第一章 苦いダイイングメッセージ
水嶋湊(みずしま みなと)の舌に、強烈な苦味が広がった。それは焦げ付いた薬草のような、不快で持続的な苦味。目の前にあるのは、警察の鑑識官が証拠品として撮影した一枚の写真だ。人気ミステリー作家、伊吹圭(いぶき けい)の書斎。その中央に置かれたアンティークデスクの上には、万年筆と原稿用紙が一枚、ぽつんと残されていた。
『苦イ夏、塩辛イ雨、酸ッパイ嘘』
インクで書かれたその一行が、湊の味覚を激しく揺さぶっていた。
「…湊くん、どう思うかね」
初老の刑事が、気遣わしげに湊の顔を覗き込む。湊は元パティシエ。三年前に厨房での事故に巻き込まれ、頭を強く打って以来、奇妙な後遺症が残った。文字や言葉に「味」を感じるようになったのだ。文字味覚共感覚、と医者は言った。愛読書はどれもこれも耐え難い味の羅列に変わり果て、レシピ本に至っては、材料名の文字列が渾然一体となって口内を襲うため、一切読めなくなった。そうして彼は、夢だったパティシエの道を諦め、今はひっそりと古書店の店主をしている。
伊吹圭は、そんな湊の唯一無二の親友だった。世間から奇異の目で見られる湊の感覚を、「それは君だけの才能だ」と笑ってくれた男だった。
その伊吹が、三日前に自室で死んでいるのが発見された。第一発見者は担当編集者。警察の見立ては、持病の心臓発作による突然死。事件性はない、と。
だが、湊には分かった。この一行が放つ味は、ただの言葉の味ではない。これは、伊吹が命懸けで遺したメッセージだ。
「これは、事故じゃありません」
湊の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「この言葉には、味がするんです。ひどく不味い、絶望の味が。伊吹は…誰かに殺されたんです」
刑事は困惑した表情で眉を寄せた。共感覚の話は、以前湊から聞いてはいた。だが、それが殺人の証拠になるなど、信じられるはずもなかった。
「湊くん、気持ちは分かるが…」
「信じてもらえないのは分かっています。でも、これが伊吹の最後の言葉なんです。彼がただの日記に、こんなにも『不味い』言葉を書くはずがない。僕には分かるんです」
舌の上にこびりつく苦味と、鼻の奥をツンと刺激するえぐみ。それはまるで、腐りかけた果実と泥を一緒に口に含んだような、冒涜的な味だった。湊は固く拳を握りしめた。必ず、この味の正体を突き止めてみせる。友の無念を晴らすために。
第二章 偽りの甘さと焦げ付いた嫉妬
警察が頼りにならない以上、自分で動くしかなかった。湊は伊吹の周辺を洗い始めた。まず訪ねたのは、伊吹の担当編集者である相田という男だった。カフェで向かい合った相田は、憔悴しきった顔で伊吹の死を悼んでいた。
「伊吹先生は、本当に素晴らしい方でした。次回作の構想も練っていたのに…残念でなりません」
彼の言葉は、上質な蜂蜜のように滑らかで、甘かった。だが、その甘さの奥に、人工甘味料のような舌に残る不自然な後味がまとわりつく。それは、悲しみの味ではなかった。何かを隠すための、薄っぺらな甘さだ。湊は核心に触れる質問を投げかけた。
「伊吹が何か悩んでいる様子はありませんでしたか」
「いえ、全く…。いつも通り、創作に情熱を燃やしていましたよ」
相田の言葉の味が、一瞬だけ、ざらりとした砂糖菓子のように変化した。嘘をついている。しかし、その嘘には殺意のような凶暴な味は含まれていなかった。
次に会ったのは、伊吹のライバルと目されていた作家、黒川だった。彼は伊吹の才能に嫉妬していると噂されていた。バーのカウンターで、黒川はぶっきらぼうに言った。
「天才が死んで清々した、とでも言えば満足か? 確かに、あいつの才能は眩しすぎた。だが、俺は俺の土俵で戦うだけだ」
彼の言葉は、焦げ付いたトーストのような香ばしさと苦味があった。それは紛れもない嫉妬の味だ。しかし、不思議と嫌な味ではなかった。むしろ、自分の無力さを認める実直ささえ感じられた。この味も、伊吹を死に追いやった味とは違う。
調査は行き詰まった。関係者の言葉の「味」は、どれも伊吹の死に直結するものではないように思えた。湊は途方に暮れ、古書店の薄暗いカウンターで、伊吹が残した『苦イ夏、塩辛イ雨、酸ッパイ嘘』という言葉を何度も反芻した。
苦い、塩辛い、酸っぱい。
パティシエだった頃の知識が頭をもたげる。味覚の基本要素だ。甘味、苦味、塩味、酸味、うま味。伊吹のメッセージには「甘味」と「うま味」が欠けている。それは何を意味するのか。
湊は、伊吹との思い出を辿った。二人で笑い合った日々。深夜まで語り明かした夜。伊吹はいつも、湊が作るケーキを「世界一だ」と言ってくれた。彼の言葉には、いつも温かく、優しい「甘さ」があった。
