忘却の調律師

忘却の調律師

0 3992 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:

第一章 鉄錆の甘露

俺の舌は、呪われている。

調 真(しらべ まこと)という名を持つ俺は、過去に起きた悲劇の感情を「味」として感じ取る。歴史の教科書に載るような古戦場跡に立てば、打ち捨てられた兵士の無念が泥臭い苦味となって舌を刺し、恋人たちの悲恋が語り継がれる橋の上では、叶わぬ想いが腐りかけた果実の甘さとなって喉を焼く。それは、単なる味覚ではない。感情の質量そのものを味わう、呪われた天賦の才だった。

近頃、世界はおかしくなっていた。『廻時』と呼ばれる現象が、日常を侵食し始めていたのだ。過去の特定の一日が、何の脈絡もなく現代の風景に上書きされる。人々はそれに慣れつつあった。数分で消える幻影だと割り切り、アスファルトの道路に忽然と現れる石畳を避け、スーツ姿の男たちの間を縫って歩く甲冑姿の武者を、珍しい鳥でも見るかのように眺める。彼らは意識を持たない『模倣体』。過去の記録をなぞるだけの、空っぽの人形だ。

だが俺には、その光景がただの幻影ではなかった。廻時が起きるたび、舌の上に無数の悲劇の味が洪水のように押し寄せる。その中でも、特に俺の心を捉えて離さない場所があった。都心の一角にある、古い噴水を囲む石畳の広場。そこでは、決まって同じ廻時が繰り返される。そして、俺の舌はいつも同じ味を感じ取っていた。

それは、裏切りという名の氷片を噛み砕いたような冷たさと、決して届かなかった願いが甘美に腐敗していくような、背徳的な甘露の味。何十、何百という人間の絶望が凝縮され、熟成された、あまりにも濃厚な悲劇の味だった。その味は、この広場が何か途方もない出来事の中心であったことを、俺に告げていた。

第二章 無銘の木片

「また、あの広場か」

薄暗い資料室で、古書に埋もれるように座っていた老人が顔を上げた。彼は、俺の数少ない協力者であり、この奇妙な現象を長年研究している歴史学者の伊集院だった。

「あそこの廻時は異常だ。まるで過去が、現在を喰らおうとしているように見える」

俺の言葉に、伊集院は頷き、埃をかぶった桐の箱を差し出した。中には、長さ十五センチほどの乾いた木片が一本、静かに横たわっていた。

「『無銘の香木』だ。ある遺跡から発掘された、年代不明の木片でな。君の能力なら、これが何かの役に立つかもしれん」

ただの木片にしか見えない。だが、それを手に取った瞬間、俺は指先に微かな温もりを感じた。広場で感じたあの味を思い浮かべながら、香木を鼻先に近づける。

瞬間、世界が変わった。

舌の上で平面的に感じていたあの味が、嗅覚を通して立体的な情景となって脳内に流れ込んできたのだ。氷のような裏切りの味は、天を衝くほどの塔から突き落とされる感覚に。甘美な腐敗の味は、星空の下で交わされた永遠の約束が、目の前で灰燼に帰す光景に。そして、その二つの感情の奥底に、さらに巨大な何かが潜んでいるのを感じた。それは、一つの世界そのものが発する、途方もない質量を持った「後悔」の匂いだった。

その日から、廻時はさらに激しさを増した。超高層ビルの谷間に鬱蒼とした古代の森が出現し、地下鉄のホームに打ち寄せる波の音が響く。香木は、廻時が強まるにつれて、形容しがたい異臭を放ち始めた。それは数多の悲劇の香りが混じり合った、世界の断末魔のような匂いだった。そして俺は、その異臭の向こうに、白い都市の幻影を垣間見るようになっていた。

第三章 模倣体の囁き

意を決し、俺は香木を手にあの広場へと向かった。すでに廻時は始まっていた。現代的なカフェやブティックは姿を消し、周囲は見渡す限りの白亜の建築物が並ぶ、神殿のような都市に変貌していた。空には二つの月が浮かび、人々は見たこともない意匠の純白の衣を纏って広場を行き交っている。彼らは皆、過去の記録を再生するだけの模倣体だ。

俺は香木を強く握りしめ、模倣体の群れの中を歩いた。彼らの顔に表情はない。ただ、決められた役割を演じているだけ。そのはずだった。

ふと、一人の少女の模倣体が足を止め、俺をじっと見つめた。その瞳には、空虚であるはずの模倣体にはありえない、確かな光が宿っていた。彼女の唇が、かすかに動く。音はなかった。だが、香木を通して、その声は直接俺の魂に響いた。

『忘れないで』

その囁きが聞こえた瞬間、凄まじい幻覚が俺を襲った。天を突くほど巨大な、光り輝く樹。その樹の周りで祈りを捧げる白き衣の人々。そして、彼らが何かを試み、失敗し、世界そのものに亀裂が入る瞬間。全てが光に飲み込まれ、途方もない後悔の念だけが、虚空に木霊した。

幻覚から覚めた俺は、広場の中心で膝をついていた。廻時は終わり、世界は元の姿に戻っている。だが、俺は確信していた。あの幻覚こそが、この世界を蝕む廻時の根源であり、忘れ去られた真実の姿なのだと。

