第一章 懐中時計の最後の鼓動
神保町の古書店街の喧騒から一本裏路地に入った場所に、柏木湊が働く骨董品店「時の澱(ときのおり)」は、まるで時間を堰き止めた淀みのように静かに佇んでいた。煤けた看板、蔦の絡まる煉瓦造りの壁。店内に足を踏み入れると、古い木とインク、そして微かな黴の匂いが混じり合った、独特の空気が鼻腔をくすぐる。湊にとって、それは外界の騒々しさから身を守るための、心地よい結界の香りだった。
湊には秘密があった。彼は、物に触れることで、その物が最後に経験した強烈な感情とそれに付随する記憶の断片を読み取ってしまう、いわゆるサイコメトラーだった。しかし、彼が感じ取れるのは、喜びや平穏といった穏やかな感情ではない。死の恐怖、裏切りの絶望、狂おしいほどの愛憎――。魂が引き千切れるような、極限の情念だけが、彼の神経を焼き付けた。
その能力ゆえに、湊は生きた人間との関わりを極力避けていた。握手も、肩が触れ合うことさえも苦痛だった。だからこそ、持ち主を失い、感情の奔流が過去のものとなった古物たちに囲まれるこの仕事は、彼にとって唯一の安息の地だったのだ。彼は歴史が好きだったが、それはあくまで書物の上に整然と並べられた、感情の抜け落ちた事実としてだった。生々しい感情の奔流からは、目を背け続けてきた。
ある雪のちらつく冬の午後、店の扉が軋み、古風な格好をした老婦人が入ってきた。彼女は桐の箱を大切そうに抱え、震える手でそれをカウンターに置いた。
「主人が遺したものです。価値があるのか分かりませんが、どなたか大切にしてくださる方に」
箱の中には、鈍い銀色の光を放つ懐中時計が鎮座していた。精緻なアラベスク模様が彫り込まれた蓋。湊は、その時代がかった美しさに息をのんだ。礼を言って受け取ろうと、白手袋をはめた指先が時計に触れた、その瞬間だった。
――世界が、反転した。
全身を貫く、氷のような衝撃。背中に突き立てられた刃物の、肉を裂く鈍い感触。そして、耳朶を打つのは、降りしきる雪の音と、自らの喘ぎ声だけ。視界が急速に白んでいく。薄れゆく意識の中、絞り出された声が、湊自身の喉から漏れた。
「なぜだ……友よ」
絶望と、信じていたものに裏切られた深い悲哀。その凄まじい情念の渦が、湊の精神を激しく揺さぶった。彼はカウンターに手をついて、かろうじて立っているのがやっとだった。
「……大丈夫かね、若いの」
老婦人の心配そうな声で、湊は我に返った。額には脂汗が滲み、呼吸は浅く速い。
「いえ、すみません。少し、立ちくらみが……」
なんとか取り繕い、老婦人を見送った後、湊は改めて懐中時計を睨みつけた。時計の裏蓋には、『M.K.』というイニシャルが刻まれている。湊の脳裏に、大学の史学科で学んだある事件が閃光のように蘇った。
明治二十年代、雪の夜に暗殺された急進派の若き政治家、桐山正臣(きりやま まさおみ)。犯人は見つからず、政敵による暗殺説が囁かれたまま、事件は歴史の闇に葬られた。未解決事件。彼のイニシャルは、Masatomi Kiriyama。
湊は、自分が今、歴史の迷宮の入り口に立たされていることを悟った。そして、これまで頑なに避けてきた、歴史の裏側に渦巻く生々しい魂の叫びに、否応なく引きずり込まれようとしていた。
第二章 万年筆に滲む悲哀
あの日以来、懐中時計は湊の心を捉えて離さなかった。「なぜだ、友よ」。桐山の最後の言葉が、仕事中も、眠りにつこうとする夜も、繰り返し脳内で再生された。歴史書によれば、桐山の唯一無二の親友は、穏健派の政治家、長谷部蒼介(はせべ そうすけ)だった。思想こそ違えど、二人の友情は政界でも有名だったという。その親友が、なぜ。
