反作用のアルカイック
1 3852 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

反作用のアルカイック

第一章 炭化した指先

レンの仕事場は、死んだ時間の匂いで満ちていた。古書の黴、乾いたインク、そして持ち主を失った木製品のかすかな甘い香り。彼は古物修復師として、忘れられた過去の断片に息を吹き込むことを生業としていた。

その日、彼が修復していたのは、百年ほど前の兵士が出征前に恋人へ宛てた手紙だった。黄ばんだ便箋に触れた瞬間、それは来た。

指先から脳幹を貫く、灼けるような激情。憎悪ではない、もっと純粋な、理不尽な運命に対する烈火の如き怒り。レンは咄嗟に手を引いたが、遅かった。右手の指先が、まるで燃え尽きた炭のように黒く変質し、ぱらぱらと細かい塵を落として崩れていく。激痛はない。ただ、皮膚と爪があったはずの場所に、空虚な『欠落』だけが残されていた。

「またか……」

呟きは、乾いた埃っぽい空気に吸い込まれた。これが彼の呪いであり、宿命だった。歴史上の出来事や人物が遺した『感情の質量』に触れると、その情念が物理的な反作用となって彼の肉体を蝕むのだ。

最近、その反作用の頻度と威力が増している。同時に、世界からは小さな染みのように歴史が消え始めていた。人々は、かつて誰もが口にしたはずの探検家の名を忘れ、偉大な革命のきっかけとなった事件を思い出せない。記憶の質量が失われ、世界の輪郭が静かに摩耗していく。

レンは書斎の奥から、一冊の古びた製本を取り出した。革の表紙には何の装飾もない。『無名の年代記』。彼の能力の源であり、同時に増幅器でもある謎の書物。ページをめくると、ほとんどが白紙だが、消えかけた歴史の残響が、インクの染みのように微かに浮かび上がっていた。そこには、今しがた人々が忘却した、あの探検家の名が震えるような線で記されていた。

第二章 石化する街角

街は奇妙な静けさに包まれていた。いや、喧騒は確かにある。車は走り、人々は行き交う。だが、そのすべてがどこか薄っぺらく、現実感を欠いていた。空には時折、極北のオーロラにも似た空間のひび割れが走る。人々はそれを美しい異常気象だと噂し、スマートフォンを向けていたが、レンには世界の悲鳴のように聞こえた。

中央広場の石畳を通り過ぎようとした、その時だった。

靴底から這い上がってきたのは、底なしの悲しみだった。何世代も前にこの場所で起きた理不尽な粛清。声なき声、無念の涙、絶望の塊。それは物理的な重さを伴ってレンの全身を圧迫した。

「ぐっ……!」

足が動かない。まるで地面に根が生えたように。見下ろせば、ズボンの裾から足首にかけて、灰色に変色していくのが見えた。皮膚の質感が失われ、生命の温もりが奪われ、硬質な石の色が侵食してくる。全身が石化しかける恐怖。

レンは歯を食いしばり、残された意志の力で身体を引き剥がした。ベリ、と嫌な音を立てて靴底が石畳から離れる。彼は壁に手をつき、荒い息を繰り返した。全身が鉛のように重い。指先で頬に触れると、そこは氷のように冷たくなっていた。

歴史の消去は、加速している。このままでは世界そのものが形を保てなくなるだろう。

『無名の年代記』が、懐で微かに熱を持った。それは、より強大な歴史の残響が、ある一点で渦巻いていることを示していた。忘れられた古戦場。そこが、この崩壊の中心地に違いない。

第三章 無名の年代記

忘れられた古戦場は、時間の墓場だった。風景は陽炎のように歪み、風の音に混じって、存在しないはずの剣戟の音や兵士たちのうめき声が聞こえる。空間そのものが、失われゆく記憶の重みに耐えきれず、軋みを上げていた。

レンが足を踏み入れると、『無名の年代記』が激しい光を放ち始めた。彼の特異な体質が、この場所の濃密な感情の残滓と共鳴し、増幅されていくのがわかる。

彼は覚悟を決め、ひび割れた大地にそっと手を触れた。

瞬間、歴史の濁流が彼を飲み込んだ。

死にゆく兵士たちの絶望。故郷に残した家族への想い。敵への恐怖と、友を失った怒り。幾千もの感情が渾然一体となり、彼の精神を焼き尽くさんばかりに流れ込んでくる。腕が古びた鉄のように赤黒く錆びつき、皮膚が乾燥した大地のようにひび割れていく。もはや痛みさえ感じなかった。ただ、無数の死者の記憶が、彼の存在そのものを上書きしていく。

その、意識が途切れる寸前。

彼は感じた。この膨大な記憶の渦の中心で、静かに、そして冷徹に、歴史を『消去』している存在の気配を。それは、人間が発する感情の熱を一切持たない、絶対零度の意志だった。

第四章 観測者

「――そこまでだ、特異点」

声は、空間そのものから響いたようだった。レンが顔を上げると、目の前に光の粒子で構成された人型の存在が立っていた。輪郭は曖昧で、背後の歪んだ風景が透けて見える。感情の温度が一切感じられない、無機質なシルエット。

「お前が……歴史を消しているのか」レンは錆びついた腕を動かし、掠れた声で問うた。

「肯定する。我々は『観測者』。この世界の記憶質量を調整している」

観測者は淡々と告げた。その言葉に、レンの中で怒りが沸騰した。何千、何万という人々の生きた証を、調整だと?

