残響の編纂者
第一章 錆びた街の幻聴
アスファルトの隙間から、古びた鉄の匂いが立ち上る。俺、響(ひびき)が生きるこの街では、時折、過去が滲み出す。人々はそれを『季節性空間歪曲』などと小難しい名で呼び、雨や風と同じ自然現象だと信じて疑わない。
今もそうだ。目の前の交差点が、陽炎のように揺らめいている。アスファルトが石畳に、信号機がガス灯に、行き交う電気自動車の走行音が、蹄鉄の響きと微かな喧騒に置き換わる。誰も気に留めない。歪んだ風景の中を、人々は顔色一つ変えずに通り過ぎていく。彼らにとっては、それはただの幻。だが俺には、その音も、匂いも、肌を撫でる空気の質感も、あまりに生々しく感じられた。
「またか」
俺は舌打ちし、古物商の店へと足を速めた。目当ては、世界からその存在を完全に忘れ去られた『空白の時代』の遺物。歴史の教科書からごっそりと抜け落ちた、謎の数世紀。その時代の遺物に触れることで、俺は失われた過去を追体験できる。他の誰にもない、呪いのような能力だ。
店の奥、埃をかぶった木箱の中に、それはあった。手のひらほどの、錆び付いた歯車。所有者だった老人は、ただのガラクタだと言って安く譲ってくれた。
指先が、冷たくざらついた金属に触れた瞬間、世界が反転した。
轟音。
全身を揺さぶる振動。
鼻腔を刺す、熱い蒸気と油の匂い。
視界いっぱいに広がるのは、無数のパイプと圧力計が並ぶ巨大な機関室。男たちの怒号が飛び交い、鋼鉄が軋む悲鳴が鼓膜を叩く。俺は、名も知らぬ機関士の身体を通して、この風景を見ていた。彼の心臓が、破裂しそうなほどの焦燥感で脈打っている。もっと速く、もっと先へ。まだ見ぬ新世界へ、この鉄の塊を届けなければならないのだと、魂が叫んでいた。
追体験は、ほんの数十秒。だが、現実に戻った俺の胸には、あの機関士の『焦燥』が、まるで黒い染みのようにこびりついていた。
第二章 白紙の編纂書
俺のアジトは、街外れの古い時計塔の最上階だ。螺旋階段を上り詰め、重い扉を開けると、そこは書物とガラクタの巣窟。部屋の中央、分厚い書見台に鎮座しているのが、俺の唯一の希望であり、絶望の源でもある『無名の編纂書(アノニマス・クロニクル)』だった。
石のように重く、表紙には何の装飾もない。そして、そのページは全てが真っ白。空白の時代に作られたとされる、唯一の『現物』。
先ほどの焦燥感を胸に抱いたまま、俺は錆びた歯車を編纂書の傍らに置いた。そして、震える指で、その白紙のページに触れる。
ページが淡く発光した。次の瞬間、部屋の空気が震え、壁際に巨大な鉄の車輪が幻のように現れた。蒸気を噴き出し、灼熱の熱気を放ちながら、それは凄まじい勢いで回転している。床が軋み、本棚から数冊の本が滑り落ちた。
「くそっ……!」
数秒後、車輪は陽炎のように掻き消え、部屋には焦げ付くような匂いと静寂だけが残された。これが編纂書の力。俺が追体験した過去の断片を、現代に『顕現』させる。だが、その現象は完全に制御不能だ。いつかこの力は、俺自身か、あるいはこの世界を破滅させるだろう。
それでも、俺は止められない。
なぜ世界には『空白の時代』が存在するのか? なぜ人々は、街に滲み出す『歴史の残響』を不気味に思わないのか?
