歪みの修備師と忘れられた旋律

歪みの修備師と忘れられた旋律

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第一章 完璧な静寂

斎(いつき)の指先が、乳白色に曇る歴史結晶にそっと触れる。ひんやりとした感触が皮膚を走り、意識が深く沈んでいく。彼の仕事は「歴史修備師」。時の流れの中で欠落し、あるいは損傷した過去の一片を、古文書や遺物に残された情報から再構築し、完璧な形に「修復」する、特殊な専門職だ。

今回の依頼は、二百年ほど前の、とある辺境の町で開かれた夏祭りの一日。記録の大部分は残っており、欠損はわずか。数日で終わる、いわば単純作業のはずだった。斎は目を閉じ、意識を結晶の中の過去へと同調させる。

脳裏に、夏の陽光が溢れ出す。汗の匂い、焼き菓子の甘い香り、人々の喧騒、そして祭囃子の陽気なリズム。五感が二百年前の世界を捉える。彼はこの感覚の奔流の中から、記録が途切れた「空白」の時間を探し出す。あった。祭りの最高潮、広場での踊りの場面が、まるでフィルムが焼き切れたかのように黒く欠けている。

斎は呼吸を整え、所蔵の古文書から読み解いた踊りの手順、人々の配置、演奏されていたはずの楽曲の情報を、精神の絵筆で空白に描き込んでいく。黒い欠落が、少しずつ色彩と音を取り戻していく。人々が再び笑い、踊り始める。完璧な修復。斎の口元に、かすかな満足の笑みが浮かんだ。

その時だった。

「―――ぁ……」

不意に、全ての音を貫いて、鈴が鳴るような、しかし悲しみを帯びた微かな歌声が聞こえた。それは、彼が再構築した祭囃子の旋律とは全く異質な、澄んだソプラノだった。

斎は目を見開いた。これはなんだ? 資料のどこにも、このような独唱の記録はない。これは「歪み」だ。修復の過程で稀に生じる、原因不明のノイズ。

師匠の言葉が脳裏をよぎる。『歪みを恐れるな、斎。それは過去が残したただのエコー、意味のない残響に過ぎん。完璧な修備師とは、そのノイズを完全に消し去り、歴史を寸分違わぬ静寂に戻せる者のことだ』

そうだ。これは瑕疵だ。斎は再び意識を集中させ、その歌声の発生源を探る。それは、踊りの輪から少し外れた、柳の木陰から聞こえてくるようだった。彼はその存在ごと、歴史から消し去らねばならない。

指先に力を込める。歌声は、まるで消されることを拒むかのように、一瞬だけ強く響いた。それは哀願のようでもあり、祈りのようでもあった。斎は一瞬ためらったが、すぐに首を振った。感傷は仕事の邪魔だ。彼は非情なまでに精密に、その声が存在した痕跡を削り取り、上から正しい祭囃子の音を塗り重ねていく。

やがて、歌声は完全に消えた。そこには、記録通りの完璧な喧騒だけが残った。

斎はゆっくりと意識を現実に戻し、歴史結晶から指を離した。乳白色の曇りは消え、水晶のように澄み切った結晶の中で、人々が永遠に陽気な踊りを続けている。仕事は、完璧に終わった。

だが、彼の耳の奥には、消したはずのあの旋律が、いつまでも幽かに鳴り響いていた。

第二章 耳に残る残響

数日が過ぎても、あの歌声は斎を苛んだ。眠りにつこうとすると、ふと暗闇から響いてくる。書斎で古文書をめくっていても、インクの匂いに混じって、あの哀しい旋律の気配がする。これまで幾度となく「歪み」を消してきたが、これほど鮮明に記憶に残ることはなかった。

「意味のないエコー…」。師匠の言葉を何度も自分に言い聞かせるが、もはやその言葉は空虚に響くだけだった。あの声には、意味があったのではないか。誰かが、確かにそこに存在した証だったのではないか。

