***第一章 白紙の歌声***
柏木奏(かしわぎ そう)の指先には、歴史の幽霊が棲みついていた。古文書修復師である彼にとって、それは天職であると同時に、逃れられない呪いでもあった。古びた和紙に触れると、奏の脳裏には、その紙が漉かれた時代の「音」が流れ込んでくるのだ。墨を磨る微かな音、筆が走る衣擦れ、遠くで聞こえる市井のざわめき。それらは大抵、心地よい時間の残響に過ぎなかった。しかし、時折、記録されることのなかった声――悲鳴や、押し殺した嗚咽、密やかな裏切りの囁きが、彼の精神を鋭く苛むことがあった。
だから奏は、仕事以外の時間は極力、古いものに触れないように生きてきた。彼の日常は、清潔で無機質なものばかりで彩られていた。そんな彼のもとに、奇妙な依頼品が持ち込まれたのは、初夏の光が仕事場の埃を金色に照らし出す、ある日の午後だった。
依頼主は、旧家の当主を名乗る物静かな老人だった。彼が桐の箱から取り出したのは、一見するとただの白紙の束だった。黄ばみ、端が脆くなった和紙が百枚ほど。しかし、そこには墨の痕跡一つ、染み一つ見当たらない。
「蔵の奥深くに、これだけが祀られるように保管されておりました。我が家の歴史にも、これが何であるかの記録が一切ないのです。ただ、『決して開いてはならぬ』とだけ……。柏木先生の腕ならば、何か分かるのではないかと」
奏は頷き、白い手袋をはめると、恐る恐る一番上の紙に指先で触れた。
その瞬間、世界が音を失った。いつものような雑多な時間の残響ではない。全ての音が消え去り、真空の静寂が鼓膜を圧迫した。そして、その静寂の深淵から、一つの歌声が立ち上ってきた。
言葉のない、女の歌声。
それは、悲しみ、怒り、絶望、そして祈り、あらゆる感情を溶かし込んで結晶にしたような、凄絶な旋律だった。聞いたこともない音階で紡がれるその歌は、魂を直接鷲掴みにするような力を持っていた。奏は思わず息を呑み、紙から手を引いた。心臓が氷水に浸されたかのように冷たく、激しく脈打っている。これまで聞いてきたどんな「消された声」とも違う。これは、歴史そのものから抉り取られ、封印された魂の叫びだ。
「……何か、お分かりに?」
老人の声にはっと我に返る。奏はかぶりを振ったが、その瞳には隠しきれない動揺が浮かんでいた。白紙の束は、沈黙したまま、底知れない謎をたたえて彼の目の前に横たわっている。この歌声の正体を突き止めなければならない。それは修復師としての好奇心を超えた、抗いがたい使命感のようなものだった。
***第二章 墨の痕跡***
奏は数日間、その白紙の束と向き合い続けた。触れるたびに聞こえる歌声は、彼の心を蝕んでいく。眠りは浅くなり、夢と現実の境で、あの旋律が繰り返し響いた。彼はまず、物理的な痕跡を探ることにした。マイクロスコープで紙の繊維を覗き、様々な波長の光を当ててみる。しかし、結果は変わらなかった。ただの、古い白紙。
万策尽きた奏は、疎遠になっていた祖父を訪ねることにした。祖父は引退した歴史学者で、この町のはずれにある古い屋敷で、膨大な書物と共に暮らしている。奏の持つ奇妙な能力について知る、唯一の人物でもあった。
「白紙の古文書、か。そして言葉のない歌……」
書斎の重厚な革張りの椅子に深く腰掛け、祖父は煙管をふかしながら言った。その皺深い目は、何かを見透かすように奏を見つめている。奏が持参した白紙の一枚を、祖父は慣れた手つきで受け取ると、ルーペでしげしげと眺めた。
「奏よ。お前のその耳は、時として真実を歪める。だが、時として我々が見ようとしない真実を暴きもする。……一つ、試してみるか」
祖父は書斎の奥から、薬品の入った小瓶と筆を取り出してきた。それは、炙り出しに使われる古くからの手法だった。奏は息を殺して見守る。祖父が薬品を塗った筆を和紙の上で滑らせ、アルコールランプの柔らかな炎でゆっくりと炙り始めると、信じられないことが起こった。
何もなかったはずの紙の上に、淡い褐色の線が、まるで血管が浮き出るようにじわりと現れ始めたのだ。それは文字ではなかった。奇妙な記号の連なり――古代の楽譜だった。
「これは……」
「『亡国の譜』かもしれん」と、祖父は静かに言った。「かつてこの地に、歴史から完全に抹消された小国があったという伝説がある。非常に豊かな文化を持っていたが、ある夜、隣接する大国によって滅ぼされ、その存在の痕跡、書物、歌、言葉に至るまで、全てが焼き尽くされたと。生き残った者はなく、その国の名は歴史の闇に葬られた」
歌声は、その国で歌われていたものなのか。奏の胸に、ひとつの仮説が芽生える。これは、滅びゆく国を悼んで歌われた、最後の鎮魂歌(レクイエム)なのではないか。だとすれば、この楽譜を復元することは、忘れられた歴史に光を当てることにつながる。奏の心に、これまで感じたことのない熱い使命感が込み上げてきた。彼は、この白紙の束に込められた魂を、現代に蘇らせることを決意した。
***第三章 継承されし罪***
楽譜の復元作業は困難を極めた。奏は残りの九十九枚の白紙にも同じ処理を施し、パズルのピースを組み合わせるように、巨大な一つの楽曲を再構築していった。彼の耳に響く歌声が、その唯一の道標だった。旋律が繋がるにつれて、歌に込められた感情はより鮮明になり、彼の心を激しく揺さぶった。それは、単なる悲しみではなかった。もっと深く、暗く、燃えるような何かが、その根底に渦巻いていた。