この二つの謎は、きっと同じ一つの真実に行き着くはずだ。そして、その答えは、この白紙の書物だけが知っている。俺は、失われた歴史をこの手で編纂し、世界の歪みを正すのだ。たとえ、その代償に俺の精神が蝕まれようとも。
第三章 歓喜のレクイエム
次に見つけた遺物は、半分に割れたオルゴールのシリンダーだった。無数の細かな突起が並ぶ真鍮の円筒。それに触れた時、俺を包んだのは、静謐と洗練の空気だった。
追体験した場所は、ガラスと白亜で造られた壮麗な音楽堂。巨大なパイプオルガンが荘厳な音色を奏で、着飾った聴衆がうっとりとそれに聴き入っている。俺が宿ったのは、おそらくこのオルゴールを作った職人だろう。彼の心を満たしていたのは、自らが作り出した音色が人々の心を震わせるのを目撃する、純粋な『歓喜』だった。
芸術、文化、そしてそれを享受する人々の穏やかな微笑み。空白の時代には、こんなにも豊かな世界が広がっていたというのか。
現実に戻った俺は、多幸感に包まれていた。職人の『歓喜』が、俺の精神に深く流れ込んでいた。理由もなく笑みがこぼれ、世界が輝いて見えた。危険な兆候だ。感情の侵食は、確実に俺の心を上書きし始めている。
ふらつく足で編纂書に触れると、アジトの窓から、澄み切ったオルゴールの音色が流れ出した。それは塔から街全体へと広がり、空へと溶けていく。道行く人々が足を止め、怪訝な顔で空を見上げていた。いつもの『残響』とは違う、あまりにもクリアで、あまりにも美しい音色。
それは、失われた時代の鎮魂歌(レクイエム)のように、街に響き渡った。
第四章 防壁の設計者
いくつもの追体験を重ねるうちに、俺は一つの違和感に気づいた。空白の時代は、まるで何者かの手によって『編集』されたかのように、特定の技術や文化が不自然に欠落している。まるで、誰かが意図的に歴史のページを破り捨てたかのようだ。
そして、俺はついに探し当てた。空白の時代における最も重要な遺物。『観測者のレンズ』と呼ばれる、複雑な幾何学模様が刻まれた水晶の塊だ。
覚悟を決め、俺はそれに触れた。
閃光。
絶叫。
そして、絶対的な静寂。
俺が見たのは、天を裂く黒い亀裂だった。亀裂から溢れ出す『何か』が、地上に触れるたび、物質、生命、概念、その全てが塵となって消滅していく。それは、未来に訪れるはずだった、避けられぬ人類の滅亡。
俺は、白い研究室にいた。一人の科学者の身体を通して、目の前の観測スクリーンに映る絶望的な光景を見ていた。彼の周囲には、憔悴しきった仲間たちがいる。彼らは、この災厄のトリガーが、人類の飽くなき『探求心』が生み出した、ある種の超次元技術であることを突き止めていた。
「もはや、手はない……」
誰かが呟いた。
「いや、一つだけある」と、俺が宿る科学者が静かに言った。
「歴史を、書き換えるんだ」
彼の声は、狂気と諦観、そして悲痛な決意に満ちていた。
「災厄の源流となる技術、文化、思想、そしてそれらに繋がる『過剰な探求心』という感情そのものを、我々の時代ごと歴史から消去する。我々は、未来の人類のために、自らの存在を犠牲にする『歴史の防壁』となるのだ」
彼らが起動した装置が、世界を白い光で包み込む。俺が追体験してきた焦燥も、歓喜も、全てはこの光の中に消えていった。失われたのではない。自ら、捨てたのだ。
そして、彼らの文明が存在した痕跡として、世界には意味を剥奪された『残響』だけが、時折滲み出すようになった。それは、防壁が正常に機能している証。未来への警告であり、墓標だった。
第五章 解放された終焉
真実を知った俺は、時計塔で立ち尽くしていた。俺が取り戻そうとしていたものは、人類が自ら封印したパンドラの箱だったのだ。歴史の残響は、世界の歪みなどではなかった。むしろ、世界を『安定』させるための安全装置だった。
だが、もう引き返せない。俺は、空白の時代に生きた人々の覚悟を、無駄にしたくなかった。彼らが存在したという証を、この世界に刻みつけなければならない。それが、彼らの魂を受け継いでしまった俺の、最後の責務だと思った。
俺は『観測者のレンズ』を固く握りしめ、編纂書の最後の、真っ白なページにそれを押し当てた。
「これで、完成だ」
その瞬間、編纂書から黒いインクが溢れ出し、全ての白紙のページを猛烈な勢いで埋め尽くしていく。失われた歴史が、文字と絵になって現れる。蒸気機関、音楽堂、そして天を裂く黒い亀裂の絵も。
同時に、窓の外の空が、毒々しい紫色に染まっていくのが見えた。街のあちこちで滲み出していた『残響』が、急速に形を成し始める。蹄鉄の音は、もはや幻聴ではない。実体を持った亡霊の馬が、アスファルトを砕きながら走り抜ける。ガス灯の光は、人々の影を不気味に喰らい始めた。
防壁は、完全に破壊された。
遠くで、地鳴りのような音が響き始める。それは、かつて科学者たちが観測した、災厄の兆候そのものだった。
第六章 沈黙の編纂者
街は混乱に陥っていた。人々は紫色の空を見上げ、実体化した過去の亡霊たちから逃げ惑っている。彼らの顔には、これまで感じたことのない純粋な『恐怖』が浮かんでいた。安定した世界が、音を立てて崩れ始めていた。
俺は、全てが記された『無名の編纂書』を胸に抱きしめていた。それはもう、白紙の書物ではない。人類が一度捨てた、完全な歴史書。俺が焦がれ、追い求めた真実の全てがここにある。
しかし、その達成感はなかった。かつて俺の心を侵食した焦燥も歓喜も、今は跡形もなく消え去っていた。代わりに胸を満たしているのは、全てを理解してしまった者の、底なしの『虚無』。
俺は、歴史の探求者ではなかった。
ただの、終末の編纂者だったのだ。
真実を知ることが、最大の破滅への引き金だった。なんという皮肉だろう。
俺は、窓辺に立ち、静かに世界の終わりを見つめた。空の亀裂が、ゆっくりと広がっていく。あれこそが、俺が本当に知りたかった『空白の時代』の最後のページ。そして、これから始まる俺たちの世界の、最初のページだった。