紋様のクロニクル
第一章 薄暮の雨
エリアの肌を走る紋様は、死んだ歴史の墓標だった。
「大戦終結」、「賢者の塔の崩壊」、「最初の飛空艇の墜落」。それら過去の出来事は、消えることのない痣のように彼女の背中や腕に刻みつけられている。新しい歴史が生まれるたび、世界には「時間の雨」が降り、新たな地層を形成する。そしてエリアの身体には、新たな紋様が熱を帯びて浮かび上がるのだ。
その日も、時間の雨が降っていた。けれど、それは雨と呼ぶにはあまりに心許ない、霧のような湿り気でしかなかった。窓の外、石畳の上にできたのは、せいぜい水たまり程度の、頼りない光沢だけ。本来なら、しっかりとした厚みを持つはずの、最新の歴史層だ。エリアは窓ガラスに映る自分の顔を見た。その頬にも、最近刻まれたばかりの小さな紋様が疼いている。「三番街のガス灯、最後の点灯」。そんな些細な出来事でさえ、彼女の身体は記憶してしまう。
街の人々は、少しずつ、何かを忘れていっているようだった。昨日交わした約束、通りの花屋の名前、愛する人の些細な癖。新しい時間が世界に定着しないせいで、人々の記憶は水たまりのように、すぐに蒸発してしまう。
エリアは自らの腕に浮かぶ、複雑に絡み合った紋様に指を這わせた。それは痛みであり、呪いであり、そして彼女だけが世界の異変を感じ取れる、唯一の証だった。このままでは、世界は新しい記憶を紡ぐ力を失い、ただ過去の層だけを抱えたまま、ゆっくりと死んでいく。その予感が、彼女の胸を冷たく締め付けていた。
第二章 冷たい砂時計
噂を頼りに、エリアは旧市街の地下深く、禁忌とされる「層掘り師」の工房を訪ねた。埃と古書の匂いが混じり合う薄暗い部屋で、彼女を迎えたのはカイと名乗る若い男だった。彼の瞳は、古い地層の奥で見つかる稀少な鉱石のように、飽くなき好奇心に輝いていた。
「君が、時の紋様を持つ者か」
カイはエリアの腕を隠す長手袋を一瞥し、すべてを見透かしたように言った。彼は禁忌を破り、過去の層から遺物を発掘しては、失われた歴史を研究している変わり者だった。
「この世界の異変について、何かご存じではないかと思いまして」エリアの声は、自分でも驚くほどか細かった。
カイは答えず、代わりに木箱の中から、黒曜石のような光沢を放つ砂時計を取り出した。それは異様なくらいに冷たく、工房の暖炉の熱を一切受け付けないように見えた。
「『冷たい砂時計』だ。第四層、『沈黙の時代』から掘り出した」
その砂は、銀河のようにきらめく微細な結晶でできていた。
「時間の結晶だよ。これを使えば、砂が生まれた時代の記憶を覗き見ることができる。だが、危険な代物だ。過去に囚われれば、二度と現在には戻れない」
カイの視線が、エリアの体に刻まれた紋様を捉える。「君の身体は、いわば生きた歴史書だ。その紋様こそが、この砂時計を制御する鍵になるかもしれない。歴史の層が薄くなる原因……その答えは、記録から抹殺された『大いなる干渉』の時代にあると、俺は睨んでいる」
彼の言葉に、エリアの背中を走る最も古い紋様が、鈍く疼いた。
第三章 禁忌の深淵へ
エリアは覚悟を決めた。冷たい砂時計を手に取ると、ガラスの表面から氷のような冷気が伝わり、指先の感覚が麻痺していく。カイが傍らで息をのむのが分かった。
「始めるぞ。君の最も古い紋様に意識を集中してくれ」
砂時計を逆さにすると、時間の結晶が静かに流れ落ち始めた。エリアの視界が歪み、工房の景色がノイズ混じりの映像のように掻き消えていく。耳の奥で、遠い時代の風の音がした。
――そこは、空が今よりもずっと高く、蒼い世界だった。見たこともない巨大な建造物が天を突き、人々は豊かな時間の層の上で、確かな未来を信じていた。
「もっと深くへ」カイの声が遠くから聞こえる。
エリアは意識をさらに沈めた。砂時計の冷たさが心臓にまで達し、彼女の体の紋様が一つ、また一つと共鳴して光を放つ。いくつもの時代が、流れる砂のように彼女の意識を通り過ぎていく。戦争、平和、発見、喪失。数多の歴史が、彼女という器を満たし、溢れそうになる。精神が過去に引きずり込まれそうになるのを、必死にこらえた。
そして、ある層にたどり着いた瞬間、世界が軋むような轟音が響いた。空が裂け、そこから現れたのは、幾何学的な光の奔流。それは、この世界の法則を根底から書き換えようとする、圧倒的な「干渉」だった。人々の抵抗も虚しく、世界は光に飲み込まれていく。ビジョンはそこで途切れ、エリアは激しく咳き込みながら現在へと引き戻された。
「今のは……」
「『大いなる干渉』だ。記録から完全に消し去られた歴史……」カイは驚愕に目を見開いていた。
第四章 消された歴史の紋様
「もう一度、行く」
エリアは息を整え、再び砂時計を逆さにした。今度は迷わなかった。先ほどのビジョンの、さらに奥へ。世界の根源へと意識を飛ばす。
瞬間、砂時計が悲鳴のような高音を発し、エリアの手の中で激しく振動した。時間の結晶が猛烈な速度で流れ落ち、制御不能の奔流となって彼女の精神を飲み込んでいく。