湊は、これまで踏み込むことを躊躇していた領域に、自ら足を踏み入れる決意をした。彼はただの傍観者でいることに耐えられなくなっていた。忘れ去られた魂の叫びに、耳を傾けなければならない。そんな使命感にも似た感情が、彼の内側で静かに燃え始めていた。
湊は古物商のネットワークを駆使し、数週間かけて長谷部蒼介の縁者を探し当てた。そして、彼が晩年まで愛用していたという一本の万年筆を譲り受けることに成功した。黒檀の軸に銀の装飾が施された、気品のある万年筆。湊は店の奥で一人、深呼吸を一つすると、震える指でその冷たい軸に触れた。
流れ込んできたのは、暴力的な衝撃ではなく、深く、静かで、底なしの悲しみだった。
インクの匂いが立ち込める書斎。ランプの灯りが、長谷部の苦悩に満ちた横顔を照らしている。彼は、桐山の訃報を伝える新聞記事を前に、ただ静かに涙を流していた。友を失った喪失感。もっと言葉を尽くせば、彼を止められたのではないかという後悔。そして、何よりも強烈だったのは、事件の真相を知りながら、それを闇に葬るしかないという無念の情だった。
『すまない、桐山。私には、何もかもを公にする勇気がなかった。君の理想も、君の名誉も……そして、彼女の願いも、守れなかった』
記憶の断片は、そこで途切れた。彼女とは誰だ? 長谷部は犯人を知っていた。だが、それを公にできなかった。なぜ? 彼の悲哀は、桐山への友情から来るものだけではない。そこには、もっと複雑で、語ることのできない何かが絡みついているようだった。
湊は万年筆から指を離し、窓の外に目をやった。日は傾き、店の前の路地を茜色に染めている。定説通り、犯人は政敵の刺客だったのだろうか。そして長谷部は、さらなる政争を恐れて真相を隠蔽したのか。だが、それだけでは説明がつかない、あの言いようのない苦悩の深さ。湊の心には、新たな謎が生まれていた。懐中時計の絶望と、万年筆の悲哀。二つの遺品が語る記憶は、食い違い、もつれ合い、湊を歴史のさらなる深みへと誘っていくようだった。
第三章 写真立ての中の告白
「彼女」という言葉が、湊の思考に楔のように打ち込まれていた。桐山正臣の妻、小夜子。歴史の記録では、彼女は病弱で社交界にもほとんど顔を出さず、夫の死後、ひっそりと郷里で余生を過ごしたと記されているだけだった。歴史の表舞台に立つことのなかった、影のような存在。しかし、長谷部の記憶にあった「彼女の願い」という言葉は、小夜子がこの事件の単なる被害者家族ではないことを示唆していた。
湊は再び調査に没頭した。桐山夫妻が住んでいた屋敷の跡地は、今では小さな公園になっている。だが、その屋敷の近くには、当時から変わらず一つの古い教会が建っていた。湊は藁にもすがる思いで教会を訪ね、老いた神父に事情を話した。神父は古い記録をめくり、教会がかつて慈善バザーを開いた際に、桐山家から寄贈された品があることを教えてくれた。それは、銀細工の施された、小さな写真立てだった。
埃をかぶったそれを手に取った瞬間、湊は息を止めた。ガラスの向こうには、セピア色の写真。そこに写っているのは、若き日の桐山正臣と、その隣で儚げに微笑む妻、小夜子の姿だった。湊は意を決して、写真立ての冷たい銀の縁に、そっと指を触れさせた。
――視界が、柔らかな光に包まれた。
それは、教会のステンドグラスを透かした、午後の光だった。小夜子の視点だった。彼女は長谷部と二人きりで、懺悔室のような小部屋にいた。彼女の華奢な指は固く組まれ、その声は祈るように震えていた。
「お願いです、長谷部様。主人を、止めてください」
小夜子の記憶から溢れ出すのは、夫への深い愛と、それと同じくらい深い恐怖だった。彼女は、夫の理想が、国を思う純粋な情熱が、いつしか狂信的な破壊衝動へと変質していくのを、誰よりも近くで感じていた。
