クロノスの天秤

クロノスの天秤

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第一章 色褪せたセピアの約束

水島櫂(みずしま かい)の仕事場は、静寂に満ちていた。壁一面に並ぶサーバーの微かな駆動音だけが、空気の密度を証明している。歴史保存局・時間軸調停部。それが彼の所属する部署の正式名称だ。しかし、局員たちは自嘲を込めて「記憶の修繕屋」と呼んでいた。彼らの仕事は、歴史の記録に生じた微細な「綻び」を、その原因となった個人の記憶に潜航(ダイブ)し、修復することだった。

その日、櫂の前に置かれたのは、一枚の古びた写真だった。セピア色に変色した印画紙には、柔らかな笑みを浮かべた若い女性と、少し照れたように隣に立つ男性が写っている。時代は、世界が二度目の大きな戦火に包まれる少し前。ありふれた恋人たちの、幸福な一瞬を切り取っただけの写真に見えた。

「対象は、九十二歳で天寿を全うした水野朝子。記録上の特記事項はなし。平凡な生涯だ」

上司の伊吹は、感情の読めない声で言った。

「だが、彼女の死後、この一点の記憶を起点として、特定事象における歴史編纂率に0.001パーセントの乖離が発生した。極微量だが、放置すれば指数関数的に拡大する危険なノイズだ」

櫂は写真を指でなぞった。紙のざらついた感触が、遠い過去の体温を伝えるかのようだ。歴史の綻びは、時折、名もなき人々の強烈な感情――後悔、愛情、憎悪――が時空の構造に染み付くことで発生する。櫂の仕事は、その染みを、持ち主の記憶の文脈に沿って正しく「染め直し」、歴史の流れをあるべき姿に戻すことだった。

しかし、この仕事には過酷な対価が伴う。過去の記憶に干渉する力は、無から生まれるものではない。修復師は、自らの記憶の一部をエネルギーとして差し出さねばならないのだ。櫂はこれまで、些細な記憶――昨日の夕食の味、幼い頃に見た映画のワンシーン――をいくつも捧げてきた。そのたびに、自分という存在が少しずつ削られていくような、薄氷を踏む感覚に苛まれていた。

「今回の綻びは根が深いらしい。君の最も得意とする、感情の機微を読み解く能力が必要だと判断された」伊吹は続けた。「修復に成功すれば、特別昇進も検討しよう」

櫂は頷き、ダイブ装置の設置された個室へと向かった。ヘッドギアを装着すると、意識が急速に現実から剥離していく。目の前に広がるのは、無数の光の粒子が飛び交うデータの海。目指すは、水野朝子という一人の女性が九十二年かけて紡いだ、広大な記憶の宇宙。

『追憶潜航(メモリー・ダイブ)、開始』

無機質な合成音声とともに、櫂の意識はセピア色の世界へと沈んでいった。そこは、初夏の木漏れ日が降り注ぐ、緑豊かな公園だった。風が頬を撫で、新緑の匂いが肺を満たす。すぐそばのベンチに、写真の女性、若き日の朝子が座っていた。櫂は透明な観測者として、彼女の視点から世界を見る。やがて、一人の青年が息を切らして駆け寄ってきた。写真の男性だ。

「ごめん、待たせたかい?」

彼の声は、少し掠れていたが、優しさに満ちていた。

「ううん、今来たとこ」

朝子の声が、櫂の鼓膜ではなく、魂に直接響く。幸福に染まった、鈴の鳴るような声。

だが、その瞬間、世界に激しいノイズが走った。青年の顔が歪み、声が途切れ、風景が砂嵐のように乱れる。これが歴史の「綻び」だ。櫂は眉をひそめ、修復プロセスを起動する。

対価選択のインターフェイスが、彼の意識下に表示される。彼はリストの中から、『小学生の頃、初めて補助輪なしで自転車に乗れた日の記憶』を選んだ。風を切る感覚、転んだ膝の痛み、父の喝采。大切な思い出だが、差し出すしかない。

選択を確定すると、彼の内側から何かが引き抜かれ、目の前のノイズが少しだけ和らいだ。青年の顔が、再び鮮明になる。

「新しい発明のことで、少し手間取ってね」

青年は申し訳なさそうに言った。

その言葉が、櫂の心に小さな棘のように引っかかった。歴史の記録では、この水野朝子の周辺に、何かを発明するような重要人物は存在しないはずだった。

第二章 追憶のラビリンス

櫂は幾度となく朝子の記憶に潜航した。青年の名前は「和希(かずき)」。彼は駆け出しの科学者で、いつも研究に没頭していた。二人が過ごした時間は、穏やかで、輝かしい幸福に満ちていた。櫂は、綻びを修復するために、自身の記憶を切り売りし続けた。母が作ってくれた弁当の味、初めて友人と喧嘩した日の夕焼け、初恋の甘酸っぱい痛み。彼の内なるアルバムから、次々とページが剥がされていく。

修復が進むにつれ、綻びの核心が見え始めてきた。それは、和希が取り組んでいた「新エネルギー技術」に関する記憶だった。史実では、彼の名はどの記録にも残っていない。しかし、朝子の記憶の中の彼は、間違いなく時代を数十年は先取りするような、画期的な理論を構築していた。

「この技術があれば、きっと世界から争いはなくなる。誰もエネルギーを奪い合う必要がなくなるんだ」

研究室で、和希は目を輝かせながら朝子に語っていた。その横顔には、未来への純粋な希望が溢れていた。しかし、その記憶に触れるたび、世界は激しく揺らぎ、ノイズが櫂の意識を焼いた。この記憶こそが、歴史が「異物」として排除しようとしている綻びの中心なのだ。

