クロノ・タトゥーの残響
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クロノ・タトゥーの残響

第一章 皮膚に浮かぶ古地図

水瀬刻(みなせ とき)の世界は、古書の匂いと静寂で満たされていた。神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店『時雨堂』。そのカウンターの奥で、彼は埃っぽい光の中に沈み、ページを繰る音だけを友としていた。

その日、異変は彼の左腕から始まった。まるで皮膚の下で見えないインクが滲み出すように、青みがかった銀色の線が走り始めたのだ。それは呪いのように複雑な幾何学模様を描き出し、やがて誰も見たことのない古代都市の微細な地図を形成した。またか、と刻は溜息をつく。彼の肉体には、物心ついた頃から歴史から忘れ去られた『記憶の断片』がタトゥーのように浮かび上がる。

指先でそっと地図に触れる。

瞬間、世界がぐらりと揺らいだ。鼻腔を突く乾いた砂塵の匂い。肌を焦がす灼熱の太陽。耳元で、知らない言語を話す人々の喧騒がこだまする。巨大な石造りの神殿、空を貫く尖塔。ほんの数秒のフラッシュバックだったが、彼の全身からは汗が噴き出し、心臓が激しく鼓動していた。

その時だった。店のガラス窓が、キィン、と高く澄んだ音を立てて震えた。外に目をやると、信じがたい光景が広がっていた。現代的なオフィスビル群の合間に、巨大なローマ水道橋の幻影が、陽炎のように揺らめきながらそびえ立っていたのだ。道行く人々はそれに気づかないのか、あるいは見慣れた日常の歪みとして受け入れているのか、誰も足を止めようとはしない。

『歴史の層(クロノ・レイヤー)』の侵食。世界を構成する時間の地層が、その境界を曖昧にし始めている。刻の体に浮かぶ断片は、この世界の歪みと、間違いなく繋がっている。彼は左腕の地図を強く握りしめた。この痛みも、この孤独も、世界の悲鳴と共鳴しているかのようだった。

第二章 虚ろな歴史書

「あなたのその腕、見せていただけますか」

凛とした声に顔を上げると、カウンターの前に一人の女性が立っていた。茅野栞(かやの しおり)と名乗った彼女は、歴史層異常を専門とする若き研究者だった。その瞳は、まるで未知の古文書を解読するかのように、真摯な光で刻の腕を捉えていた。

彼女に促されるまま、刻は近くの喫茶店で腕のタトゥーを見せた。

「これは……既知のどの文明にも属さないシンボルです」栞はタブレット端末を操作しながら呟いた。「最近、世界各地で確認されている『空白の歴史層』から検出されるパターンと酷似しています」

空白の歴史層。それは、記録されたどの歴史にも存在しない、謎の時間の層だった。それが今、現代層を侵食し、あり得ないはずの遺跡や、記録と矛盾する歴史の幻影を生み出しているのだという。

「これを、見てください」

栞が差し出したのは、古びた一冊の革表紙の本だった。タイトルもなければ、装飾もない。刻が恐る恐るそれを受け取り、ページを開くと、中はすべて真っ白だった。

「『虚ろな歴史書』と、私たちは呼んでいます」

その本に刻の指が触れた瞬間、奇跡が起きた。真っ白だったページに、彼の左腕に浮かぶ古代都市の地図が、一筆書きのようにスルスルと描き出されていったのだ。まるで本が、彼の肉体に刻まれた記憶を吸い上げたかのように。

「やはり……」栞は息を呑んだ。「あなたの体は、失われた歴史の受信機であり、そしてこの本は、その記録装置なのよ」

第三章 空白の残響

『虚ろな歴史書』に浮かび上がった地図は、東京郊外の広大な公園を指し示していた。そこは、空白の歴史層による侵食が最も激しい場所だという。栞と共にその地を訪れた刻は、目の前の光景に言葉を失った。

公園の中央に広がる池は、エメラルドグリーンに輝く巨大な結晶体に覆われ、その周囲には、白亜の柱が天に向かって伸びる壮麗な神殿の幻影が立ち並んでいた。歴史のどこにも存在しない、超古代文明の都市が、現代の公園と不気味に融合している。空気は奇妙なエネルギーで満ち、肌をピリピリと刺激した。

その中心に近づくにつれて、刻の体に浮かぶ断片は数を増し、全身を覆い尽くさんばかりに広がっていく。

「ぐっ……!」

突如、彼の体がぐにゃりと歪んだ。足が地面にめり込むような、異常な重力。視界が二重、三重にぶれ、自分の体が半透明になっていく錯覚に陥る。

「刻くん!」

栞が必死にその腕を支える。彼の肉体が、空白の歴史層が持つ未知の物理法則に引きずり込まれようとしていた。細胞の一つ一つが、忘れられた時間の悲鳴を上げている。

「ダメだ……これ以上は……」

刻が呻いたその時、神殿の中心から放たれる光が、ひときわ強くなった。彼の意識は、抗いがたい力でその光の中へと吸い込まれていった。

第四章 未来からの警告

意識が飛んだ。次に刻が見たのは、見知らぬ光景だった。

灰色の空、赤茶けた大地。崩壊した超高層ビルが墓標のように突き立ち、乾いた風が瓦礫の間を吹き抜けていく。そこは、全ての生命が絶えたかのような、荒廃した未来の世界だった。

