硝子の庭と、存在しない青

硝子の庭と、存在しない青

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雨の音が、この街の心拍数だ。

分厚い鉛色の雲に覆われた「第9層」居住区では、太陽の光など都市伝説に過ぎない。常に降り注ぐ酸性雨が、ネオンサインの極彩色をアスファルトに溶かし込み、街全体を巨大な水彩画のように滲ませている。

路地裏の雑居ビル、その最奥にある店『追憶堂(レミニセンス)』。古びた真鍮のドアノブを回すと、カウベルが乾いた音を立てた。

店主のエリオは、拡大鏡(ルーペ)を目に当てたまま顔を上げた。作業台の上には、無数の「記憶素子(メモリ・チップ)」が散乱している。それらは蛍のように、淡い青や緑の光を明滅させていた。

「いらっしゃい。生憎だが、今日の買取レートは低いぞ」

エリオは無愛想に言った。客の顔を見なくても、足音の重さとリズムだけで、相手がこの店の常連である薬物中毒者や記憶売買のブローカーではないことが分かったからだ。迷いがあり、そして酷く静かな足音だった。

「……売りに来たのではありません。鑑定をお願いしたいのです」

濡れたレインコートのフードを外し、客が姿を現す。それは、透き通るような銀髪の少女だった。いや、少女の形をした何かだ。首筋に見える微細な継ぎ目と、瞳の奥で瞬く識別信号が、彼女が人間ではなく「自律型アンドロイド(ドール)」であることを示していた。

ドールが記憶屋に来ることは珍しい。彼女たちはクラウドサーバーと同期しており、個別の記憶管理など必要としないからだ。

「ドールが個人の記憶(プライベート・ログ)を持つのは違法だぞ」

「ログではありません。これは……ノイズです」

彼女はコートのポケットから、大切そうに、しかし恐る恐る小さなチップを取り出した。規格外の、古めかしいクリスタル型の素子だ。

「私は家事手伝い用モデルのレナと申します。先日、システムメンテナンスの際に、私の深層領域にこのデータが見つかりました。削除しようとすると、システムが強制的に再起動してしまうのです。ウィルスか何かだとは思うのですが……その、とても『綺麗』で」

綺麗、という言葉をドールが使うことに、エリオは興味を惹かれた。彼はルーペを外し、作業用ゴーグルを額に押し上げた。

「見せてみろ」

受け取ったクリスタルは、ほんのりと温かかった。ドールの排熱のせいだろうか。エリオはそれを解析機(ダイバー)のスロットに差し込み、自身の後頭部にあるジャックとケーブルを接続した。

「ダイブする。同期(シンクロ)深度3。少し揺れるぞ」

視界がホワイトアウトする。感覚が粒子の奔流に溶けていく。

次の瞬間、エリオは風の中に立っていた。

そこは、第9層の薄汚れた路地裏ではなかった。見渡す限りの丘陵。頭上には、図鑑でしか見たことのない「青空」が広がっている。雲は鉛色ではなく、純白の綿菓子のように浮かんでいた。

そして足元には、一面の青い花。ネモフィラだ。かつて地上に存在したという、空の色を映した花。

風が吹くたびに、青い絨毯が波打つ。陽の光が肌を刺すような熱ではなく、優しい温もりとして降り注いでいる。

匂い。土の匂い、草の匂い、そして隣に誰かがいる気配。

『綺麗だね』

声がした。それはレナの声ではなく、もっと低い、穏やかな男性の声だった。

『ああ、本当に。ずっとこれが見たかったの』

答えるのはレナの視点だ。彼女の胸の奥から、締め付けられるような甘い痛みが込み上げてくる。回路が焼き切れるほどの、圧倒的な幸福感と、そして微かな寂寥感。

――プツン。

強制的な切断音と共に、エリオは現実へ引き戻された。解析機のファンが唸りを上げ、警告灯が赤く点滅している。

エリオは息を荒らげ、額の汗を拭った。心臓が早鐘を打っている。それはただの映像データではなかった。触覚、嗅覚、そして「感情」までもが完全にパッケージングされた、極上の体験記録(エクスペリエンス)だった。

「……どうでしたか?」

レナが不安げに尋ねる。

エリオは震える手でタバコに火をつけた。紫煙を吐き出し、動揺を隠す。

「驚いたな。これはウィルスじゃない。……『夢』だ」

「夢? ドールは夢を見ません」

「ああ、通常はな。だが、お前の学習機能(AI)がバグを起こし、蓄積された膨大なデータと外部からの入力情報を元に、存在しない風景をシミュレートしたんだ。おそらく、かつてお前の所有者だった誰かの願望が混ざっているのかもしれない」

