という名の病だ。足場が失われていく予兆だ。
「カイ、また難しい顔をしているな」
パン屋の主人が、焼きたてのパンの湯気と共に笑いかける。その香ばしい匂いは、今この瞬間の『確定した事実』として、心地よい重みを俺の肺に与えてくれる。だが、彼の笑顔の裏には、三代前の先祖の名さえ知らないという、途方もない軽さが漂っていた。
俺はいつも、水平線の彼方に霞む一本の影を見ていた。
『古塔』だ。
この世界で唯一、浮きも沈みもしない、絶対的な静寂を保ち続ける建造物。師は言った。「あそこに関わるな。確定した歴史は、魂をも砕く猛毒だ」と。
だが、俺はこの曖昧な浮遊感に、もううんざりしていた。確かなものが欲しい。たとえそれが、猛毒であったとしても。
第二章 沈まぬ塔の呼び声
その夜、アトリアは大きく揺れた。
いや、揺れたのではない。急激に、空へと『落下』したのだ。上へ、上へと。
街の図書館で、最も古い年代記が焼却されたのだ。街の歴史が一気に軽くなり、均衡が崩れた。家々はきしみ、人々は悲鳴を上げる。俺は屋根の上に駆け上がり、風に煽られながら足元の圧力を必死に探った。軽い。あまりに軽い。このままでは大気の薄い高層まで上昇し、街は氷漬けになってしまう。
「どうすればいい、カイ!」
長老が、青白い顔で俺に叫ぶ。俺は唇を噛み締めた。失われた重さは、もう戻らない。新たな『重い歴史』をどこかから持ってこない限り、この上昇は止まらないのだ。
俺は決意を固めた。
「古塔へ行く」
その言葉に、長老も、周りにいた人々も息を呑んだ。師の警告が脳裏をよぎる。しかし、このまま曖昧さの中で消えていくくらいなら、俺は『確定した毒』を喰らってでも、真実を知りたかった。
俺は最低限の荷物を背負い、まだ上昇を続ける街から、たった一本だけ古塔の方角へ伸びる古い吊り橋へと駆け出した。背後で聞こえる人々の制止の声は、軽くなった大気に吸い込まれ、すぐに聞こえなくなった。
第三章 無重力の秤
古塔に近づくにつれ、大地は奇妙な様相を呈していた。歴史が重く確定し、沼地のように沈み込んだ土地。逆に、人々に忘れ去られ、巨大な岩塊となって空に浮かぶ土地。その間を縫って進む道は、斥力士である俺の触覚だけが頼りだった。
何日も歩き続け、ついに俺は古塔の麓にたどり着いた。
息を呑んだ。空気が違う。時間が止まっている。いや、それ以上に奇妙な感覚だった。足元から伝わってくる圧力は、重くも軽くもない。それは完全な『無』。存在しているのに、その歴史的質量がゼロであるかのような、絶対的な平衡。この感覚は、斥力士である俺にとって、眩暈がするほど異質だった。
埃の匂いが立ち込める塔の内部へ足を踏み入れる。壁には、星々が砕け、散り散りになっていく様を描いた巨大な壁画があった。その中央に、古びた天秤が一つ、厳かに置かれていた。
『無重力の秤』。
伝説でしか聞いたことのない代物だ。どんなに重い歴史を持つ遺物を載せても、決して傾くことがないという。俺は試しに、旅の道中で拾った、重い記憶を宿す化石を皿に乗せてみた。だが、秤は微動だにしない。
好奇心に駆られ、俺はそっと秤の竿に指で触れた。
その瞬間だった。
片方の皿が、まるで天からの糸に引かれたかのように、あり得ない速度で上昇を始めたのだ。それは止まらない。ギチギチと音を立て、天井を突き破らんばかりの勢いで、ただひたすらに空を目指していく。俺の存在が、この塔の完全な平衡を乱したのだ。
第四章 固定された未来
秤が指し示した天蓋。そこには螺旋階段が隠されていた。俺は、まるで何かに導かれるように、その暗く冷たい階段を上っていった。ひんやりとした石の感触が、ブーツ越しに緊張を伝える。
最上階は、円形の広間だった。壁はなく、代わりに床から天井まで届く巨大な黒曜石の石板が、ぐるりと広間を取り囲んでいる。そして、その表面には、無数の星々の軌道と共に、緻密な文字が刻み込まれていた。
これが、古塔に眠るという『絶対的に固定された未来の予言』。
俺は食い入るように文字を追った。そこには、これから起こるであろう日食、彗星の到来、そして、いくつかの都市の浮沈までが、寸分違わぬ精度で記されていた。俺は鳥肌が立つのを抑えられない。この流動する世界にあって、なぜ未来だけがこれほどまでに『重く』確定しているのか。
