残響の編み手
第一章 浮遊する石畳
晄(あきら)の指先が、古都の参道に敷き詰められた石畳に触れた。瞬間、世界が悲鳴を上げた。
馬車の轍が刻む硬質な響き、革命を叫ぶ男たちの怒声、祭りの日に響き渡る笛の音、恋人たちが交わす未来の約束。千年の間にこの石畳が記憶した無数の過去が、奔流となって彼の意識に流れ込む。鉄の匂い、汗の酸っぱさ、雨上がりの土の香り。喜びも、絶望も、退屈な日常の欠片までもが、彼の五感を同時に蹂躙した。これが彼の呪いであり、持って生まれた性だった。歴史的遺物に触れると、その『分岐点』で起こり得た全ての可能性を知覚してしまうのだ。
「また、なのね」
声に顔を上げると、歴史学者の澪(みお)が、心配そうにこちらを見下ろしていた。彼女だけが、晄の秘密を知る唯一の協力者だった。
「ああ……今日は一段と酷い。声が多い」晄は額の汗を拭い、息を整える。「まるで、みんなが同時に叫んでいるみたいだ」
彼は立ち上がり、足元の石畳に改めて視線を落とした。実際に起こった「真実の歴史」と、無数の「選択されなかった歴史」。その残響の狭間で、彼は常に眩暈に似た感覚に苛まれていた。だが、今日の違和感はそれだけではなかった。
「見てくれ」晄が指さす。
「石が……浮いている」
澪が目を凝らすと、確かに、重厚な石畳の一つが地面から数ミリほど浮遊し、陽炎のように微かに揺らめいていた。世界の法則が、まるで疲れたようにその責務を放棄し始めている兆候だった。人々が英雄の功績を忘れ去ったことで、その英雄が築いた橋は強度を失い、誤った伝承が広まった発明品は、ある日突然その機能を停止する。この街では、そんな不可解な崩壊現象が静かに進行していた。
集合的歴史意識の綻び。人々の記憶が過去を支えているという世界の法則。その根幹が、今、揺らいでいた。
第二章 黒曜石の囁き
「崩壊の中心は、おそらくここよ」
澪が晄を導いたのは、街で最も古い図書館の地下書庫だった。黴と古い紙の匂いが満ちる静寂の中、彼女は埃を被った台座を指さした。そこには、一つの奇妙な物体が安置されていた。複雑な幾何学模様がびっしりと刻まれた、黒曜石の多面体。まるで凍てついた夜空の欠片のようだった。
「あらゆる『可能性の残滓』を内包する触媒……伝説に過ぎないと思っていたけれど」澪が息を呑む。
晄は、何かに引き寄せられるように、そっとその多面体に指を伸ばした。触れた瞬間、これまで経験したことのない規模の奔流が彼を襲った。
声ではない。光でもない。無数の宇宙が彼の脳内で生まれ、そして消滅していくような、圧倒的な情報量。もし自分が王になっていたら。もしあの戦争に敗れていたら。もし彼女と出会わなかったら。あらゆる人々の、あらゆる選択の可能性が、一つの巨大なタペストリーとなって彼の眼前に広がる。
「う、あ……っ!」
彼は膝から崩れ落ちた。世界の崩壊が加速している。それは、単なる記憶の曖昧さが原因ではない。もっと根源的な、歴史の幹そのものが捻じ曲げられている感覚。誰かが、意図的に。
第三章 最重要分岐点
意識の嵐の中で、晄は一つの光景に引き寄せられた。全ての歴史の奔流が、まるで川が一本の源流へと遡るように、ある一点に収束していく。
『最重要分岐点』。
そこは、薄暗い研究室だった。一人の名もなき技術者が、目の前の奇妙な装置を前に佇んでいる。それは、未来のエネルギー問題を根底から覆す、画期的な発明品だった。彼の胸には二つの選択肢が渦巻いている。この発明を『公開』し、世界に栄光をもたらすか。あるいは、その未知なる危険性を恐れて『破棄』するか。
晄が知る「真実の歴史」では、彼は発明を公開した。その結果、世界は緩やかだが確実な繁栄の道を歩んだ。しかし、今、彼の意識を苛む『現在の歴史』の基盤となっているのは、全く異なる光景だった。技術者は、苦悶の表情を浮かべながら、自らの発明品にハンマーを振り下ろしている。
「破棄」されていたのだ。
この改変こそが、全ての歴史の収束点を狂わせ、世界から『真の未来』を奪い去った元凶だった。
第四章 改変者の涙
誰が、何のために?
