クロニクルの残香

クロニクルの残香

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第一章 完璧な物語の紡ぎ手

西暦2242年、東京。歴史は、もはや書物の中に埃をかぶる退屈な記録ではなかった。それは精巧にパッケージ化された、最高級のエンターテイメント「クロノ・ダイブ」として人々に消費されていた。人々はニューラル・インターフェースを介して、ジャンヌ・ダルクの掲げた旗の重みを肩に感じ、カエサルと共にルビコン川を渡る水の冷たさを肌で味わう。

僕、相馬リョウは、その歴史を編纂するシナリオライターの一人だ。僕たちの仕事は、膨大な史料データ――通称「原史料(ロウ・データ)」――を基に、混沌とした事実の羅列から一本の美しい物語を紡ぎ出すこと。歴史に「意味」を与え、後世の人々が感動し、教訓を得られるように構成し直す。それが僕の誇りだった。無秩序な過去に秩序と美を与える、神聖な仕事だとさえ思っていた。

今、僕が取り組んでいるのは、次期大型アップデートの目玉となる「幕末維新伝・龍馬の夜明け」だ。モニターには、僕が描いた坂本龍馬の壮麗なCGアバターが映し出されている。海を見つめるその瞳には日本の未来を憂う光が宿り、彼の発する言葉はどれもが理想に満ち溢れていた。僕は、寺田屋で彼が受けた傷の痛みを「理想のための聖痕」として描写し、暗殺の瞬間を「時代の夜明けのための尊い犠牲」として演出した。ユーザーは涙し、彼の生き様に自らを重ねるだろう。完璧な仕上がりだった。

「相馬くん、進捗は?」

背後から声をかけたのは、上司の伊吹さんだ。彼女は、この業界の伝説的なディレクターで、その手にかかれば、どんな味気ない史実も壮大な叙事詩に生まれ変わる。

「ええ、最終調整段階です。龍馬の最後の言葉、『日本の夜明けは、近い』。この台詞の感情パラメータを微調整しています」

「そう。素晴らしいわ。歴史はね、相馬くん、ただの事実じゃない。人々が信じたいと願う『物語』なのよ。あなたの紡ぐ物語は、いつも美しいわ」

伊吹さんの言葉に、胸が熱くなる。そうだ、僕の仕事は正しい。歴史は美しくなければならない。そうでなければ、人は過去から何も学べない。

その日の業務終わり、僕は一人、サーバー棟の資料保管室にいた。次の企画のヒントを探すためだ。普段は立ち入らない最深部の書架。そこは、デジタル化の波に取り残された、紙の資料や旧世代の記録媒体が眠る場所だった。ふと、古びた金属製の棚の隅に、見慣れない黒いデータチップが落ちているのに気づいた。埃を払い、手に取ると、表面には素っ気ないフォントでこう刻印されていた。

『原史料(ロウ・データ):禁帯出』

原史料。僕たちが普段アクセスするのは、伊吹さんたちトップディレクターがフィルタリングし、タグ付けした後の「整理済み史料」だ。生の、未加工のデータに触れることは、厳しく禁じられている。それは、ノイズや矛盾、そして何より「物語にならない」無意味な情報が多すぎるからだと教わっていた。

胸が、とくん、と鳴った。好奇心という名の悪魔が、耳元で囁く。誰も見ていない。一度だけなら。このチップの中には、どんな「真実」が眠っているのだろう。僕は罪悪感を覚えながらも、その小さな黒いチップを、そっとポケットに滑り込ませた。

第二章 ひび割れた英雄譚

自室の簡素なダイブ・チェアに身を沈め、僕はあの黒いデータチップをスロットに差し込んだ。正規のコンテンツではないため、警告メッセージが網膜ディスプレイに点滅する。無視して、起動コマンドを打ち込んだ。瞬間、意識がホワイトアウトし、次の瞬間には、五感が情報の洪水に叩きつけられた。

そこは、僕が創り上げた「幕末」ではなかった。

鼻をつくのは、潮の香りではなく、どぶの臭いと糞尿の悪臭。耳に響くのは、理想を語る熱い声ではなく、病に呻く者の苦悶の声と、酔っ払いの怒声。視界に広がるのは、活気に満ちた町並みではなく、泥にまみれ、痩せこけた人々がうつろな目で行き交う、薄汚れた路地。

――これが、原史料。

フィルタリングされていない、生の過去。

僕は仮想の身体を動かし、よろめきながら歩いた。データは断片的で、場面は脈絡なく切り替わる。ある瞬間、僕は貧しい農家の子供になって、固い芋をかじっていた。次の瞬間には、遊郭の片隅で、客の落とした小銭を必死で探す禿(かむろ)になっていた。そこには英雄も、壮大な物語も存在しない。ただ、ひたすらに「生」そのものの、剥き出しの営みがあった。

