クロノスの羊皮紙

クロノスの羊皮紙

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第一章 羊皮紙の囁き

水上燈(みなかみ あかり)の世界は、静寂と埃の匂いで満たされていた。地上で繰り広げられる喧騒や、めまぐるしく移り変わる流行とは無縁の、地下深くにある国立中央アーカイブ。そこで彼女は古文書修復師として、死にゆく「過去」に息を吹き込む仕事をしていた。

彼女の指先は、まるで熟練の外科医のように、脆くなった紙や、ひび割れた革の表紙を撫でていく。その繊細な動きだけが、この時間が止まったような空間で唯一、許された生命活動だった。燈は、不確かで、時に残酷な未来よりも、揺るぎなくそこにある過去を愛していた。歴史の地層に指を沈めることで得られる安らぎだけが、彼女の心を支えていた。

その日、彼女の前に置かれたのは、これまで扱ったどの遺物とも異なる代物だった。チベットの奥地で、氷河の中から発見されたという羊皮紙の束。放射性炭素年代測定では、既知のどの文明よりも古い年代を示しながらも、保存状態は奇跡的としか言いようがなかった。

「クロノス文書、と仮称されている」

上司の老学芸員はそう言って、分厚いファイルをデスクに置いた。「インクの成分が未だに特定できない。君の腕を見込んでの依頼だ、水上君」

燈は白い手袋をはめ、そっと羊皮紙に触れた。しっとりと肌に吸い付くような、不思議な感触。そこに描かれていたのは、見たこともない植物のスケッチと、天体の運行図らしきもの、そして、リズミカルな曲線で構成された未知の文字だった。彼女は作業用のルーペを目に当て、インクが盛り上がった部分に細い修復用の針を近づけた。

その瞬間だった。

針先が、黒曜石のように鈍く輝くインクに触れた途端、燈の脳裏に閃光が走った。目の前の羊皮紙がぐにゃりと歪み、視界が真っ白に塗りつぶされる。息が詰まるような浮遊感の後、彼女は見ていた。

――青々とした草原。風が草を揺らす音。そして、空。澄み切った空に、二つの月が淡い光を放ちながら浮かんでいた。一つは乳白色の馴染み深い月。もう一つは、それよりわずかに小さく、青みがかった光を帯びていた。

「……っ!」

思わず手を引くと、幻覚は霧のように消え去った。心臓が激しく鼓動し、額にじっとりと汗が滲む。ただの疲労だろうか。だが、今見た光景は、夢にしてはあまりにも鮮明だった。二つの月が浮かぶ空の、あの寂寥とした美しさが、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

第二章 失われた日々の色彩

あの日以来、燈の日常は一変した。クロノス文書の修復は、もはや単なる仕事ではなかった。それは、失われた世界への扉を開ける、神聖な儀式となった。

インクに触れるたび、彼女は幻視の世界へといざなわれた。最初は断片的だった映像は、修復が進むにつれて繋がりを持ち始め、一つの壮大な物語を紡ぎ出した。彼女は、石とガラスでできた美しい街並みを歩き、活気あふれる市場の喧騒に耳を澄ませた。スパイスの芳しい香りが鼻腔をくすぐり、耳慣れないが心地よい旋律の音楽が聞こえてくる。

ある時は、質素だが温かな食卓を囲む家族の一員になった。父親が冗談を言って、母親が優しく微笑む。窓の外では、二つの月が子供たちの寝顔を見守っていた。またある時は、広場に集まった人々とともに、星々の誕生を祝う祭りに参加した。夜空に放たれる光の粒が、人々の歓声とともに天に昇っていく。その光景のあまりの美しさに、燈は知らず知らずのうちに涙を流していた。

彼女は、この名もなき人々の喜びや悲しみ、愛や祈りを、我がことのように感じていた。彼らの歴史は、文献の中に無機質に記録された年表ではない。血の通った、温かい営みの連続なのだ。

いつしか燈は、この「過去」を完璧な形で蘇らせることこそが、自分の使命だと信じるようになった。未来に希望を見出せず、過去の静寂に逃げ込んでいた彼女の心に、確かな光が灯り始めていた。この美しい記憶を、歴史を、未来永劫伝えなければならない。そうすれば、データが容易に損なわれ、あらゆるものが使い捨てられるこの時代にも、確かな価値を残せるはずだ。

彼女は寝食を忘れ、羊皮紙に向かった。その表情には、以前の諦念に満ちた影はなく、情熱と喜びに満ちた輝きが宿っていた。彼女は、歴史の修復師であることに、初めて心からの誇りを感じていた。

第三章 未来からの手紙

数ヶ月が過ぎ、クロノス文書の修復作業は最終段階に入っていた。残すは、束の最後に綴じられた一枚だけ。それは、これまで見てきた絵や文字とは明らかに異なっていた。紙面を埋め尽くすのは、幾何学的な図形と、極めて微細な線で描かれた回路図のような模様。そして中央に、ただ一つだけ、見慣れた黒曜石色のインクで描かれた紋章があった。