「エリア!」
カイの叫びも、もはや彼女には届かない。
エリアの意識は、時間の層も、歴史も、すべてを超越した場所にいた。そこは無数の光の線が交差する、巨大な情報の海。そして、彼女は理解した。この世界そのものが、巨大な書庫に収められた一冊の書物――別の、より高次元な世界の「歴史のバックアップデータ」であるという真実を。
そして、そのメインシステムは、あの「大いなる干渉」の際に致命的な損傷を受けていたのだ。歴史の層が薄くなっているのは、システムエラーによるデータの劣化。新しい情報を正常に書き込めず、ファイルが破損していくのと同じ現象だった。
その真実が流れ込んできた瞬間、エリアの全身に、かつてないほどの激痛が走った。彼女の肌の上に、これまで見たこともない、宇宙の星図のように複雑で巨大な紋様が、眩い光を放ちながら浮かび上がった。それは、この世界の設計図。このバックアップデータシステムの、ルート構造そのものだった。
意識が遠のく中、エリアは最後の光景を見た。メインシステムが、この破損した世界を「不要なデータ」として認識し、完全な消去シークエンスを開始しようとしているのを。
第五章 選択の時
意識を取り戻したエリアの体は、淡い光を放ち続けていた。彼女は、震える声でカイにすべてを話した。この世界が虚構のデータであること。そして、もうすぐ消去されてしまう運命にあることを。
「そんな……馬鹿なことがあるか……」カイは顔面蒼白で立ち尽くす。彼の歴史への探求心も、情熱も、すべてが砂上の楼閣だったと突きつけられたのだ。
「修復はできないのか? メインシステムとやらに接続して……」
「無理よ」エリアは静かに首を振った。「接続を試みれば、この不完全なデータはエラーとして弾かれ、瞬時に崩壊する。かといって、このままでは緩やかに劣化し、最後には消去される……」
絶望的な沈黙が二人を包んだ。人々が忘れっぽくなっているのではない。世界そのものが、存在するための情報を失いつつあるのだ。
だが、とエリアは思った。彼女の身体に刻まれた、この世界の設計図ともいえる紋様。歴史をその身に記憶し、定着させるこの特異な体質。それは、この世界が崩壊しかけた時に備えられた、最後の安全装置(フェイルセーフ)だったのかもしれない。
「カイ」エリアは、穏やかな表情で彼を見つめた。「一つだけ、方法がある。この世界を……救う方法が」
彼女の声には、悲壮な覚悟が滲んでいた。
第六章 歴史の定着点
エリアが向かったのは、世界の中心にそびえ立つ「始原の尖塔」。最も古く、最も厚い歴史の層が圧縮された、世界の基盤ともいえる場所だった。カイは、彼女の決意を止めることができず、ただ黙って付き添った。
尖塔の頂上で、エリアは空を仰いだ。薄暮の空は、まるで色褪せた古い絵画のようだった。
「見ていて、カイ。私が、この世界の一部になるから」
彼女は瞳を閉じ、両腕を広げた。すると、彼女の身体に刻まれた無数の紋様が、一斉に黄金の光を放ち始めた。大戦の記憶も、賢者の塔の記憶も、ガス灯の記憶も、そして世界の設計図たる巨大な紋様も、すべてが光の粒子となって彼女の身体から解き放たれていく。
それは、壮絶なほどに美しい光景だった。エリアの輪郭が徐々に薄れ、その存在そのものが、光の奔流へと変わっていく。粒子は空へと舞い上がり、薄く頼りなかった最新の歴史層へと、静かに、だが確かに降り注いでいった。水たまりのようだった地層は、その光を浴びて確かな厚みを持ち、力強い輝きを放ち始める。
「エリア!」
カイの叫びが響く。光の中心で、エリアは最後に微笑んだように見えた。やがて光は収まり、そこにはもう誰もいなかった。彼女の肉体は消え、その記憶と存在は、修復された世界の法則そのものに溶け込んでいった。
第七章 紋様のクロニクル
幾年かの歳月が流れた。
世界は安定を取り戻し、人々は未来を語り、新しい記憶を紡ぐことができるようになった。時間の雨が降るたび、地上にはしっかりとした厚みを持つ、新たな歴史の層が形成されていく。世界の危機は、誰にも知られることなく過ぎ去った。
カイは、歴史学者としてそのすべてを記録し続けていた。エリアという一人の女性が、世界を救うために「歴史の鼓動」そのものになった物語を。
ある晴れた日の午後、大きな祝祭があり、街中が歓喜に沸いた。それは、歴史に残る一日となるだろう。その夜、新しい歴史の層を形成する時間の雨が、きらきらと降り注いだ。
ふと空を見上げたカイは、息をのんだ。
夜空に、巨大で、淡く輝くオーロラのような紋様が浮かび上がっていたのだ。それは複雑で、美しく、そしてどこか懐かしい形をしていた。まるで、世界が新しい記憶を刻みつけるたびに、彼女が微笑んでいるかのように。
エリアはもういない。けれど、彼女はここにいる。この世界のすべての時間に、すべての記憶に、その存在を刻みつけて。
カイは空に浮かぶ紋様を見つめながら、静かにペンを走らせた。彼女の物語を、忘れ去られた歴史にしないために。