不意に、場面が切り替わる。寺田屋だ。しかし、僕が描いた壮絶な活劇の舞台ではない。薄暗く、湿っぽい部屋。数人の男たちが、酒を飲みながら下卑た話をしている。その中に、見覚えのある顔があった。坂本龍馬。だが、彼の瞳に憂国の光はなく、ただ酒に酔って濁っているだけだった。彼は仲間たちと、誰かの悪口を言ってはげらげらと笑い、時折、金の無心をしていた。

「おい、この刀も質に入れんといかんかのう…」

ぼやく声は、僕が設定した凛々しいテノールではなく、酒で掠れた生々しい肉声だった。

混乱が頂点に達したとき、再び場面が転換した。伏見奉行所の役人たちが、寺田屋に踏み込むシーンだ。しかし、そこに龍馬を救うための義憤はない。彼らはただ、上からの命令を遂行するだけの、退屈そうな顔をしていた。乱闘が始まる。刀と槍がぶつかる音は、僕が効果音として使った勇壮な金属音ではなく、肉を裂き、骨を砕く、鈍く湿った音だった。血が噴き出し、生温かい鉄の匂いが僕の鼻腔を満たす。龍馬は英雄的な奮戦をするでもなく、ただ恐怖に顔を引きつらせ、這うようにして裏口から逃げ出した。その姿は、僕が描いた「理想のための聖痕」を負った英雄とは似ても似つかない、ただの必死な、怯えた男だった。

僕は強制的にダイブを終了させた。心臓が激しく波打ち、冷たい汗が背中を伝う。

「嘘だ…こんなものが…」

あれは歴史ではない。ただの混沌だ。意味のない暴力と、偶然の連鎖。こんなものに価値はない。僕は自分に言い聞かせた。僕の仕事は、この混沌から美しい物語を掬い上げることなのだ。そうだ、それでいい。

しかし、一度知ってしまった生の感覚は、皮膚にこびりついた泥のように、どうしても拭い去ることができなかった。僕が創り上げた完璧な龍馬像に、小さな、しかし消すことのできないひびが入った瞬間だった。

第三章 泥中の系譜

あの日以来、僕は禁断の果実の味を知ってしまったかのように、夜ごと原史料にダイブするようになった。仕事で美しい歴史物語を紡げば紡ぐほど、その裏側にある泥臭い現実に惹きつけられていった。混沌としたデータの中に、何か、僕自身に関わるものを見つけ出したいという衝動に駆られていた。

僕の家、相馬家には、代々伝わるささやかな誇りがあった。幕末の動乱期、初代様である相馬彦四郎(ひこしろう)という先祖が、坂本龍馬の同志として、名もなく理想のために戦った、と。それは公認の歴史データベースにも、「その他大勢の志士」の一人として、一行だけ記録が残っている。僕は幼い頃から、その物語を聞かされて育った。僕が歴史シナリオライターを志したのも、その小さな誇りが原点だった。

僕は原史料の膨大なアーカイブの中から、「相馬彦四郎」の名を検索した。正規のデータベースではないため、検索機能は不完全だ。何日もかかって、僕は彦四郎らしき男の記録断片をいくつか見つけ出すことに成功した。期待に胸を膨らませ、僕はそのデータにダイブした。

最初に見たのは、薄汚い長屋の一室だった。彦四郎と思われる男が、酒に酔って寝転がっている。彼は志士ではなかった。脱藩して京に流れてきたものの、食い詰めてごろつきのようになっている、ただの元武士だった。彼は理想を語るどころか、仲間と博打に明け暮れ、些細なことで刀を抜いては、通行人から金を脅し取っていた。

ある断片データでは、彼は商家に押し入り、震える主人を斬り捨てて金品を奪っていた。その顔には、理想も大義もない。ただ、飢えと欲望だけが浮かんでいた。

僕は信じたくなかった。これは何かの間違いだ。同姓同名の別人だ。しかし、データは無慈悲なまでに彼の姿を追っていく。龍馬との接点もあった。だがそれは、同志としてではない。龍馬が懇意にしていた料亭に押し入り、金を出せと脅したごろつきの一人として、だった。龍馬に一喝され、ほうほうの体で逃げ出す彼の姿が、そこには記録されていた。

そして、最後のデータ。

それは、雪の降る寒い冬の夜だった。彦四郎は、盗んだ酒に酔い、千鳥足で道を歩いていた。彼は誰に斬られるでもなく、誰かに看取られるでもなく、ただ足を滑らせ、道端の汚れた側溝に転落した。そのまま、誰にも気づかれることなく、凍てつく闇の中で、惨めに凍え死んだ。彼の最後の息は、白い煙となって虚空に消えた。そこには、何の物語も、教訓も、美しさもなかった。ただ、一つの命が、無意味に消えたという事実だけがあった。