その絶望的な風景の中で、刻は一人の老人を見た。地下シェルターのような場所で、夥しい数の機械に囲まれ、彼は必死に何かを操作している。その痩せこけた腕には、見覚えのある青銀色のタトゥーが、力なく明滅していた。

未来の、自分だった。

老いた彼は、人類が犯した決定的な過ち――止められなかった最終戦争の記憶を、その身に刻みつけていた。彼は、その破滅を回避するために、歴史の連続性に楔を打ち込もうとしていたのだ。それが、『空白の歴史層』の創造。過去に存在しない可能性の層を作り出し、未来へと続く道をわずかでも変えようとする、最後の賭けだった。

『――この過ちを、繰り返させてはならない』

老いた自分の悲痛な声が、時空を超えて刻の脳内に直接響き渡る。

ハッと我に返ると、刻は栞の腕の中で倒れていた。『虚ろな歴史書』が彼の胸の上でひとりでに開き、ページが猛烈な勢いで埋まっていく。そこには、今しがた見た未来の光景と、歴史改変の真実が、残酷なまでに詳細に記されていた。

未来を救うための善意の介入が、歴史層全体のバランスを崩壊させ、結果として現代を破滅に導こうとしている。良かれと思って放った一矢が、巡り巡って自分の心臓を貫こうとしているのだ。

第五章 最後の記憶の断片

『虚ろな歴史書』は、ついに最後のページを刻の前に示した。そこに浮かび上がっていたのは、未来の自分からの、最後のメッセージだった。

『全ての始まりである私を消去せよ。それが唯一の道だ』

トリガーは、刻自身の存在だった。彼の特異な体質こそが、未来からの干渉を受け止め、歴史に歪みを生じさせるアンテナとなっていた。彼がこの世から消えれば、未来からの介入は基点を失い、『空白の歴史層』は拠り所をなくして霧散する。歴史は、破滅の未来へと続く一本道に戻るかもしれないが、少なくとも、この世界の崩壊は止められる。

「そんなこと……できるわけない!」

隣で真実を読み取った栞が、涙ながらに叫んだ。

「あなたがいなくなったら、世界が救われたって何の意味があるの!? あなたがいない世界なんて、私にとっては……!」

その言葉は、刻の心を強く打った。孤独だった彼の人生で、誰かがこれほどまでに彼の存在を必要としてくれたことはなかった。

刻は、震える手で栞の頬に触れ、そっと涙を拭った。

「ありがとう、栞さん。君がいたから、俺は自分の運命を知ることができた」

彼は、穏やかに微笑んでいた。その顔には、もう迷いはなかった。

「俺が生きていた証は、もう十分だ。君が、俺を覚えていてくれるなら」

それは、嘘だった。彼が消えれば、彼に関する全ての記憶も世界から消え去る。だが、最後の最後に、彼は愛する人に優しい嘘をつきたかった。

第六章 誰のものでもない空へ

刻は静かに立ち上がり、侵食の中心へと歩みを進めた。彼は目を閉じ、自らの体に浮かぶ無数の『記憶の断片』に意識を集中させる。それは、忘れられた歴史の記録であり、未来からの祈りであり、そして、水瀬刻という人間を構成する全ての情報だった。

「さようなら」

彼は、心の中で栞に別れを告げた。

次の瞬間、彼の体から眩いばかりの光が放たれた。青銀色のタトゥーが皮膚から解き放たれ、光の粒子となって天に昇っていく。彼の輪郭が陽炎のように揺らぎ、世界の色彩から、彼の存在を示す色が抜き取られていくようだった。栞の目の前で、水瀬刻という青年は、音もなく、完全に消滅した。

世界から、歪みが消えた。

水道橋の幻影も、超古代文明の神殿も、全てが嘘のように消え去り、人々は何事もなかったかのように日常を営んでいる。世界は、救われたのだ。

数日後。栞は、なぜか胸にぽっかりと穴が空いたような、説明のつかない喪失感を抱えていた。神保町の裏路地を歩いていると、ふと一軒の古書店の前で足が止まる。『時雨堂』。懐かしい響きだが、そこに誰がいたのか、どうしても思い出せない。

その時、彼女は自分の手に、一冊の古びた革表紙の本が握られていることに気づいた。いつから持っていたのだろう。ページを開くと、中はすべて真っ白だった。ただ、最後のページに、インクの染みのような小さな模様が一つだけ、ぽつんと残されているだけ。それは、未来の誰かから、忘れられた誰かへと送られた、愛の言葉に似た未知の象形文字だった。

栞はその文字にそっと指で触れた。理由もわからないのに、涙が一筋、頬を伝った。

彼女は空を見上げる。どこまでも青く、澄み渡った空。それは誰かが守ってくれた、誰のものでもない、自由な未来の空だった。

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