斎の完璧主義の心に、初めて亀裂が入った。彼は自らの仕事に絶対の自信と誇りを持っていた。歴史の連続性を守り、後世に「正しい」姿で伝えることこそが、斎家の使命だと信じて疑わなかった。だが今、その「正しさ」が恐ろしく空虚なものに思えてくる。

仕事が手につかなくなった斎は、ついに個人的な調査を始めた。二百年前のあの町、あの祭り。彼はあらゆる文献を渉猟した。町の公的な記録、個人の日記、旅人の手記。しかし、どこを探しても、あの歌声につながる記述はひとかけらも見つからない。まるで、初めから何もなかったかのように。

諦めかけた頃、彼は修備師の間でさえ禁書扱いされている、古びた一冊の私家本に行き当たった。それは、何代も前の、異端とされた修備師が書き残した手記だった。その中に、彼は震えるような記述を見つけた。

『歴史は勝者によって綴られる。では、敗者はどこへ行くのか。記録されなかった人々、意図的に消された人々は。我々は彼らを「忘却の民」と呼ぶ。彼らの存在は時折、我々の修復作業の中に「歪み」として現れる。それは魂の残響。彼らが確かにそこに生きたという、最後の叫びなのだ』

忘却の民。斎は息を呑んだ。自分が消し去ったあの歌声は、意味のないノイズなどではなかった。それは、歴史から抹消された誰かの、最後の抵抗だったのかもしれない。だとしたら、自分は今まで、一体何をしてきたというのか。

斎の背筋を冷たい汗が伝う。書斎の棚に整然と並べられた、彼が修復した澄み切った歴史結晶の数々。あれらは、彼が誇るべき仕事の成果ではなかったのか。それとも、無数の魂を封じ込めた、美しい墓標の列だったのか。

疑念は確信に変わりつつあった。師匠も、同業者たちも、この真実を知っている。知った上で、沈黙を守っているのだ。歴史の「正しさ」という大義名分の下に、一体どれだけの存在が「無かったこと」にされてきたのだろう。

斎の視線は、書斎の最も奥、厳重に封印された桐の箱に向けられた。そこには、斎家の初代修備師が手がけたとされる、最初の歴史結晶が納められている。先祖代々、決して触れてはならないと、固く禁じられてきたものだった。

第三章 結晶の告白

夜のしじまの中、斎は禁忌を破った。震える手で桐の箱の封印を解き、中から古びた歴史結晶を取り出す。それは他のどの結晶よりも深く、昏く曇っていた。まるで、濃すぎる記憶が飽和しているかのように。

深呼吸を一つ。彼は覚悟を決め、その結晶に指を触れた。

瞬間、凄まじい奔流が彼の意識を襲った。それはもはや、過去の追体験などという生易しいものではなかった。怒り、悲しみ、絶望、そして無数の人々の叫び声が、洪水となって脳内に流れ込んでくる。これは「修復」される前の、生の歴史。修正も、編集も、消去もされていない、ありのままの過去の姿だった。

斎は激痛に耐えながら、その奔流の中心にある光景を見た。

それは、歌を生きる糧とし、歌で歴史を紡いできた一族の姿だった。彼らの歌は大地を癒し、人々の心を慰めた。しかし、その力を恐れた時の権力者は、彼らを「国を惑わす者」として排斥し、その存在の全てを歴史から抹消することを命じた。

そして、その抹消を請け負ったのが、斎の初代の先祖だった。初代歴史修備師。彼は、権力者のために、その一族に関する全ての記録を改竄し、人々の記憶から彼らを消し去ったのだ。「歴史修備師」という職業は、歴史を守るために生まれたのではない。歴史を、権力者の都合の良いように「創造」するために生まれたのだ。

斎がこれまで「歪み」「ノイズ」として消してきたもの。それは、歴史から消された「忘却の民」の魂の叫びだった。斎は、自らの手で、彼らに二度目の死を与え続けてきたのだ。彼の誇りも、使命も、全ては巨大な偽りと欺瞞の上に成り立っていた。