ある日の潜航で、櫂はついに決定的な場面にたどり着いた。軍服を着た男たちが和希の研究室に現れ、技術の軍事転用を強要する場面だ。

「君の才能は、国のために使うべきだ」

男たちの冷たい声。和希は毅然としてそれを拒絶した。

「この力は、人を傷つけるためにあるのではありません」

その後の記憶は、断片的でノイズが酷かった。もみ合いになる音、何かが割れる音、そして、朝子の悲鳴。

櫂は、最後の修復を試みるため、最も大きな対価を要求された。『亡き祖父に、初めて自分の仕事を褒められた日の記憶』。彼のアイデンティティの根幹を成す、宝物のような記憶だ。彼は躊躇した。だが、真実を知りたいという探究心が、彼を突き動かした。震える指で、選択を確定する。

視界がクリアになった瞬間、櫂は息を呑んだ。

それは、研究所での騒動から数日後の夜だった。傷ついた和希が、朝子に小さなオルゴールを手渡していた。

「朝子、これを。僕のすべてだ。もし僕に何かあったら、この音色を、僕たちの過ごした日々を、決して忘れないでくれ。これが…未来への『鍵』なんだ」

オルゴールが奏でるメロディは、複雑で、どこか物悲しい。それは単なる旋律ではなかった。櫂には直感でわかった。この音階の配列こそが、新エネルギー技術の基礎理論を記した暗号なのだ。

そして、櫂は驚愕の真実に行き着く。史実では、この時期に発生したとされる「研究所の爆発事故」は、和希が自らの発明が悪用されることを防ぐために偽装したものだった。彼は自らの死を演出し、歴史の表舞台から姿を消した。そして、唯一の希望を、愛する恋人の記憶に託したのだ。

歴史の綻びは、晩年、朝子の記憶が薄れ始め、この大切な「鍵」が失われかけたことで生じたものだった。櫂の脳裏に、上司である伊吹の言葉が蘇る。

『君の最も得意とする、感情の機微を読み解く能力が必要だ』

鳥肌が立った。伊吹は、局は、すべてを知っていたのだ。彼らの目的は歴史の綻びの修復などではなかった。この名もなき女性の記憶に眠る、失われた超技術を手に入れること。櫂は、歴史の守護者ではなく、ただの墓暴きのための「道具」として利用されていたに過ぎなかった。

第三章 彼方のための選択

現実世界に戻った櫂は、全身から力が抜けていくのを感じた。自分の差し出してきた数多の記憶が、ただ組織の欲望を満たすために消費されたのだと思うと、吐き気すら覚えた。祖父の温かい手の感触も、誇らしげな笑顔も、もう思い出すことはできない。空虚な穴が、胸の中心にぽっかりと空いていた。

伊吹が櫂の前に現れた。

「ご苦労だった、水島君。最終フェーズに移る。対象記憶から『鍵』を抽出し、我々のサーバーに転送したまえ。これが最後の命令だ」

その目は、もはや櫂を人間として見てはいなかった。便利なツールを見る目だ。

櫂は選択を迫られた。命令に従い、和希の遺志を踏みにじり、危険な技術を現代に蘇らせるのか。それとも、名もなき二人の愛と、未来への祈りを守るのか。

彼は静かに頷き、再びダイブ装置に身を委ねた。だが、彼の決意は固まっていた。最後の潜航。対価として要求されたのは、『歴史保存局に入った動機の記憶』。歴史への純粋な探究心、過去の人々の営みへの尽きせぬ興味。今の櫂を形作る、最後の砦とも言える記憶だった。

朝子の記憶の最深部、彼女の魂の聖域で、櫂はオルゴールのメロディと対峙した。それは輝く光の楽譜となって、彼の目の前で踊っていた。伊吹の命令は、この楽譜を「解読」し、転送すること。しかし、櫂は違うコマンドを意識下で組み立てた。

彼は、自らの最後の情熱を対価として燃やし尽くし、そのエネルギーのすべてを、光の楽譜を包む強固なプロテクトへと変換した。誰にも解読できない、永遠の聖域を作るために。

「眠ってください、朝子さん。あなたの愛した人と、その夢と共に」

櫂がそう心で呟くと、光の楽譜は穏やかな光を放ち、ゆっくりと朝子の記憶の海の底へと沈んでいった。

櫂の意識が現実へと浮上したとき、彼の内側はがらんどうになっていた。なぜ自分は歴史に興味を持ったのか。なぜこの仕事に就いたのか。その理由が、どうしても思い出せない。ただ、ぼんやりと、誰かのために何かをしなければならない、と感じたことだけを覚えていた。

彼は無言で歴史保存局を去った。高層ビルの間を抜ける風が、やけに冷たく感じた。昇進も、名誉も、探究心さえも失った。彼に残されたのは、膨大な喪失感と、彼が守った誰かの記憶の断片だけだった。

ふと、櫂は足を止めた。街角の公園から、子供たちの笑い声が聞こえる。ベンチに座る若い恋人たちが、幸せそうに肩を寄せ合っている。それは、櫂が朝子の記憶の中で見た光景とよく似ていた。

彼の心に、温かい何かがじんわりと広がった。それは彼自身の記憶ではない。彼が修復の過程で追体験した、水野朝子と和希という男女の、ささやかな幸福の記憶の残滓だった。歴史という巨大な物語に記されることのない、無数の名もなき人々の愛や祈り。自分は、それを守ったのだ。

櫂は空を見上げた。自分が何を失ったのかは、もう思い出せない。しかし、何を遺すことができたのかは、この胸の温もりが確かに知っていた。歴史とは、年表や事件の記録ではない。誰かが誰かを想った瞬間の、輝きの連なりなのかもしれない。答えのない問いを抱きしめ、櫂はまた、静かに歩き始めた。その足取りは、以前よりも少しだけ、軽くなっているように思えた。

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