残響世界の観測者
第一章 忘れられた土地の重力
空に浮かぶ島々は、世界が忘れた記憶の墓標だ。
人々が語り継ぐことをやめ、その存在を認識しなくなった土地は、やがて大地の重力から解き放たれ、静かに空へと昇っていく。俺、レンの仕事は、そんな忘れられた島々を渡り、失われた歴史の残響を記録することだった。
「――聞こえるか。鉄を打つ音、人々の笑い声、パンの焼ける匂い」
俺は、錆びた鉄骨が剥き出しになった浮遊島の縁に立ち、目を閉じていた。手にした『無銘の羅針盤』の針が、カタカタと微かな光を放ちながら震えている。この島がまだ大地に根差していた頃の幻影が、瞼の裏に流れ込んでくる。鍛冶師が汗を流し、子供たちが石畳の道を駆け回り、市場が活気に満ちていた、遠い日の光景。
しかし、どの幻影にも必ず、それは訪れる。
ふっと、世界から音が消え、色が抜け落ちる一瞬。全てが停止し、無に帰すコンマ数秒の『空白』。その直後、幻影は砂のように崩れ去り、俺は再び、風が吹き抜けるだけの寂れた島の現実に引き戻される。
「レン! いつまでそこにいるつもり?」
背後からの声に振り返ると、飛空艇の船べりからエリアが顔を覗かせていた。風に煽られた赤毛が、灰色の空によく映える。彼女は俺が幻影に深入りしすぎないよう、いつも現実へと繋ぎ止めてくれる錨のような存在だった。
「戻るよ」
俺は羅針盤を懐にしまい、彼女の方へ歩き出した。一歩踏み出すたびに、足元の土がわずかに浮き上がるような、奇妙な浮遊感があった。この島も、もうすぐさらに高度を上げるだろう。世界の忘却は、確実に加速していた。
第二章 羅針盤が指す始まり
首都がある最も大きな大陸島『礎(いしずえ)』でさえ、近年、その重さを失いつつあるという。夜空を見上げれば、かつては無かったはずの小さな島が、星屑のように瞬いている。人々はそれを美しいとさえ言うが、俺には世界の崩壊が近づいている前触れにしか思えなかった。
その夜、工房で羅針盤の手入れをしていると、それが突如、激しい光を放ち始めた。
「うわっ!」
手から滑り落ちた羅針盤は、床の上で狂ったように回転し、甲高い共鳴音を立てる。針が指し示す先は一つ。空の最も高く、最も遠い場所。伝説にしか語られない『始まりの島』だった。
「正気なの? あそこは『忘却の果て』よ。誰も辿り着いた者はいない」
エリアは、俺の計画を聞いて眉をひそめた。彼女の緑色の瞳が、心配そうに揺れている。
「だから行くんだ。世界の忘却が加速している原因も、あの『空白』の正体も、きっとそこにある」
俺は自分の手を見つめた。時折、指先が淡く透けて見えることがある。幻影に意識を向けすぎるせいだ。俺自身の存在が、この現実から薄れ始めている。
「俺は、確かめなくちゃならないんだ。俺が視ているものが何なのか。そして、俺が……何者なのかを」
その言葉に、エリアは反論を飲み込んだ。彼女は俺の抱える不安を、誰よりも理解してくれていた。
第三章 空の旅路と薄れる輪郭
俺たちの小さな飛空艇『シルフ号』は、雲海を裂いて高度を上げていく。眼下に連なる島々は、まるで巨大な生物の亡骸のようだった。かつて栄えた都市の残骸、風化した神殿、枯れた森。立ち寄る島々で羅針盤をかざすたび、俺は無数の『選択されなかった歴史』を垣間見た。
ある島では、革命が成功し、圧政者が倒される未来。
またある島では、疫病を克服し、人々が手を取り合う未来。
それらは全て、現実にはならなかった可能性の残響。そしてその幻影が消える瞬間、決まって現れる『空白』は、以前よりも長く、深く、俺の意識を侵食した。
「レン、顔色が悪いわ。少し休んで」
操縦桿を握るエリアが、心配そうに声をかける。俺はシルフ号の窓に映る自分の顔を見た。輪郭がぼやけ、背景の雲が透けて見えている。
「大丈夫だ」
嘘だった。幻影を見るたびに、現実の感覚が薄れていく。エリアの声、風の匂い、甲板の木の感触。それら全てが、遠い世界の出来事のように感じられた。羅針盤の中心で黒い点が静かに脈打っている。まるで、俺をどこかへ誘うように。
第四章 空白の真実
幾多の嵐を越え、俺たちはついに『始まりの島』へ到達した。
そこは、世界の法則が歪んだ場所だった。地面からねじれるように巨大な水晶が生え、大気は薄く、重力はほとんど感じられない。一歩踏み出すごとに、身体がふわりと宙に浮いた。
島の中心、一際大きな水晶の柱の前で、羅針盤がこれまでになく激しい光と音を放った。俺が震える手でそれを水晶にかざした瞬間――世界が反転した。
視界を埋め尽くしたのは、圧倒的な光景だった。
空に島など一つもない。どこまでも広がる青い海と、緑豊かな一つの大陸。人々が笑い、愛し合い、生きている。そこは、俺たちの知る世界とは全く異なる、生命力に満ち溢れた『真の歴史』の姿だった。
だが、その平和は唐突に破られる。
