第一章 薄れゆく鐘の音
古文書修復士である廻(めぐる)の一日は、乾いた羊皮紙の匂いと、インクのかすかな甘い香りで始まる。彼の指先は、数百年という時間の重みを吸い込んだ紙の繊維を、まるで旧知の友人の肌理を確かめるかのように、優しくなぞる。それが彼の仕事であり、世界との唯一の対話だった。
その日、彼が修復していたのは、十五世紀の航海日誌だった。ところどころ虫に食われ、インクは滲んで判読不能な箇所が多い。特に、ある二週間にわたる記述がごっそりと抜け落ちていた。歴史家たちは、嵐による記録の喪失だと結論付けている。『空白の期間』。廻はそっと、その空白に指を置いた。
瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
目の前に、ガラスと鋼鉄でできた天を突く塔がそびえ、銀色の乗り物が音もなく空を滑っていく光景が、網膜の裏に焼き付く。知らない言語の響き、合成された果実のような甘い香り。未来の断片だった。それは数秒で霧散し、廻は息を切らして椅子に倒れ込んだ。いつものことだ。歴史の空白に触れるたび、彼は存在しなかったはずの未来を垣間見る。
工房の窓から、街のシンボルである大時計塔が見えた。だが、その輪郭が奇妙に揺らいで見える。まるで陽炎のように。廻は眉をひそめた。最近、あの時計塔が正午を告げる鐘の音が、日に日に幽かになっている気がする。街の人々が、時計塔の礎を築いた名もなき石工たちの物語を、次第に口にしなくなっているせいだろうか。この世界では、忘却は単なる忘却ではない。それは存在そのものの希薄化、そして消滅へと繋がる病なのだ。
第二章 透明な羅針盤
世界が薄れていく。その感覚は、じわりと広がる染みのように、廻の日常を侵食していた。図書館の特定の書架が半透明になり、触れようとすると指がすり抜ける。幼い頃に遊んだ公園の噴水は、もはや水の音すら立てなくなっていた。人々の記憶から、その存在理由が失われつつあるのだ。
「このままでは、すべてが消える」
廻は決意した。自分のこの奇妙な能力を使って、失われた歴史を、世界の『存在の質量』を取り戻さなければ。彼は書庫の最も深い場所へと向かった。そこには、世界史における最大の禁忌、『大沈黙』と呼称される百年間の記録が、ただ一冊の白紙の本として保管されている。誰もがその時代に何があったのかを知らない。完全に忘れ去られた、巨大な空白。
震える手で、廻はその白紙のページに触れた。
視界が真っ白に染まり、鼓膜が張り裂けんばかりの静寂が彼を襲う。未来のビジョンは現れない。その代わり、彼の両目に、凍てつくような冷たい光が宿った。鏡を覗き込むと、そこには黒曜石のような瞳の中に、精緻なメモリを刻んだ『透明な羅針盤』が浮かび上がっていた。針は二本。一本は微かに未来の光を放ち、もう一本は、深く沈んだ過去の闇を指し示している。
過去を指す針は、遥か西を指して、小刻みに震えていた。失われた歴史は、そこにある。廻は、人々が噂話にすらしない、忘れられた『自由都市エテルナ』の名を、心の内で呟いた。そこへ行けば、世界を救う鍵が見つかるはずだ。彼はそう信じた。
第三章 存在の輪郭
旅は、世界の脆さを廻に突きつけるものだった。羅針盤が指し示す西へ向かう道中、彼はいくつもの「消えかけた」風景に出会った。かつては豊かな穀倉地帯だった平原は、作物の記憶が失われ、ただぼんやりとした灰色の靄が漂うばかり。大きな川に架かっていたはずの石橋は、欄干の半分が透き通り、渡る者の足元の覚束なさを誘う。風が体を通り抜けていくような、奇妙な喪失感が常に付きまとった。
ある寂れた村に立ち寄った時、老婆が焚火を囲む子供たちに、古い英雄譚を語っていた。その声は弱々しかったが、物語が紡がれるにつれて、焚火の周りの空気の密度がわずかに増し、闇の輪郭が濃くなるのを廻は感じた。記憶は、世界の錨なのだ。
廻もまた、自分が知る歴史の断片を、道で出会う人々に語って聞かせた。それは微々たる抵抗だったが、何もしないよりはましだった。彼の瞳の羅針盤は、そんな彼の行いに呼応するかのように、時折、温かい光を帯びるのだった。しかし、過去を指す針は執拗に西を指し続け、その震えは次第に激しさを増していく。まるで、何かを警告するかのように。
第四章 偽りの理想郷
幾多の困難の末、廻はついに『自由都市エテルナ』の跡地にたどり着いた。そこは、ほとんどが透明な廃墟と化しており、風が吹き抜けるたびに、存在そのものが霧散してしまいそうなほど儚げだった。都市の中心には、巨大な一枚岩の石碑が、かろうじてその形を保っている。表面にはびっしりと文字が刻まれているが、中央部分だけが、まるで抉り取られたかのように空白になっていた。
廻は、吸い寄せられるようにその空白に手を触れた。
途端に、壮麗なビジョンが彼の意識に流れ込んできた。白亜の建物が立ち並び、人々は芸術と哲学を語り合い、争いのない完璧な調和の中で暮らしている。これが『自由都市エテルナ』の真実の姿。人々が『大調和』と呼んだ、理想郷の記憶。この輝かしい歴史を取り戻せば、世界はきっとその実体を取り戻せる。廻の胸に希望の光が灯った。