晄は黒曜石の多面体を強く握りしめ、意識をさらに深く、改変の瞬間に集中させた。未来から来た修正主義者か、あるいは歴史の悪用を目論む秘密組織か。黒幕の正体を暴き、全てを元に戻さねばならない。
だが、彼がその瞬間に見たものは、想像を絶するものだった。
改変者に、他者の意図は介在しなかった。技術者は、自らの発明がもたらす輝かしい未来と同時に、遥か遠い未来で引き起こされる、未曾有の大災害のビジョンを知覚してしまっていたのだ。彼の発明を悪用した兵器によって燃え盛る街。泣き叫ぶ子供たちの声。彼は、自らが産み出す幸福の裏側にある、耐え難いほどの悲劇を知ってしまった。
「すまない……すまない……」
涙を流しながらハンマーを振り下ろす技術者の姿が、そこにあった。未来を救うための、善意に満ちた自己犠牲。それこそが、歴史を歪めた禁断の行為だったのだ。
歴史を元に戻せば、災害の未来が確定する。
このままにすれば、世界そのものが崩壊する。
逃げ場のないジレンマに、晄は絶句した。その瞬間、彼の掌で輝いていた黒曜石の多面体に、ピシリ、と深く不吉なひびが一つ入った。災害の未来という、あまりに巨大な可能性が、現在の歴史から完全に切り離された音だった。
第五章 新しい神話の創造
「歴史を『事実』としてだけ捉えるから、行き詰まるのよ」
書庫の床に座り込む晄の隣で、澪が静かに言った。
「歴史は、人々が信じる『物語』でもあるわ。事実は一つでも、解釈は無数にある。そして、その集合的な解釈こそが、この世界を支えている」
物語。
その言葉が、晄の中で稲妻のように閃いた。元に戻すのでも、改変を肯定するのでもない。第三の道。
矛盾する二つの歴史を、人々が無意識に受け入れられる一つの『新しい物語』として再構築する。
そうだ。発明は「公開」された。しかし、その危険性を予見した技術者は、同時にその力を封じ、制御するための『叡智』をも後世に遺したのだ――そんな、誰も傷つけない、希望に満ちた新しい歴史を、自分が創り出せばいい。
晄は、ひびの入った黒曜石の多面体を、祈るように両手で包み込んだ。彼の脳裏に、知覚してきた無数の可能性が明滅する。失敗した歴史の教訓、成功した歴史の輝き、忘れ去られた小さな発明のアイデア。それら全てを素材として、彼は世界のための、たった一つの物語を編み始める決意を固めた。
第六章 残響の編み手
晄は目を閉じた。彼の意識は肉体を離れ、風に舞う粒子のように古都全体へと広がっていく。彼はもはや、過去を『見る』者ではない。過去を『紡ぐ』者――新たな『歴史の語り部』となったのだ。
彼は、名もなき技術者の偉業の物語を紡いだ。彼の苦悩と、人類への愛を。そして、彼が遺したという『叡智』の断片を、歴史の随所にそっと配置していく。忘れられた古文書の一節に、老朽化した寺院の壁画に、吟遊詩人の歌の歌詞に。
それは、世界の記憶を書き換えるのではなく、新たな解釈を加える行為に近かった。人々の集合意識が最も自然に受け入れられる形で、歴史の矛盾を縫合していく。
すると、奇跡が起こった。
ふわりと浮いていた石畳が、吸い込まれるように地面に落ち着いた。色を失っていた教会のステンドグラスに、鮮やかな光が宿る。街から失われかけていた重力と色彩が、確かなものとして回帰していく。世界の崩壊が、止まった。
だが、その代償はあまりにも大きかった。晄の手の中の黒曜石は、彼の紡いだ物語の複雑さに耐えきれず、無数のひびで覆われ、白い粉となって指の間からこぼれ落ちていく。彼は、自らが創造したこの新しい歴史を維持するため、永遠に世界の記憶と繋がり、物語を語り続ける宿命を負ったのだ。
第七章 語り部の見る夢
安定を取り戻した世界で、人々は新しい歴史を、まるで太古からそうであったかのように生きている。
図書館の地下書庫で、澪は新たに出現した一冊の古文書を手に取っていた。そこには、古代の技術者が遺したとされる、エネルギー制御に関する記述が、美しい図解と共に記されていた。彼女はその頁を愛おしそうに撫で、誰にも聞こえない声で呟いた。
「ありがとう、晄」
同じ頃、古都の片隅にある小さな公園のベンチで、一人の青年が静かに目を閉じていた。晄だった。彼の肉体はそこに在るが、その意識は、過去と現在と未来、そして無数の可能性が溶け合う壮大な奔流の中にあった。世界が再び道を踏み外さぬよう、彼はただ静かに、永遠の物語を紡ぎ続けている。
彼の頬を、一筋の涙が静かに伝った。
それは、失われた人間性への哀悼か。世界を救ったことへの安堵か。
あるいは、自らが編み上げた物語の美しさに、今も心を震わせているのか。
その答えを知る者は、もうどこにもいなかった。