空が裂け、絶望的な白い光が全てを飲み込んでいく。文明が、生命が、歴史そのものが消滅していく光景。その大いなる破壊と終焉の、まさにその中心に、俺は『空白』の正体を見た。
それは、無ではなかった。
それは、一つの『選択』だった。
『真の歴史』が滅びゆく瞬間、世界は生き延びるために、破滅の運命を『選択しなかった』。そして、切り捨てられた破滅の可能性そのものが、残響となって寄り集まり、新たな物理法則のもとに生まれた世界。
それが、俺たちのこの浮遊島の世界だったのだ。
俺たち自身が、『選択されなかった』歴史の幻影だった。
「……そうか、だから……」
だから俺は幻影を視ることができた。なぜなら俺自身が、より大きな幻影の一部だったから。世界の忘却とは、この仮初めの世界が、その存在理由を失い、本来あるべき無へと還ろうとする自然な崩壊現象だったのだ。
幻影の中で、声が聞こえた。それは世界そのものの嘆きか、あるいは俺自身の魂の叫びか。
『この世界は偽りだ。しかし、ここに生まれた命の営みもまた、真実だ。観測者よ、君は何を選ぶ?』
意識が現実に戻った時、俺の身体はほとんど光の粒子と化していた。エリアが泣きながら、透けた俺の腕を掴んでいる。
「戻ってきて、レン! お願い!」
彼女の温かい涙が、かろうじて俺の存在をこの世界に繋ぎ止めていた。
第五章 ふたつの未来
飛空艇に戻った俺は、震える声でエリアに全てを話した。俺たちの世界が、滅びた世界の夢の残骸であること。そして、俺たちに二つの選択肢が残されていることを。
一つは、このまま世界の忘却に身を任せること。いずれ全てが消え去る運命を受け入れ、残された時間を二人で静かに過ごす。
もう一つは、俺が『観測者』として、世界の核に干渉すること。この偽りの世界を構成する全ての残響を解き放ち、失われた『真の歴史』を再構築する。それは、この世界に生きる全てを一度無に帰し、新たな世界を創り出すことを意味する。
「そんなことしたら、あなたは……」
「ああ。俺は消える。俺は、この『偽りの世界』が生み出した存在だからな。新しい世界に、俺の居場所はない」
エリアは言葉を失い、ただ首を横に振った。彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
第六章 残響の観測者
「いやよ……。あなたがいない世界なんて、意味がない!」
エリアの悲痛な叫びが、静かな船内に響いた。彼女は俺の胸に縋りつき、子供のように泣きじゃくった。透けかかった身体に、彼女の涙の熱だけが、確かな現実として伝わってくる。
俺は彼女の震える肩を、そっと抱きしめた。
「意味ならあるさ。エリア。君が生きてきた時間は、偽物なんかじゃない。君の笑顔も、怒った顔も、その涙も、全部本物だ。だからこそ、俺は君に、本物の大地と、本物の空を与えたいんだ」
俺が見てきた無数の幻影。それは、失われたものの記録ではなかった。
「あれは、これから生まれるべき世界の、設計図だったんだ」
俺はエリアから身体を離し、彼女の頬を伝う涙を指で拭った。その指先が、光の粒子となってはかなく消える。
「さよならだ、エリア」
俺は再び、島の中心にある水晶の前へ戻った。エリアの止める声が背後で聞こえる。振り返らずに、俺は懐から『無銘の羅針盤』を取り出し、天に掲げた。
「観測を終了する。――世界の再構築を開始する」
羅針盤がまばゆい光を放ち、俺の身体は足元から完全に光へと変わっていく。意識が薄れゆく中、俺は最後に、泣き崩れるエリアの姿と、彼女と過ごした日々の幻影を視ていた。それは、俺という存在が経験した、たった一つの、かけがえのない『真実』だった。
第七章 君のいない世界で
世界が、白光に満たされた。
空に浮かんでいた島々が音もなく砕け、光の雨となって降り注ぐ。瓦礫は大地へと還り、乾いた地表を潤すように、失われた海が再び世界を満たしていく。忘却の重力から解放された世界が、新たな生命の息吹を取り戻していく。
エリアは、見知らぬ海岸で目を覚ました。
潮の香りと、頬を撫でる穏やかな風。どこまでも続く青い空と海。それは、誰もが見たことのない、しかし誰もが心のどこかで焦がれていた世界の姿だった。
彼女の記憶に、レンという名の青年の姿はない。
なぜ自分がここにいるのかも、胸を締め付けるこの切なさの理由も、分からなかった。
ただ、ふと空を見上げた時、一筋の涙が理由もなく頬を伝った。握りしめていた右手に、固い感触がある。開いてみると、そこには文字盤も針もない、ただの古びた石ころのような羅針盤があった。
なぜこんなものを大切に持っているのだろう。
その答えは、永遠に分からない。
彼女は空を見上げ続けた。
新しい世界の空に、まるで誰かの忘れ形見のように、小さな島が一つだけ、静かに浮かんでいた。