第四章 欠けたる歴史の味

世界は、崩壊の瀬戸際にあった。廻時はもはや特定の場所にとどまらず、地球全土を覆い尽くすモザイク模様のように過去と現在を入り混ぜ、時空の構造そのものを破壊し始めていた。空にはローマ時代の戦闘機が飛び、深海には縄文土器が沈んでいる。世界の終わりは、静かに、しかし着実に進行していた。

俺は走りながら考えていた。あの幻覚。あの白亜の都市。あの巨大な樹。そして、あの広場。全ての答えは、そこにある。

広場に戻った俺は、噴水の前に立ち、足元の石畳を見つめた。幻覚で見た光景と、現在の広場の構造を頭の中で重ね合わせる。中心はここだ。俺は近くにあった工事用の鉄パイプを掴むと、力任せに石畳の一枚に突き立てた。何度も、何度も。硬い感触の後、ついに石畳が砕け、その下には暗い空洞が口を開けていた。

地下へと続く、螺旋階段。

階段の先には、信じられない光景が広がっていた。そこは、歴史のいかなる記録にも存在しない、白亜の文明の遺跡だった。壁には未知の文字が刻まれ、中央には枯れ果てた巨大な樹の根が、祭壇のように鎮座していた。あの香木は、この聖樹の一部だったのだ。

祭壇に近づいた瞬間、俺の全身を、これまでに経験したことのない強烈な「味」が貫いた。

それは、一つの文明が遺した、究極の「後悔」の味だった。

彼らは、時間を超越しようとした。永遠の平穏を求め、世界の時間を固定しようとしたのだ。しかし、その試みは失敗し、彼らの文明そのものを時間の流れから切り離し、歴史から抹消してしまった。彼らの存在は世界から消え、ただ「時間を止められなかった」という巨大な後悔の感情エネルギーだけが、この世界に呪いのように浸透した。それが廻時の正体。存在を消された文明が、世界に遺した最後の悲鳴だった。

第五章 忘却の調律

この味を、この後悔を、終わらせなければならない。

俺の能力は、このためにあったのだ。

俺は枯れた聖樹の根に手を置いた。そして、目を閉じ、意識を集中させる。俺の全存在をかけて、この呪われた味を喰らい尽くす。

「う、おおおおっ……!」

声にならない叫びが漏れた。舌が焼け、脳が沸騰するような感覚。一つの文明が犯した過ちの全て、数億、数兆の人々の後悔、絶望、悲しみが、濁流となって俺の中に流れ込んでくる。時間の概念が崩壊し、意識が無限に引き伸ばされ、そして千切れそうになる。だが、俺は歯を食いしばり、その味を受け止め続けた。

世界が、静かになっていくのが分かった。

空を飛んでいた古代の船が蜃気楼のように消え、街角に佇んでいた恐竜の影が薄れ、世界はゆっくりと、本来あるべき一つの時間の流れへと収束していく。廻時が、止まっていく。

代償は、すぐに訪れた。

俺の指先から、身体が透け始めていた。それだけではない。俺の頭の中から、伊集院の顔が、彼の声が、少しずつ霞んでいく。違う。俺の記憶が消えるのではない。彼の記憶から、俺が消えていくのだ。俺という存在が、この世界から、人々の認識から、歴史の記述から、今まさに抹消されつつあった。

階段の上から、心配そうにこちらを覗き込んでいた伊集院の顔が見える。彼の瞳から、俺という存在を認識する光が、ふっと消えた。彼は怪訝な顔で首を傾げ、何事もなかったかのように立ち去っていった。

俺は、世界から忘れられた。

第六章 味のない世界

廻時は、完全に止まった。

世界は救われ、人々は何事もなかったかのように日常を営んでいる。空は青く、街には活気が戻り、子供たちの笑い声が響く。それは、俺が守りたかった光景そのものだった。

だが、その世界に、もはや俺の居場所はなかった。誰も俺を知らない。誰も俺を覚えていない。調 真という人間が存在した記録は、どこにも残っていない。

俺は街を歩く。

すれ違う人々の顔を見ても、もう何も感じなかった。かつてあれほど俺を苦しめた、他人の感情の味が、一切しない。喜びも、悲しみも、怒りも、愛も。俺の舌は、ただの肉塊になっていた。俺は、世界から忘れ去られた、味のない存在になったのだ。

ふと、ポケットに手を入れると、乾いた木片の感触があった。『無銘の香木』。それはもう何の力も持たない、ただの木切れになっていた。

俺はそれを強く握りしめる。

誰も知らない。誰も覚えていない。この平和が、歴史から消えた一つの文明の巨大な後悔と、たった一人の男の犠牲の上に成り立っていることを。

俺は空を見上げた。突き抜けるような青空だ。

忘れられた存在になることは、苦いだろうか。酸っぱいだろうか。

分からない。

だが、この静かで穏やかな世界の風景だけが、味を失った俺の魂に、微かな温かみを残してくれている。それこそが、俺だけが知る、この世界の本当の味なのかもしれない。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る