第一章 砂上の楼閣
蓮(れん)の手の中で、銀色のスティックが冷たく、無機質な光を放っていた。彼の仕事は「記憶処理官」。時空法に抵触し、見てはならない歴史の断片に触れてしまった者から、その記憶を精密に摘出する外科医のようなものだ。感情は邪魔になる。彼はこれまで、何百という人間の脳から「真実」という名の腫瘍を、一片の感傷もなく取り除いてきた。歴史の整合性を守るという大義の前では、個人の記憶など塵に等しい。そう信じていた。
今回の対象は、初老の歴史学者、古川と名乗る男だった。時間航行中の事故で、幕末の京都に不時着。そこで彼は、公式の歴史記録には存在しない、驚異的な蒸気機関――「霊子機関」と呼ばれる動力炉の稼働を目撃してしまったという。
隔離された純白の部屋で、蓮は古川と向き合った。老人は痩せこけていたが、その瞳だけが異様な輝きを宿していた。
「君が、私の記憶を消すのかね」
「規定の手続きです。あなたの安全と、歴史の安定のためです」蓮は淡々と答えた。
「安定、かね」古川は乾いた笑いを漏らした。「君たちが守っているその『歴史』は、本当に真実かね? 脆い、脆い砂上の楼閣だよ。風が吹けば、たちまち崩れ去るような…」
蓮は取り合わなかった。老人の戯言は聞き慣れている。スティックを構え、処理を開始しようとした瞬間、古川が震える手で古びた真鍮の懐中時計を差し出した。
「これだけでも、見逃してはくれまいか。妻の形見なのだ」
蓮は規則に従い、懐中時計をスキャナーにかける。異常なし。だが、スキャンの光が時計の文字盤に触れた刹那、部屋の空気が微かに震え、蓮のスティックが聞いたことのない警告音を短く発した。データログには、ナノ秒単位の正体不明のエネルギーサージが記録されていた。
「…問題ありません」
蓮は動揺を押し殺し、処理を続行した。老人の瞳から光が失われ、焦点の合わない、ただの老人へと戻っていく。任務完了。しかし、蓮の心には、古川の言葉と、あの奇妙なエネルギーサージが、消えない染みのようにこびりついていた。
第二章 偽史の回廊
自室に戻った蓮は、任務記録を再検証していた。あのエネルギーサージは、公式記録上は「機器の軽微なエラー」として処理されていた。だが、蓮には分かった。あれはエラーなどではない。意図を持った、何らかの信号だ。彼は管理局のメインフレームにアクセスし、独断で詳細な解析を始めた。それは、彼の職務規範から逸脱する、初めての行為だった。
信号パターンは、これまで彼が扱ってきたどの時間技術とも異なっていた。それはまるで、未知の言語で書かれた詩のように、複雑で、どこか懐かしい響きを持っていた。彼は古川が口にした「霊子機関」について検索をかける。データベースは即座に「該当なし」と返してきた。公式記録には、そんな技術は存在しないのだ。
だが、蓮は諦めなかった。何かに導かれるように、彼はデータベースのさらに深層へと潜っていく。通常業務では決してアクセスすることのない、厳重にプロテクトされた領域。そこには、『オルタナティブ・ヒストリー・アーカイブ』――通称『偽史ファイル』と呼ばれる区画が存在した。閲覧には最高評議会の許可が必要な、禁断の領域だ。
蓮の指が止まる。秩序と規律を自らの信条としてきた彼にとって、この一線を越えることは、自分自身の存在を否定するに等しい。脳裏に、同僚であり、数少ない友人である沙耶の顔が浮かんだ。「深入りは危険よ、蓮。私たちは歴史の観察者であって、探求者じゃない」。彼女の忠告が、冷たい鎖のように彼を縛る。
しかし、古川の瞳の輝きが、砂上の楼閣という言葉が、蓮の心を揺さぶり続ける。自分が守っているものは、本当に守る価値のあるものなのか? この揺らぎは、彼の完璧に構築された世界に生まれた、最初の亀裂だった。彼は意を決し、自らの認証コードと、解析した未知の信号パターンを組み合わせた特殊なキーを打ち込んだ。驚くべきことに、厳重だったはずのロックが、まるで待ちかねていたかのように静かに解除された。蓮は、息を飲んで、開かれたファイルの最初のページに目を落とした。そこに書かれていたのは、彼が知る歴史とは似ても似つかぬ、もう一つの日本の姿だった。
第三章 エーテルの残光
偽史ファイルに綴られていたのは、驚愕の真実だった。それは歴史のIFなどという生易しいものではなく、この世界から「消された」正史の記録だった。
我々の知る歴史では、人類は化石燃料と電気の発見によって近代化を成し遂げた。しかし、本来の歴史――「原史」と呼ばれるその流れでは、江戸時代中期、平賀源内と無名の職人たちによって、大気中の未知のエネルギー「エーテル」を利用する「霊子機関」が発明されていた。それはクリーンで、ほぼ無限のエネルギー源であり、日本は西洋の産業革命を待たずして、独自の驚異的な技術文明を築き上げたという。空には蒸気とエーテルの光で飛ぶ飛行船が舞い、人々は木と真鍮でできたカラクリ人形と共に暮らしていた。