奔流の最後に、斎は最も見たくなかった光景を見る。

それは、彼が先日修復した、二百年前の夏祭り。柳の木陰で、一人の少女が歌っていた。彼女は、虐げられ、忘れ去られようとしていた「歌の一族」の、最後の生き残りだった。彼女は、一族の歌が、記憶が、完全に消え去ってしまわぬよう、最後の力を振り絞って歌っていたのだ。あの哀しくも美しい旋律は、滅びゆく民の鎮魂歌であり、未来への祈りだった。

斎が、自らの手で消し去った、あの声。

「あ……ああ……っ!」

斎は結晶から手を引き剥がし、その場に崩れ落ちた。喉から嗚咽が漏れる。彼の一族の繁栄は、無数の犠牲の上に築かれた砂上の楼閣だった。そして彼自身もまた、その罪深い歴史の、忠実な継承者でしかなかった。

書斎に並ぶ、澄み切った歴史結晶が、今は全ておぞましい罪の証拠に見えた。もう、二度と歴史に触れることはできない。この指は、あまりにも多くのものを消しすぎた。

第四章 君のための旋律

絶望の底で、斎は何日も過ごした。食事も喉を通らず、ただ書斎の床に座り込み、虚空を見つめていた。彼が信じてきた世界は、音を立てて崩れ去った。完璧な修復者としての自分は死んだ。いや、初めから存在しなかったのだ。

ふと、彼の脳裏に、あの少女の歌声が蘇った。自分が消してしまった、最後の旋律。それは、罪の記憶であると同時に、暗闇の中で揺らめく、か細い蝋燭の灯のようにも思えた。彼女は、忘れられることに抵抗していた。誰かに、覚えていてほしかったのだ。

斎はゆっくりと立ち上がった。足はまだ鉛のように重い。彼は、壁一面を埋め尽くしていた歴史結晶を、一つ一つ棚から下ろし始めた。澄み切った水晶の牢獄を、彼は自らの手で空にしていく。それは、過去との決別であり、自らの一族への反逆だった。

がらんどうになった書斎の中央に、彼は小さな机を一つだけ置いた。そして、修備師の道具ではなく、一本のペンと、真新しい紙の束を用意した。

何をすべきか、もう迷いはなかった。

歴史を「消す」者から、忘れられたものを「記録」する者へ。

それが、彼の見つけ出した唯一の贖罪の道だった。彼は、誰に読まれるでもない物語を書き始めることにした。歴史の正しさや網羅性など、もはやどうでもよかった。ただ、確かに存在したのに「無かったこと」にされた、誰かのための物語を。

斎はペンを握りしめ、最初の言葉を綴った。

『ある夏の日、柳の木陰で、一人の少女が歌っていた』

彼は、自分が消してしまったあの祭りの一日を、今度は自分の言葉で紡ぎ直していく。少女の歌声が、どれほど美しかったか。その旋律に、どれほどの祈りが込められていたか。彼は記憶の限りを尽くして、その存在を紙の上に蘇らせようと試みた。それは不完全で、主観に満ちた、歴史記録としては全く価値のないものかもしれない。

だが、斎にとっては、これまで修復してきたどの「完璧な」歴史よりも、遥かに真実で、尊いものに思えた。

彼は書き続けた。初代の結晶が見せた、歌の一族の物語を。そして、これから出会うであろう、他の「忘却の民」の物語を。それは、果てしない旅の始まりだった。

窓が開き、夕暮れの優しい風が書斎に流れ込んできた。その風は、どこか遠い場所から、微かな旋律を運んできたように感じられた。斎はペンを置き、顔を上げる。彼の頬を涙が伝っていたが、その口元には、静かで穏やかな微笑みが浮かんでいた。

それは、彼が初めて、自分の意志で紡ぎ始めた、新しい「歴史」の、最初の音色だった。

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