そして、俺は予言の最期の一文を見つけてしまった。
石板の最も低い場所に、まるで大地の底に刻まれた墓標のように、その言葉はあった。
『――そして、全ての歴史はその拠り所を失い、世界は光の塵と化して霧散する』
希望ではなかった。救いの啓示でもない。
これは、避けられぬ破滅の宣告だった。
愕然とする俺の背後で、凛とした声が響いた。
「それこそが、この世界を繋ぎ止める、唯一の錨なのです」
振り返ると、そこにいたのは、石板の影から現れたかのような、透き通るように白い髪の女だった。彼女は古塔の守護者なのだと、その静かな瞳が語っていた。
第五章 世界の重石
「錨…?これが、世界を救うというのか」俺はかすれた声で問い返した。
「救うのではありません。ただ、存在させているのです」と守護者は静かに言った。
彼女が語った真実は、俺の信念を根底から覆すものだった。
この世界では、人々が歴史を曖昧にし続けることで、世界全体の存在そのものが希薄になり続けているのだという。確定した過去という『重さ』を失った世界は、いずれ風に吹かれる砂のように、宇宙に霧散してしまう。
「古塔は、その終焉を防ぐための装置。未来に『世界の消滅』という、最も重く、絶対的な出来事を確定させることで、流動しようとする全ての歴史を、その強大な重力でこの場所に引きつけているのです。いわば、この塔は世界の存続を支える巨大な『重石』なのです」
では、あの秤の上昇は――。
「ええ」と守護者は俺の心を見透かしたように頷いた。「あの秤が示したのは、あなた自身が持ち込んだ『不確定性』…自由な未来を求める、その意志の軽さです。それは、世界を霧散させる力そのもの」
俺は、自分が求めてきた『確かな真実』が、実は世界を滅ぼす力だったという事実に打ちのめされた。自由な歴史。曖昧さからの解放。それは、心地よい響きとは裏腹に、世界を緩やかな死へと導く毒だったのだ。
俺は選択を迫られた。
このまま塔を去り、人々が望むままに歴史を軽くさせ、やがて来る消滅を待つか。
それとも――。
守護者の瞳が、俺をじっと見つめていた。その瞳には、何千年もの間、この重い真実を一人で支えてきた者の、深い孤独の色が滲んでいた。
第六章 斥力士の選択
俺は、アトリアの空を思った。あの頼りない浮遊感の中で笑い合う人々を。焼きたてのパンの、ささやかで確かな重みを。彼らが生きる『今』は、この絶望的な未来によって、かろうじて繋ぎ止められていたのだ。
「俺が、次の重石になる」
俺の口から、自然と答えがこぼれていた。守護者の顔に、初めて微かな安堵の表情が浮かんだ。それは、あまりにも永い務めからの解放を意味していた。
彼女に導かれ、俺は再び予言の石板の前に立った。
「この石板にあなたの全てを刻み込みなさい。あなたの過去、あなたの存在、そして、あなたがこの塔の守護者となるという『未来』を。それによって、古塔の歴史は再び確定され、重石としての力を取り戻すでしょう」
それは、カイという個人の、自由な未来の完全な放棄を意味した。
俺は震える手で、黒曜石の冷たい表面に触れた。
その瞬間、全身に凄まじい『重さ』が圧し掛かった。それは、単なる物理的な圧力ではない。世界の存続という、途方もない責任の重み。何十億もの人々の、まだ生まれぬ未来の重みだ。足が砕け、骨がきしみ、意識が遠のきそうになる。だが俺は、歯を食いしばって耐えた。斥力士として生きてきた俺の身体が、その重さを世界の均衡として受け入れていく。
どれほどの時が経っただろうか。
俺が再び目を開けた時、守護者の姿はどこにもなく、ただ光の粒子となって広間に舞っていた。
俺は一人、静寂に満たされた塔の最上階から、外の世界を眺めていた。
遥か彼方に、アトリアが小さく浮いている。人々は何も知らず、歴史を捨て、軽やかに生きているのだろう。
それでいい。
彼らの日常が、俺という名の重石の上にあることを、誰も知る必要はない。
俺の足元の大地は、もう二度と揺らぐことはないだろう。俺は世界と一体となり、その静かな均衡を、永遠にここで感じ続けるのだ。