だが、その繁栄は長くは続かなかった。西暦1999年、巨大な霊子機関が暴走。時空そのものに深刻な亀裂を生じさせ、世界を崩壊の危機に陥れた。これが「大災厄」の真実だった。未来からこの事態を観測した者たち――後の時空管理局の創設メンバー――は、人類を救うため、苦渋の決断を下す。彼らは過去に干渉し、霊子機関の発明そのものを「なかったこと」にしたのだ。平賀源内の研究資料は焼かれ、関係者の記憶は消去され、歴史は我々の知る、より緩やかで、しかし安全な流れへと「修正」された。
蓮が守ってきた歴史は、壮大な嘘によって塗り固められた、安全な偽りの物語だった。そして、記憶処理官の真の任務は、歴史の整合性を守ることではなく、この巨大な嘘が露見しないよう、時折漏れ出してくる「原史」の残光に触れた者たちを処理し、偽りの平和を維持することだったのだ。
蓮は愕然とした。全身の力が抜け、椅子に崩れ落ちる。彼の誇り、彼の正義、彼が信じてきたすべてが、音を立てて崩壊していく。自分は真実の守護者ではなかった。壮大な隠蔽工作に加担する、ただの共犯者に過ぎなかった。古川が見たものは、タイムスリップの偶然ではなく、時空の亀裂から漏れ出した「原史」の幻影だったのだ。そして、あの懐中時計は、消された歴史の中で作られたタイムアーティファクト。その内部には、管理局のシステムを欺き、真実への扉を開くための鍵が隠されていた。古川は、それを蓮に託したのだ。
絶望が蓮の心を黒く塗りつぶす。何が正しくて、何が間違っているのか。安全な嘘と、危険な真実。どちらを選ぶべきなのか。彼の世界は、色を失った。
第四章 種を蒔く人
数日間、蓮は抜け殻のようだった。任務を機械的にこなしながら、彼の内面では嵐が吹き荒れていた。管理局を告発し、真実を公表すべきか? だが、それは世界を大混乱に陥れるだろう。偽りの平和に安住する人々は、そんな真実を望むだろうか。かといって、このまま嘘に加担し続けることは、彼の魂が許さなかった。
彼は再び、古川の記録を呼び出した。記憶を消される直前、老人が呟いた言葉を思い出す。「砂上の楼각だよ」。その言葉は、もはや嘲笑には聞こえなかった。それは、脆く、儚いからこそ、今この瞬間が尊いのだと語りかけているようだった。
蓮は懐中時計から抽出した信号データを、もう一度、全く新しい視点から解析し始めた。すると、複雑なパターンの中に、短いメッセージが隠されていることに気づいた。
『歴史は一本の川ではない。無数の支流を持つ、広大なデルタだ。君が今、立つ場所から、新しい流れを作れ』
その言葉は、蓮の心に光を灯した。そうだ。歴史は、書き換えられたり、守られたりするだけの、固定されたものではない。それは、今を生きる者たちの選択によって、絶えず生まれ変わり続けるものなのだ。初代長官は、人類を救うために一つの流れを選んだ。だが、それが唯一の正解ではないはずだ。
蓮の心は決まった。彼は「偽史」を破壊することもしないし、「原史」を無理やり取り戻そうともしない。彼は、第三の道を選ぶ。未来の誰かが、自分と同じように真実に気づき、そして、その時に最善の選択をするための「可能性」を残すのだ。
彼は数日をかけて、小さな、しかし極めて巧妙なプログラムを構築した。それは、管理局のメインフレームの奥深くに潜み、誰にも気づかれることなく、歴史の多層性を示唆する微かなヒントを、様々な記録の断片に紛れ込ませるウイルスのようなものだった。歴史学者の論文の片隅に、考古学的な発見物のデータに、あるいは、新人処理官の訓練用シミュレーションの中に。それはすぐには何の影響も及ぼさないだろう。しかし、何十年、何百年という時を経て、それらの種が芽吹いた時、人々は自分たちの生きる世界が、絶対的なものではないと知るかもしれない。歴史を、一つの物語としてではなく、無数の可能性の束として捉え直す日が来るかもしれない。
プログラムを放った後、蓮は自分の個人データをすべて消去し、静かに時空管理局を去った。追われる身となるだろう。だが、彼の心は不思議なほど晴れやかだった。
雑踏に紛れ、彼は空を見上げた。茜色に染まる空の下、人々がそれぞれの人生を生きている。この平和が、作られたものだとしても、今ここで流れる涙や、交わされる笑顔は、紛れもない真実だ。彼はもはや、過去を守る「番人」ではない。未来に、無数の物語の可能性を託す「種を蒔く人」になったのだ。
歴史とは、壮大な記録ではない。それは、クロノス(時)の神が持つ砂時計からこぼれ落ちる、無数の砂粒の一つ一つ。今、この瞬間を生きる、我々一人一人の選択の輝きなのだ。蓮は、人々の流れに身を任せ、まだ見ぬ未来へと、静かに歩き出した。