彼は残された力を振り絞り、観測者に掴みかかろうとした。だが、その手は光の粒子を虚しくすり抜けるだけだった。

「無意味だ。我々は物理法則の埒外にいる」

観測者は静かに語り始めた。その声は、まるで遠い星からの信号のように、冷たく響いた。

「我々は、お前たちの未来から来た。この歴史は、ある一点をトリガーとして、必ず破滅的な最終戦争へと至る。我々はその未来を知っている。文明が自らの手で全てを焼き尽くす、救いのない結末を」

観測者のシルエットが、この古戦場を指し示した。

「全ての始まりが、この戦いだ。ここで生まれた憎しみの連鎖が、数百年をかけて増幅し、世界を滅ぼす。我々はその根本原因となる歴史を消去し、人類の未来を救済するためにここにいる」

第五章 選択の天秤

「なぜ、俺だけが……」レンは喘ぐように尋ねた。「なぜ俺だけが、この痛みを感じる?」

「君は安全弁だ」観測者の声は変わらず平坦だった。「我々の介入によって歴史から零れ落ちた『感情の質量』は、行き場を失い、時空を崩壊させる。君は、その膨大なエネルギーを一身に受け止め、世界を安定させるために無意識に選ばれた特異点。いわば、世界の痛みを引き受けるための器だ」

その言葉は、レンのこれまでの人生を的確に、そして残酷に言い当てていた。

観測者は、選択を突きつけた。

「道は二つ。一つは、我々の行いを見過ごし、これからも世界の痛みを受け入れ続けること。そうすれば、君の未来は破滅を回避できる。もう一つは、我々の介入を阻止し、この歴史を守ること。だが、その先にあるのは、確実な世界の終わりだ」

どちらを選んでも、世界は救われない。片方は記憶を失い、もう片方は物理的に滅びる。

その時、レンの胸で『無名の年代記』がひときゅう強く輝いた。彼の脳裏に、失われた歴史の断片が流れ込んでくる。それは、ただの記録ではなかった。戦場で歌われた名もなき歌、探検家が新大陸で見た朝焼け、革命家が夢見た未来。ささやかな喜び、切ない恋、どうしようもない悲しみ、そして、誰かを想う温かい愛。

炭化した指先が、石化した肌が、錆びついた腕が、疼いた。これらは呪いなどではなかった。忘れられた人々が生きた証であり、彼らの最後の叫びだったのだ。

第六章 残響の彼方へ

「未来が破滅するとしても……」

レンは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。

「彼らが生きた証を、この痛みを、無かったことにはできない」

彼は『無名の年代記』を、震える手で高く掲げた。彼の身体から溢れ出る、引き受けてきた全ての歴史の感情が、奔流となって年代記に吸い込まれていく。本は眩いばかりの光を放ち始め、その光は古戦場を、そして世界を包み込んでいった。

消えかけていた歴史の記憶が、光の粒子となって世界に再び定着していく。観測者の姿が陽炎のように激しく揺らぎ、希薄になっていく。

「……そうか。ならば君は、全ての歴史の痛みを、その一身で背負い続けるのだな」

観測者は、最後にそれだけを静かに告げ、光の中へと溶けるように消えた。

光が収まった時、世界は元の姿を取り戻していた。人々は忘れかけていた英雄の名を思い出し、歴史は再びその質量を取り戻した。空のひび割れは消え、街の喧騒は確かな現実感を取り戻していた。

古戦場の中心に、レンは立っていた。いや、立っているように見える、一体の石像があった。彼の身体は、無数の歴史の質量を受け止めた代償として、半ば風化した石像のように変容し、動くことはおろか、呼吸さえも止まっていた。だが、その表情は、苦痛ではなく、不思議なほど穏やかだった。

彼の石化した指先に、開かれたままの『無名の年代記』が握られていた。今までずっと白紙だった最後のページに、滲むようなインクで、たった一言だけ、新たな言葉が浮かび上がっていた。

『ありがとう』

それは、彼が守った無数の過去からの、か細くも確かな感謝の残響だった。

レンの意識は、静かに遠のいていく。彼は、この世界を支える、名もなき歴史の礎となったのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る