忘却のクロニクル

忘却のクロニクル

0 4674 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 沈黙するインク

カイの指先が、羊皮紙の上を神経質に滑る。中央記録院の地下書庫は、乾燥した紙と古いインクの匂いで満ちていた。彼の仕事は「記録官」。人々から忘れ去られ、その存在が希薄になった歴史を、古文書や遺物から「再定着」させること。歴史とは、確定され、記録され、不変であるべきもの。それがカイの揺るぎない信念だった。

今回の任務は、辺境の山村「セドナ」の創生史の再定着。三百年前、不毛の地に突如として豊かな水が湧き、村が生まれたという記録。しかし、その奇跡を祝うために作られたという「水呼びの子守唄」が、今や誰にも歌われなくなり、歴史そのものが消滅の危機に瀕しているという。歴史の消滅は、単なる忘却ではない。それは物理的な崩壊を意味する。忘れられた歴史に紐づく土地は活力を失い、建物は崩れ、人々は理由のわからぬ虚無感に苛まれる。

カイはセドナ村に関する主要文献を目の前に広げ、眉をひそめた。昨日まで確かにそこにあったはずの記述が、僅かに薄れている。インクが紙に染み込むのをやめ、まるで自ら光の中へ溶けていこうとするかのように、輪郭が曖昧になっているのだ。

「またか……」

カイは特殊な拡大鏡を手に取った。レンズ越しに見える文字は、儚い陽炎のように揺らめいている。「偉大なる族長アランが、祈りによって聖なる泉を……」という一文が、今は「……なる族長……が、祈り……って……泉を……」と、虫食いのように抜け落ちている。

これは異常な速度だった。通常、歴史の希薄化は数十年、数百年という単位で緩やかに進む。だが、セドナ村の歴史は、まるで誰かが意図的に消しゴムでこすっているかのように、日ごとにその存在感を失っていた。

カイの背筋を、冷たいものが走った。これは単なる忘却ではない。何か巨大な力が、この村の歴史を世界から抹消しようとしている。彼の記録官としての誇りが、この不可解な現象の解明へと駆り立てた。彼は最小限の調査用具を鞄に詰め込むと、沈黙を続けるインクに別れを告げ、原因の渦中にあるセドナ村へと向かうことを決意した。そこには、彼の信じる「固定された歴史」を根底から揺るがす真実が待ち受けていることなど、知る由もなかった。

第二章 忘れられた子守唄

セドナ村に漂う空気は、澱んでいた。石造りの家々は古びてはいるが、崩壊しているわけではない。だが、村全体が色褪せた絵画のように、生気を失っている。村人たちの瞳には、何か大切なものを探しているかのような、漠然とした不安の色が浮かんでいた。カイが記録院で見た、物理的な崩壊の前兆だった。

彼は村長の家を訪ね、事情を説明した。やつれた顔の村長は、力なく首を振るばかりだ。

「水呼びの子守唄、ですか。……そういえば、そんな歌があったような気もします。祖母が歌ってくれたような……しかし、どんな旋律で、どんな歌詞だったか、今では誰も……」

カイは村で聞き込みを続けたが、答えは同じだった。誰もが歌の存在は朧げに認識しているものの、その具体的な中身を記憶している者はいなかった。まるで、夢の中で聞いた音楽のように、掴もうとすると指の間からすり抜けていく。

諦めかけたその時、一人の少年がカイの袖を引いた。

「村はずれのエナばあちゃんなら、知ってるかもしれない」

少年が指さす先には、丘の上に立つ一軒の小さな家があった。カイがその家を訪れると、深い皺の刻まれた顔の老婆が、穏やかな瞳で彼を迎えた。エナと名乗る老婆は、カイの話を聞くと、ゆっくりと頷いた。

「ああ、あの歌かい。わしが、おそらくこの村で最後にあの歌を覚えている者じゃろうな」

カイの目に光が宿った。彼はすぐさま記録用のペンと紙を取り出す。「どうか、その歌を教えてください。一言一句、正確に記録し、歴史を再定着させなければなりません」

しかし、エナは静かに首を横に振った。

「お若いの。歴史というのは、紙の上にインクで書き留めておけるようなもんじゃないよ。それはただの『事実』の抜け殻じゃ」

彼女は自身の胸に、皺だらけの手を置いた。

「本当の歴史は、ここにある。人の胸の温もりと、痛みと、喜びと……そういうものと一緒に伝わっていくもんじゃよ。あんたに歌を教えることはできる。じゃが、あんたが探しているものは、そこにはないかもしれん」

カイには老婆の言葉の意味が理解できなかった。歴史とは客観的な事実の連なりであり、そこに個人の感情が入り込む余地はない。それが記録官の鉄則だ。彼は、エナの哲学的な物言いを、老いによる感傷だと片付けようとした。