「あの方は、もう誰の声も届きません。このままでは、多くの血が流れるだけでなく、あの方自身が破滅してしまう。それは、あの方の魂が死んでしまうことなのです」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「愛しているからこそ、止めなければ。たとえ、どんな手段を使ってでも……。長谷部様、あなたしかいないのです。友である、あなたにしか……」
それは、暗殺の依頼ではなかった。だが、結果的にそうなってしまった、悲痛な願いの告白だった。長谷部は、友の暴走を止めるため、そして友が愛した女性の願いを叶えるため、政敵に桐山の行動計画を密告したのだ。暗殺までは意図していなかったかもしれない。だが、結果は変わらない。彼は友を裏切り、小夜子は愛する夫を死に追いやる引き金を引いた。共犯者。それが、歴史の記録には決して残らない、二人の関係の真実だった。
湊は呆然と写真立てを見つめた。桐山の最後の言葉、「なぜだ、友よ」という絶望。それは、親友である長谷部への言葉であると同時に、自分が心から愛し、信じていた妻への言葉でもあったのかもしれない。雪の夜の裏切りは、一つの単純な憎悪ではなく、愛と友情と理想が複雑に絡み合った末に生まれた、あまりにも悲しい悲劇だったのだ。
第四章 声なき者たちの対話
真実を知った湊を待っていたのは、達成感ではなかった。むしろ、それは声なき者たちの痛みを受け止める、ずしりとした重みだった。歴史とは、勝者や権力者が記した事実の連なりではない。その行間に埋もれ、忘れ去られていった無数の人々の、言葉にならない感情の堆積なのだ。湊は、初めてそのことを肌で理解した。
彼はこれまで、自らの能力を呪い、他者の感情という奔流から必死に逃げてきた。古物に囲まれた静寂は、安息の地であると同時に、感情からの逃避場所でもあった。しかし、桐山と長谷部、そして小夜子の魂に触れた今、その考えは大きく変わっていた。彼らの痛み、愛、苦悩は、決して目を背けていいものではなかった。忘れ去られるには、あまりにも切実で、人間的だった。
数日後、湊は店の片隅にある小さなガラスケースを丁寧に磨き上げた。そして、その中央に、桐山の懐中時計と、小夜子の写真立てをそっと並べて置いた。二つの品は、まるで長い時を経て再会した恋人たちのように、静かに寄り添っているように見えた。
湊は、もう二度とそれらに触れることはないだろう。彼らの記憶をこれ以上覗き見る必要はなかった。真実を世間に公表するつもりもなかった。それは、彼らの魂を再び衆目に晒し、安らかな眠りを妨げる行為に思えたからだ。彼にできるのは、この小さな骨董店の片隅で、彼らの物語を静かに見守り、記憶の番人となることだけだった。
夕暮れの光が店内に差し込み、二つの銀製品に柔らかな光の輪郭を与える。湊には、まるで懐中時計と写真立てが、誰にも聞こえない声で対話しているかのように感じられた。絶望と後悔、愛と恐怖。百年もの間、別々の場所で沈黙を強いられてきた魂たちが、ようやく互いの存在を確かめ合っている。
湊は、その光景を静かに見つめていた。彼の表情からは、かつての諦念に満ちた影は消え、代わりに穏やかで深みのある光が宿っていた。彼は、呪いだと思っていた自らの能力に、初めて意味を見出したのかもしれない。歴史の澱の中に沈んだ、声なき者たちの魂の響きに耳を澄まし、それに寄り添うこと。それが、自分に与えられた役割なのだと。
店の扉を開け、冬の冷たい空気を吸い込む。街の喧騒が、以前よりもずっと優しく聞こえた。湊は、これから出会うであろう数多の古物と、そこに眠る魂たちの物語に、静かに思いを馳せる。彼の時間は、もう止まってはいなかった。歴史と共に、静かに、だが確かに、流れ始めていた。