虚構の王と、沈黙する世界の叫び
第一章 無音の聖地
自動販売機のコンプレッサー音が、末期患者の喘鳴のように鼓膜を震わせる。
時野響にとって、世界は常に生理的な不快感を伴うノイズの海だ。アスファルトを踏む通行人の靴音は、何千もの骨が擦れ合う軋みに変換され、ビルの壁面からは、かつてそこで起きた諍いが、濡れた雑巾を絞るような湿った音となって滲み出している。
だが、この広場だけは異質だった。
大陸統一の英雄、「建国王」の偉業を称える『無音の石碑』。高さ十メートルの黒曜石は、周囲の空間から色彩すら奪っているように見える。
観光客たちが上げる感嘆の声さえ、石碑の周囲半径数メートルでプツリと途切れる。俺は震える指先を、その黒い鏡面へと伸ばした。
触れた瞬間、脳髄を貫いたのは轟音ではない。
鼓膜が内側から張り付くような、絶対的な「真空」だった。
それは静けさではない。何億もの喉元を万力で締め上げ、悲鳴ごと圧殺した果てに生じる、重力を持った「虚無」だ。
吐き気がした。ここには歴史がない。あるはずの怨嗟も、歓喜も、すべてが外科手術のように綺麗に切除されている。
この石碑は墓標ではない。巨大な「蓋」だ。
第二章 歴史の均衡
「やめなさい。その蓋を開ければ、溢れ出すのは血だけではない」
背後から肩に置かれた手は、驚くほど温かく、そして微かに震えていた。
振り返ると、純白の制服を着た『歴史監査局』の男が立っていた。そこに敵意はない。まるで火遊びをする我が子を諭すような、痛ましいほどの慈愛と焦燥が滲んでいた。
「響君、今の空を見てごらん」
男の視線を追うまでもない。俺が石碑に触れ続けているせいで、広場の石畳には血管が浮き出るように亀裂が走り、頭上の青空はノイズ混じりのどす黒い紫へと変色を始めていた。
物理法則が悲鳴を上げている。
この世界は、一つの巨大な嘘を柱にして辛うじて形を保っているのだ。
「彼らの笑顔が見えないか?」
監査局の男が指差した先では、何も知らない親子がソフトクリームを舐め、風船を揺らしていた。
「我々は、残酷な真実から彼らのささやかな幸福を守っている。君が暴こうとしているのは正義ではない。この穏やかな日常を破砕するハンマーだ」
指が強張る。男の言う通りだ。
嘘の上に成り立つ平和だとしても、その温もりに罪はない。俺が手を離せば、空の色は戻り、あの子供は笑い続けるだろう。
だが、石碑の奥底から、圧殺された者たちの無言の振動が、俺の骨をきしませていた。
見ろ、と死者たちが言う。自分たちの犠牲の上に胡座をかいた、この欺瞞の世界を見ろ、と。
第三章 偶像の崩壊
俺は歯が砕けるほど奥歯を噛み締めた。
平和な家族の笑い声が、今は耳障りな不協和音となって脳を掻きむしる。
「……それでも、死者たちはまだ、死ねていないんだ!」
謝罪と共に、俺は石碑に爪を立て、知覚の限りを尽くして「蓋」をこじ開けた。
――カツ、カツ、カツ、カツ。
噴き出したのは、英雄の咆哮でも、怪物の叫びでもなかった。
無機質で、冷徹で、極めて事務的な「作業音」の奔流。
万年筆が紙を走る摩擦音。承認印を押す乾いた打撃音。数万人の男たちが一斉に咳払いをする湿気たノイズ。書類を捲る音、音、音。
それらが重なり合い、巨大なうねりとなって広場を飲み込む。
「これが、建国王の正体……」
一人の英雄など存在しなかった。そこにいたのは、冷酷な官僚機構。机上の計算だけで虐殺を命じ、歴史を改竄し、「王」という概念を作り上げたシステムそのものの音。
世界がバグを起こす。
石碑にヒビが入ると同時に、広場を取り囲む凱旋門が、まるで砂の城のようにさらさらと崩れ始めた。嘘で繋ぎ止められていた分子結合が解け、物理的な質量を維持できなくなったのだ。
監査局の男は、崩れゆく空を見上げ、祈るように目を閉じた。
「ああ……世界が、思い出してしまった」
最終章 血の残響
瓦礫の山となった広場で、人々は呆然と立ち尽くしている。
俺は崩壊した地下保管庫の跡地で、一枚の羊皮紙を拾い上げていた。建国王というシステムを設計した、最初の官僚たちの名簿。
歴史の膿を出し切る。それが、日常を壊した俺のせめてもの贖罪だ。
埃にまみれたリストの筆頭に、見覚えのある文字が並んでいた。
『初代歴史編纂総監:時野 奏』
胃の腑から熱いものが込み上げ、俺はその場に膝をついた。
視界が歪む。耳鳴りが、キーンという鋭い音から、どろりとした重低音へと変わる。
時野奏。俺の高祖父だ。
幼い頃、膝の上で優しく頭を撫でてくれた、あの温かい手の感触。
「響、お前は人の痛みがわかる子になりなさい」
あの優しい声が、今は脳内で醜悪に歪み、俺を嘲笑っていた。
俺の耳が過敏なのは、真実を暴くためではなかった。
不都合なノイズをいち早く感知し、それを隠蔽するために、一族の血脈が作り出した「検閲機能」だったのだ。
俺は、高祖父が築き上げた巨大な欺瞞を、彼から受け継いだ力で破壊したことになる。
口の中に、鉄錆と吐瀉物の味が広がった。
瓦礫の隙間から吹き抜ける新しい時代の風。
だが今の俺には、その風音さえも、自分の血管を流れる汚れた血がドクドクと脈打つ、不快な騒音にしか聞こえなかった。