燈は、これが全ての結論なのだと直感した。この紋章の意味を解き明かせば、この偉大な文明の謎が解けるはずだ。高鳴る胸を抑えながら、彼女は深呼吸を一つして、震える指先をそっと紋章に触れさせた。

――瞬間、世界が反転した。

これまで体験したどの幻視とも違う、圧倒的な情報量の奔流が、彼女の意識を飲み込んでいく。それは、美しい過去の追体験ではなかった。

目の前に広がったのは、赤黒く濁った空と、ひび割れた大地。かつて緑の草原だった場所は、茶色い塵が舞う荒野と化していた。美しいガラスの街は崩れ落ち、瓦礫の山となっている。空に浮かぶ二つの月のうち、青い月は砕け散り、巨大な傷跡のように夜空に張り付いていた。

悲鳴と慟哭が耳をつんざく。これは、滅びの光景だった。

そして、声が聞こえた。いや、それは音ではない。思考に直接流れ込んでくる、冷徹で、しかし悲痛な響きを帯びたメッセージだった。

『――我々は、この記録を過去へ送る。滅びゆく我々の星、地球の記憶を。どうか、我々が犯した過ちを繰り返さないでくれ。これは、君たちの未来の記録であり、警告なのだ』

燈は息を呑んだ。過去? 違う。これは、これから訪れるかもしれない、人類の終焉の姿。

メッセージは続く。彼女の思考が追いつくのを待たず、無慈悲な真実を告げた。

『受信座標、西暦2242年、日本セクター、国立中央アーカイブ。記録管理者、水上燈へ。君たちがクロノス文書と呼ぶこれは、我々、西暦2588年の人類が最後の希望を託したタイムカプセルである』

「……あ……」

声にならない声が、喉から漏れた。全身の血が凍りつき、指先から急速に温度が失われていく。

過去ではなかった。自分が愛し、その温かさに救われていたあの世界は、遥か昔の美しい記憶などではなかったのだ。それは、これからやってくる未来。そして、無残に破壊され、失われる運命にある未来。

彼女が必死に修復し、守ろうとしていたものは、古代文明の遺産ではなく、未来からの弔辞だった。

第四章 歴史の創造主

燈は、その場に崩れ落ちた。地下アーカイブの冷たい床が、現実感を失った身体を突き刺す。嘘だ。何かの間違いだ。あれほどまでに愛おしかった日々の記憶が、これから訪れる地獄への序章だったというのか。

彼女が安らぎを求めた「過去」は、実は絶望的な「未来」だった。希望の光だと思っていたものは、断末魔の叫びだった。皮肉にもほどがある。未来から目を背けて生きてきた自分が、誰よりも克明に、その未来の終末を見せつけられるなんて。

どれほどの時間、そうしていただろうか。虚ろな瞳で天井の照明を見つめていると、不意に、脳裏にあたたかな光景が蘇った。

幻視の中で見た、あの家族の食卓。父親の屈託のない笑顔。子供たちの髪を撫でる、母親の優しい手つき。広場で夜空を見上げていた人々の、希望に満ちた瞳。

あれは、まだ失われていない。

あれは、失われた過去の幻影ではない。これから生まれ、これから生きるはずの、未来の人々の姿なのだ。

もし、この羊皮紙が本当に未来からの警告なのだとしたら。

絶望の淵で、小さな、しかし確かな意志の炎が燈の心に灯った。これまで彼女は、歴史の「記録」を守る修復師だった。だが、今、彼女の目の前にあるのは、単なる記録ではない。変えるべき運命そのものだ。

守るべき対象は、もはや過去ではない。未来だ。

燈は、ゆっくりと立ち上がった。足元はまだおぼつかなかったが、その瞳には、以前とは比べ物にならないほどの強い光が宿っていた。彼女は修復を終えたクロノSス文書を丁寧に束ねると、迷いのない足取りで上司の研究室へと向かった。

ドアをノックし、中にいた老学芸員に向き直る。彼の訝しげな視線を受け止め、燈は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。

「報告します。クロノス文書の正体が判明しました」

彼女は一呼吸おいて、言葉を続けた。その声は、もはや過去に安寧を求める弱々しいものではなかった。

「これは、我々が守るべき過去ではありません。私たちが、変えるべき未来です」

その瞬間、水上燈は、単なる歴史の修復師であることをやめた。彼女は、まだ誰も描いたことのない未来という白紙のページに、最初の線を引こうとする、歴史の創造主となったのだ。

彼女の戦いが、世界を救えるのか。あるいは、この警告さえも、変えられない巨大な歴史の流れの一部に過ぎないのか。答えはまだ、誰にも分からない。だが、確かなことが一つだけあった。未来を知ってしまった彼女は、もう二度と、過去に逃げることはないだろう。彼女の物語は、今、始まったばかりなのだ。

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