全ての楽譜を繋ぎ終えた日、奏は完成した譜面を手に、再び祖父の屋敷を訪れた。達成感に満ちた彼を、しかし、祖父は沈鬱な表情で迎えた。
「……全て、繋いだか」
書斎には、あの依頼主の老人も待っていた。奏が訝しげに二人を見つめると、祖父は重い口を開いた。
「奏よ。お前に話さねばならんことがある。我々、柏木家の本当の歴史についてだ」
祖父の言葉は、奏の世界を根底から覆すものだった。
歴史から抹消された小国。それを一夜にして滅ぼし、その文化を根絶やしにした大国。その先兵として、最も残虐な役割を果たした一族こそが、柏木家だったのだ。
「我々の祖先は、ただ国を滅ぼしただけではない。その国の文化が持つ強大な『力』を恐れ、その存在自体を歴史から消し去ろうとした。歌、言葉、文字、全てを禁じ、書物を焼いた。この白紙の束は、その際に焚書から免れた唯一の遺物だ。だが、これは鎮魂歌などではない」
奏は血の気が引くのを感じた。では、あの歌は一体何なのだ。
「それは、『呪いの歌』だ」と、祖父は続けた。「国の最後の王女が、民の血と涙で書き上げ、自らの命と引き換えに歌ったという。その旋律は、国を滅ぼした者たちの血筋を永遠に苛み、その繁栄を蝕むとされた。我々の祖先はそれを恐れ、楽譜をバラバラにし、特殊な墨でその呪力を封じ込めた。それが、お前の目には白紙に見えたものの正体だ」
依頼主の老人――柏木家の分家の長老は、静かに頭を下げた。彼らが奏にこれを託したのは、代々伝わる封印が薄れ、呪いが再び活性化する兆候が見られたからだった。そして、奏の持つ能力こそが、この呪いを完全に解読し、そして再び封じるための唯一の鍵だと考えたのだ。
奏は愕然とした。自分の能力は、歴史の被害者の声を聞くためのものではなかった。加害者である自らの一族が犯した罪の残響を、その罪悪感と恐怖の念を聞き続けるための、血に刻まれた「呪い」そのものだったのだ。彼が聞いていた悲痛な歌声は、鎮魂の祈りではなく、自分自身に向けられた怨嗟の叫びだった。足元の床が崩れ落ち、暗い歴史の奈落へと落ちていくような感覚に襲われた。
***第四章 沈黙は謳う***
数日間、奏は仕事場に閉じこもった。自分が、虐殺者の血を引く末裔であるという事実。彼のアイデンティティは粉々に砕け散った。復元した楽譜は、おぞましい呪物として机の上に横たわっている。これを再び封印し、歴史の闇に葬り去ることこそが、柏木家としての「正しい」選択なのだろう。
だが、彼の耳には、今もあの歌声が響き続けていた。呪いだと知った今、その旋律はより一層、悲痛に、そして切実に聞こえた。これは本当に、ただの憎しみの歌なのだろうか。いや、違う。これは、忘れられることへの抵抗だ。存在したという証を、未来の誰かに届けようとする、魂の最後の叫びだ。
奏は決意した。
彼は、一族の罪から目を背けない。この歌を封印するのではなく、世界に解き放つ。それは呪いを成就させるためではない。抹消された歴史の真実を白日の下に晒し、名もなき人々の魂に、あるべき鎮魂を与えるためだ。それは、加害者の末裔である自分にしかできない、唯一の贖罪だった。
奏は、復元した楽譜を現代の五線譜に書き起こし、『白紙のレクイエム』と名付けた。そして、旧知の指揮者に全てを打ち明け、オーケストラによる演奏を依頼した。
演奏会の日。満員のホールは静まり返っている。奏は客席の片隅で、固唾を飲んで舞台を見つめていた。指揮者のタクトが振り下ろされ、最初の音が奏でられる。
弦楽器が奏でる低く、うねるような旋律は、大地を追われた民の嘆きのように響いた。やがて木管楽器が加わり、それは故郷を懐かしむ悲哀の歌となる。そして、全ての楽器が一体となった瞬間、ホール全体が、あの言葉のない絶唱に包まれた。それは、聴く者の胸を締め付けるような悲痛な叫びでありながら、同時に、決して屈しない生命の力強さを感じさせる、荘厳な調べだった。
呪いと呼ばれた旋律は、憎しみを超えた普遍的な祈りへと昇華されていった。聴衆は皆、涙を流していた。彼らは、滅ぼされた国の名も歴史も知らない。だが、音楽を通して、忘れられた人々の魂の叫びを、その痛みと尊厳を、確かに感じ取っていた。
最後の音が長い余韻を残して消えたとき、ホールは万雷の拍手に包まれた。その瞬間、奏の頭の中から、ふっと全ての音が消え去った。あの歌声も、歴史の残響も、何も聞こえない。ただ、穏やかで完全な静寂だけが、彼の内側を満たしていた。
能力が消えたのか、それとも呪いが解けたのか、奏には分からなかった。だが、彼は知っていた。歴史とは、勝者が記した文字の連なりではない。それは、沈黙の中に葬られた無数の声に耳を傾け、その魂を未来へ語り継ごうとする、終わりのない対話なのだと。
彼は、空っぽになった心で、しかし確かな一歩を踏み出すために、静かに立ち上がった。拍手は、まだ鳴りやまなかった。それはまるで、長い沈黙の果てに、ようやく歴史が本来の声を、その歌を取り戻したことを祝福しているかのようだった。
白紙のレクイエム
文字サイズ:
この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?
あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。
0 / 200
本日、あと3回