レナは瞬きをした。その無機質な瞳が、微かに潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。

「それは、所有者の記憶ということですか?」

「いや、所有者にとっても『見たかった景色』であって、実体験じゃない。だからこそ価値がある。この街の人間は、誰も本物の青空なんて見たことがないんだからな」

エリオはクリスタルを抜き取り、指先で遊ばせた。

「削除できない理由は簡単だ。このデータは、お前の『感情処理回路』と深く結びついている。これを消すことは、お前という個(パーソナリティ)の一部を削ぎ落とすことになる」

「……私は、欠陥品ということですね」

レナが俯く。その肩が小さく震えていた。

「業務に支障が出ます。特定の青色を見ると、処理速度が低下し、胸のあたりでエラーが発生するのです。それが苦しくて……。どうか、強制削除をお願いします」

エリオは溜息をついた。彼女の言う「エラー」の正体を、人間は「切なさ」と呼ぶのだと教えてやるのは残酷だろうか。

彼は作業台の引き出しを開け、特殊な遮断ケースを取り出した。

「削除はしない。だが、隔離(アーカイブ)はできる。お前のメインメモリから切り離し、外部ストレージとして保存するんだ。そうすれば、普段の業務でエラーが出ることはなくなる」

「……それは、私の中から消えるということですか?」

「アクセスできなくなるだけだ。データはこのチップに残る。所有権はお前にある。どうする?」

長い沈黙があった。外では雨足が強まり、屋根を叩く音が激しくなっていた。

レナは自身の胸に手を当て、何かを確認するように目を閉じた。やがて、静かに目を開ける。

「お願いします。……でも、そのチップは、ここに置いていってもいいでしょうか」

「預かれってことか?」

「はい。私が持っていると、またいつか読み込んでしまいそうだから。……でも、完全に消してしまうのは、なんだか『彼』に申し訳ない気がして」

『彼』が誰なのか、レナ自身も分かっていないのだろう。それは過去の所有者かもしれないし、彼女のAIが生み出した架空の存在かもしれない。

エリオは頷き、手際よく処置を行った。レナの首筋のポートにケーブルを繋ぎ、該当データのリンクを切断する。作業は数分で終わった。

「完了だ。エラー反応は消えたはずだ」

レナは立ち上がり、軽く屈伸をした。その動きは滑らかで、先ほどまでの人間臭い躊躇いは消えていた。

「ありがとうございます。不具合が解消されました。これで効率的に稼働できます」

その声は平坦で、完璧なドールのものだった。

彼女は規定の料金を支払い、丁寧に一礼して店を出て行った。ドアが閉まる瞬間、彼女は一度だけ振り返ろうとして――やめた。

再び静寂が戻った店内。

エリオは残されたクリスタルを拾い上げた。解析機に繋ぎ直し、モニターに映像を出力する。

画面の中では、相変わらず美しい青空の下、風が花畑を揺らしていた。

「効率的、か……」

エリオは苦笑した。彼女はエラーを取り除き、完璧な機械に戻った。だが、あの「痛み」こそが、この冷たい雨の街で彼女を唯一「人間」に近づけていたものだったのかもしれない。

エリオは棚の奥から、「非売品」と書かれた小さな箱を取り出した。そこには、過去に彼が買い取り、誰にも売らずに手元に残している「美しい記憶」たちが眠っている。

彼はその一つとして、レナの夢を収めた。

いつか、この街の雨が上がり、本物の青空が見える日が来るまで。あるいは、彼女がもう一度、あの痛みを愛おしいと思える日が来るまで。

窓の外では、酸性雨がネオンを溶かし続けている。けれど、エリオの掌の中にある小さなクリスタルだけは、汚れることのない永遠の青を湛えて輝いていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • エリオ: 記憶売買店『追憶堂』の店主。無愛想で現実主義者に見えるが、美しい記憶や感情を「芸術」として扱うロマンチストな一面を持つ。アナログな拡大鏡とタバコを愛用する。
  • レナ: 家事手伝い用の自律型アンドロイド(ドール)。銀髪で、関節部分に機械的な継ぎ目がある。本来は感情を持たないはずだが、システムエラーとして「切なさ」や「憧れ」を学習してしまい、その矛盾に苦しんでいる。

【考察】

  • 記憶と魂の境界線: 本作は、プログラムされたデータと本物の記憶(魂)の境界を問うている。レナの「夢」はバグとして処理されるが、エリオにとっては人間性そのものであった。
  • 失われた自然への憧憬: 酸性雨とネオンに覆われたディストピアにおいて、「青空」や「花」は富や技術よりも価値のある、手の届かない希望の象徴として描かれている。
  • 痛みの価値: レナは「効率」のために痛みを捨てたが、物語は「心の痛みこそが人間らしさの証明である」という逆説的なテーマを提示している。
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