なのに、なぜ。なぜ最後の言葉は、こんなにも不快な味なのだろう。まるで、伊吹との美しい記憶そのものを否定するかのような、残酷な味だ。湊の胸に、冷たい雨が降り注ぐような感覚が広がった。
第三章 塩辛い雨の日のケーキ
その夜、湊は眠れずに古いアルバムをめくっていた。そこに、一枚の写真があった。五年前の夏、二人で訪れた海辺の写真だ。日焼けした伊吹が、不格好な手作りケーキを前にして、豪快に笑っている。湊は、その写真を見て息を呑んだ。全身に鳥肌が立つ。忘れていた記憶の扉が、激しい音を立てて開いた。
あの日は、湊がパティシエとして独立するかどうかを悩んでいた時期だった。伊吹は「景気づけだ」と言って、湊を海へ連れ出した。湊は、その場で伊吹を驚かせようと、即席のケーキを作ったのだ。近くの売店で買ったゴーヤと、熟れすぎて酸っぱくなったプラム、そして隠し味に、とひとつまみの岩塩。今思えば、無謀でしかない組み合わせだった。
出来上がったケーキは、想像を絶するほど不味かった。ゴーヤの強烈な『苦味』。プラムの突き抜けるような『酸味』。そして、分量を間違えた岩塩の、暴力的なまでの『塩辛さ』。
二人がケーキを口にした瞬間、空がにわかに曇り、大粒の雨が降り出した。海風に乗った雨は、まるで塩水のようにしょっぱかった。湊は「ごめん、大失敗だ」と顔を覆った。だが、伊吹はびしょ濡れになりながら、その不味いケーキを「面白い味だ!」と笑い飛ばし、「お前はやっぱり天才だよ」と言ってくれたのだ。
「こんな味、誰も思いつかない。これはお前だけのレシピだ。大丈夫、お前ならやれる」
あの時の伊吹の言葉は、嘘だった。慰めるための、優しい嘘。だけど、その嘘に湊はどれだけ救われたことか。
そうだ。あのケーキの味だ。
『苦イ夏』――ゴーヤのケーキを食べた、あの夏。
『塩辛イ雨』――突然降り出した、あの日の雨。
『酸ッパイ嘘』――「美味しい」と言ってくれた、君の優しい嘘。
湊は愕然とした。伊吹が残したメッセージは、ダイイングメッセージなどではなかった。殺人を告発するものでもなかった。
これは、二人だけの記憶のレシピ。湊にしか解読できない、伊吹からの最後の、最後の――ラブレターだったのだ。
第四章 世界で一番優しい嘘
湊は、伊吹の担当編集者だった相田にもう一度連絡を取った。今度は、問い詰めるためではない。確認するためだった。
「伊吹は、何か病気を隠していませんでしたか」
電話口で、相田は長いこと沈黙した。やがて、彼の口から紡がれた言葉には、もう人工的な甘さも、ざらついた嘘の味もしなかった。ただ、深い悲しみと後悔の味が、じんわりと滲んでいた。
「…気づいていたんですね。伊吹先生は、進行性の難病でした。徐々に、記憶と…五感が失われていく病気です。特に、味覚が最初に侵されていました」
全てが繋がった。
伊吹は、湊との大切な記憶が、病によって消えてしまうことを恐れたのだ。世界で一番不味かった、あのケーキの味。びしょ濡れになった夏の雨の匂い。湊を励ました優しい嘘。その全てが、曖昧な輪郭になって霞んでいく恐怖に、彼は耐えられなかった。
だから彼は、その記憶がまだ鮮明なうちに、自ら人生の幕を引くことを選んだ。そして、湊にだけ分かる形で、その理由を伝えたのだ。
「僕のせいで、彼に嘘をつかせてしまった…」
湊の目から、熱いものが溢れた。あの時、もっと美味しいケーキを作っていれば。いや、そうじゃない。伊吹が守りたかったのは、味そのものではなく、不味いケーキを一緒に笑い飛ばした、あの時間そのものだったのだ。
数日後、湊は久しぶりに厨房に立った。閉鎖した店の、埃をかぶった厨房だ。彼は記憶だけを頼りに、あの日のケーキを再現し始めた。
苦いゴーヤ。酸っぱいプラム。そして、ほんの少しの塩。
以前は読めなくなったレシピ本が、今は必要なかった。彼の頭の中に、そして舌の上に、伊吹が遺してくれた「記憶のレシピ」がはっきりと存在していたからだ。
完成したケーキは、見た目こそ不格好だったが、あの日のものより、遥かに洗練されていた。湊は震える手で、一口、フォークを口に運んだ。
舌に広がる、懐かしい味。強烈な苦味と、鮮烈な酸味。そして、後から追いかけてくる、柔らかな塩味。
それは、決して美味しいものではなかった。
だが、その不味さの奥の奥に、涙が出るほど優しい、微かな甘みを感じた。
それは、親友の最後の嘘がくれた、世界で一番温かい甘さだった。
湊は、静かに涙を流した。もう、言葉に味を感じるこの体質を呪うのはやめよう。この舌は、伊吹が最後に守ろうとした宝物を、受け取るためにあったのだ。
彼は空になった皿を見つめ、そっと呟いた。
「ごちそうさま、圭。…今までで、一番美味しかったよ」
その言葉にどんな味がしたのか、湊だけが知っていた。それはきっと、再生と感謝の味がしたに違いない。