ダイブから覚醒した僕の頬を、涙が伝っていた。

誇りだった。僕の唯一の拠り所だった。名もなき志士という、ささやかだが美しい物語。それが、ただの強盗殺人で、無様な死に方をしたごろつきの人生だったというのか。

僕が信じてきたものすべてが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。歴史は美しい物語なんかじゃない。僕の家系も、僕自身も、ただの虚構の上に成り立っていたのか。

モニターに映る、僕が創り上げた完璧な龍馬の姿が、今はひどく空々しく、嘘っぱちにしか見えなかった。僕は、自分の仕事が、人生が、すべて無意味なものに思えて、ただ嗚咽するしかなかった。

第四章 名もなき者のための鎮魂歌

数日間、僕は会社を休んだ。抜け殻のようになった僕の部屋には、締め切られたカーテンの隙間から、わずかな光が差し込むだけだった。もう、歴史になど関わりたくなかった。美しい物語も、泥臭い事実も、どちらも僕を深く傷つけた。

だが、何も手につかない時間の中で、僕は何度も、あの原史料の光景を思い出していた。特に、側溝で凍え死んだ先祖、相馬彦四郎の最期を。惨めで、不名誉で、無意味な死。しかし、彼は確かにそこに「いた」。飢え、渇き、欲望にまみれながらも、必死にその時代を「生きた」のだ。彼の人生に、僕たちが求めるような「物語」はなかったかもしれない。だが、彼の「生」そのものが、物語以上に重い、一つの真実なのではないか。

僕たちは、いつから歴史に「意味」や「教訓」を求めるようになったのだろう。美しい物語でなければ、価値がないと誰が決めたのだろう。英雄の輝かしい功績の陰で、名もなく死んでいった無数の人々。彦四郎のような、決して褒められることのない人生を送った人々。彼らの生もまた、等しく歴史の一部だったはずだ。それを「無意味」だと切り捨て、美しい物語に加工することは、彼らの存在そのものを冒涜する行為ではないのか。

僕の中で、何かが変わった。それは、絶望からの再生というより、一つの諦観と、そこから生まれる静かな敬意だった。

僕は会社に復帰した。やつれた僕の姿を見て、伊吹さんは心配そうな顔をしたが、僕はまっすぐに彼女の目を見て言った。

「新しい企画を提案させてください」

会議室で、僕は役員たちを前にプレゼンテーションを始めた。

「新しいクロノ・ダイブのシリーズです。タイトルは、『アノニマス・クロニクル――名もなき者たちの記録』」

僕は、英雄譚ではない、まったく新しいコンセプトを語った。

「このコンテンツに、決まった主人公はいません。ユーザーは、歴史の中で名もなく死んでいった、ごく普通の人々の人生を断片的に追体験します。戦乱で畑を焼かれた農民。疫病で子供を亡くした母親。そして…食い詰めて、道端で凍え死んだ、元武士」

どよめきが起こる。伊吹さんが怪訝な顔で僕を見た。

「相馬くん、そんなもの、誰が体験したいと思うの? そこに感動は? 教訓は?」

「感動も教訓も、こちらで用意する必要はありません」と僕は静かに答えた。「ただ、そこに『生』があったという事実。それを知るだけでいいんです。輝かしい歴史の裏側で、無数の名もなき人々が、僕たちと同じように喜び、悲しみ、苦しみ、そして生きていた。その事実の重みこそが、僕たちが本当に歴史から学ぶべきことだと思うんです」

それは、商業的には無謀な提案だった。しかし、僕の言葉には、以前の僕にはなかった確信と静かな熱がこもっていた。僕の目を見て、伊吹さんは何かを感じ取ったようだった。彼女は長い沈黙の後、小さく頷いた。

「…試してみましょう。あなたの信じる『歴史』を」

その夜、僕は自分のデスクに戻り、新しいシナリオファイルを開いた。もう、完璧な英雄を描く必要はない。美しい物語を紡ぐ必要もない。ただ、ありのままを、敬意を込めて記すだけだ。

僕はキーボードに指を置き、最初の一行を打ち込んだ。

『名もなき男は、ただ、腹が減っていた』

窓の外には、未来都市の壮麗な夜景が広がっている。その無数の光の一つ一つに、名もなき人々の暮らしが息づいている。僕は、過去と現在、そして未来に連なる、すべての名もなき「生」に思いを馳せた。僕の仕事は、これからだ。彼らのための、静かな鎮魂歌を紡いでいく。それはきっと、誰の心にも残らない、ささやかな物語だろう。だが、僕にとっては、これ以上なく価値のある仕事だった。

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