だが、その完璧すぎる光景に、彼は微かな違和感を覚える。人々の笑顔はどれも同じ角度で、その瞳には何の感情も映っていない。まるで精巧に作られた人形のようだ。
その時だった。背後に、音もなく気配が現れた。気温が数度下がり、空気が肌を刺す。振り返ると、そこにいたのは、人の形をした影だった。影は声を発さず、直接、廻の思考に語りかけてきた。
《それ以上、偽りの記憶を呼び覚ますな。それは世界の鎮魂歌ではなく、破滅への序曲だ》
第五章 反転する羅針盤
「偽りの、記憶だと?」廻は喘いだ。
影は揺らめき、言葉を続ける。《そなたが取り戻そうとしている『大調和』の歴史。それこそが、この世界を覆い隠すために仕組まれた、壮大な『偽りの歴史』なのだ》
影が廻の額にそっと触れると、新たなビジョンが激流のように押し寄せた。それは、血と炎、そして悲鳴に満ちた、おぞましい光景だった。理想郷エテルナは、その繁栄の礎として、周囲の無数の多様な文化を力で蹂躙し、支配していた。彼らはただ土地や富を奪うだけでなく、その文化の記憶そのものを根絶やしにした。歌を、物語を、神々を、人々の心から消し去ったのだ。それこそが、歴史から消えた百年間、『大忘却戦争』の真実だった。
《人々がエテルナの偽りの栄光を思い出すたびに、踏みにじられた者たちの存在が、さらに希薄になる。世界の消滅は、歴史が失われるからではない。偽りの歴史によって、真実の歴史が上書きされ、殺されているからだ》
廻が見ていた未来のビジョンは、この偽りの歴史が完全に定着した先にある、多様性を失った均質で空虚な世界の末路だった。衝撃の事実に、廻は膝から崩れ落ちた。彼の瞳の中で、透明な羅針盤が狂ったように回転を始める。未来を指す針と、過去を指す針が、互いを否定し合うように激しく震え、やがて全く逆の方向を指して停止した。
心地よく世界を安定させる、美しい嘘。
世界を混乱に陥れるかもしれない、残酷な真実。
廻は、世界の運命を左右する選択を迫られていた。
第六章 真実の色彩
廻はゆっくりと立ち上がった。彼の瞳から、羅針盤の光が消え、ただ静かな決意の色が浮かんでいた。彼は影――いや、この世界の真実を守ろうとする『監視者』に向かって一度だけ頷くと、再び石碑の空白へと向き直った。
今度は、エテルナの偽りの記憶を受け入れるためではない。その記憶の奥底に塗り込められた、真実を解放するために。彼は自分の能力のすべてを、意識のすべてを、空白の一点に集中させた。
「思い出せ」
それは祈りであり、命令だった。
「忘れられた歌を。奪われた物語を。名もなき人々の祈りを。殺された神々の嘆きを!」
石碑がまばゆい光を放ち、亀裂が走る。次の瞬間、世界そのものが激しく震えた。エテルナの透明な遺跡は完全に砕け散り、光の粒子となって消滅する。その代わり、世界中の至る所で、奇跡が起こり始めた。
乾いた平原に、見たこともない色とりどりの花が一斉に咲き誇る。音がしなかった森に、多様な鳥たちの歌声が響き渡る。半透明だった橋は、土地ごとに異なる様式の、頑強で美しい橋へと姿を変えた。風が、忘れられていた詩を運び、大気が、失われたスパイスの香りで満たされていく。
世界は、かつてないほどの鮮やかさと多様性、そして揺るぎない『存在の質量』を取り戻した。それは、廻が夢見た以上に、生命力に満ち溢れた世界だった。
第七章 最後の言葉
真実の歴史が完全に世界に定着した、その瞬間。廻は空を見上げた。空が、一枚の巨大な純白の紙に変わっていく。世界の果てから、ゆっくりと、それが閉じられようとしていた。まるで、壮大な物語を収めた本が、その最後のページを読み終えようとするかのように。
彼の隣には、もはや影ではない、光の輪郭を持つ存在が立っていた。『編纂者』と呼ぶべきだろうか。
「見事だった、廻。これでこの『歴史の教訓』は完成した」
編纂者の声は、星々の囁きのように穏やかだった。「この世界は、遠い未来に生きる我々が、過ちを繰り返さぬために書き記した、一つの物語。君はその主人公として、最も困難な真実を選択し、物語をあるべき結末へと導いてくれた」
廻はすべてを理解した。自分の人生も、苦悩も、選択も、すべてはこの壮大なシミュレーションの一部だったのだ。だが、不思議と虚しさはない。むしろ、確かな達成感が胸を満たしていた。
「私の役目は、これで終わりですか」
「いや」と編纂者は微笑んだ。「君の存在は、この物語の『最後の言葉』だ。そして、最後の言葉は、常に次の物語の始まりを告げる」
編纂者が、光でできた手を差し伸べる。
「さあ、次のページへ行こう。まだ語られるべき物語は、無数に存在する」
世界が完全に閉じられ、純白の光に包まれる中、廻は静かに頷いた。彼の瞳に、かつて宿った透明な羅針盤が一瞬だけ最後の輝きを放ち、新たな旅路を指し示すかのように、静かに消えていった。
これは、一つの世界の終わり。
そして、無数の世界の始まりの物語。