それでも、唯一の手がかりであることに変わりはない。彼はエナの前に座り、彼女が紡ぎ出す、掠れた、しかし芯のある歌声に耳を澄ませた。その旋律は、カイが想像していたような、明るく祝祭的なものではなかった。どこか物悲しく、祈るような、鎮魂歌にも似た響きを持っていた。

第三章 贖罪の旋律

カイは数日をかけて、エナが歌う子守唄を五線譜と羊皮紙に写し取った。だが、作業を進めるうちに、彼は拭いがたい違和感に苛まれていた。歌詞は断片的で、泉が湧いた奇跡を直接的に讃える言葉は見当たらない。「影に飲まれた谷」「流された涙」「石の下の沈黙」といった、不可解で不吉な言葉が並んでいたのだ。

「この歌詞は、村の創生を祝うものには思えません。まるで、何かを悼んでいるかのようです」

カイが問いかけると、エナは窓の外に広がる穏やかな谷を見つめながら、静かに口を開いた。

「……あんたは、真実が知りたいのかい?たとえそれが、あんたや、この村の人々を深く傷つけるものだとしても」

カイは唾を飲んだ。記録官として、彼の任務は事実を明らかにすることだ。彼は迷わず頷いた。

エナは、重い記憶の扉を開けるように、ゆっくりと語り始めた。

「三百年前、この土地には二つの村があった。わしらの祖先が住むセドナと、谷の向こうにあった小さな集落……名を『ミナ』といった」

当時、この一帯は深刻な水不足に喘いでいた。セドナの族長アランは、一つの水源を見つけたが、その水は細く、二つの村を潤すには到底足りなかった。

「アランは決断した。ミナの村を……犠牲にすることを」

カイの心臓が凍りついた。記録にあった「偉大なる族長アラン」の姿が、音を立てて崩れていく。

「セドナの者たちは夜陰に紛れてミナの村を襲い、水源を独占した。抵抗した者たちは殺され、村は谷の底に沈められた……。今のこの豊かな土地は、ミナの人々の涙と血の上に成り立っておるんじゃよ」

「そんな……記録には、祈りによって泉が湧いたと……」

「そう記録させたのさ。自分たちの罪を隠し、後ろめたさから逃れるためにな。じゃが、人の心は嘘をつけん。罪の意識は、いつしか贖罪の歌を生んだ。それが、あの子守唄の正体じゃ」

水呼びの子守唄。それは、水を呼んだのではなく、水の底に沈んだミナの魂を鎮め、自分たちの罪を忘れまいとする、懺悔の歌だったのだ。

「じゃあ、歴史が消えかかっているのは……」

「そうさ」とエナは頷いた。「時が経ち、罪の意識が薄れ、村人たちがこの辛い歴史から目を背け、歌を忘れようとしたからじゃ。忘れたい、という強い想いが、歴史そのものを消し去ろうとしておるんじゃよ」

カイは愕然とした。歴史の消滅の原因は、外部の力などではなかった。村人たち自身の、集合的な無意識。忘却への渇望。彼の信じてきた、客観的で不変であるはずの歴史が、人々の主観的な「想い」によって、いとも容易く変質し、消え去ろうとしている。その事実は、彼の世界を根底から揺るがした。

第四章 記録官の真実

衝撃的な真実を胸に、カイは記録院に緊急の報告を行った。セドナ村の歴史は創生神話ではなく、虐殺と簒奪の記録であること。そして、歴史の消滅は、村人たちの「忘れたい」という意志が原因であること。彼は、この悲劇的な真実を「正しい歴史」として再定着させるべきだと主張した。

数日後、記録院の上官から返信があった。その内容は、カイの最後の拠り所さえも粉々に打ち砕くものだった。

『報告ご苦労。セドナ村の件、承知した。速やかに村人たちの記憶の完全消去を誘導し、当初の「創生神話」を公式記録として再定着させよ。それが我々「記録官」の真の任務である』

カイは何度も文面を読み返した。理解が追いつかなかった。

『歴史とは社会を安定させるための礎である』と、通信は続く。『人々を不安に陥れるような悲劇や、社会秩序を乱すような不都合な真実は、むしろ積極的に忘却させ、穏やかで統制の取れた「物語」に置き換える必要がある。君がこれまで行ってきた「再定着」作業も、全てはこのための選別と編集の一環だ。我々は歴史の守り手ではない。我々は、より良い未来のための、歴史の「創造主」なのだ』

カイは膝から崩れ落ちた。

騙されていた。自分は歴史を守っているのではなかった。組織の都合の良いように、歴史を破壊し、改竄する手伝いをしていただけだったのだ。沈黙するインクを憂い、消えゆく文字を追っていた自分は、壮大な欺瞞の片棒を担ぐ、哀れな道化に過ぎなかった。彼の誇りも、信念も、全てが偽りの土台の上に建てられた砂上の楼閣だった。

組織からの命令は明確だ。エナが守ってきた贖罪の歌を完全に消し去り、血塗られた過去を、美しい奇跡の物語で塗りつぶせ、と。そうすれば、村は偽りの安定を取り戻し、人々は理由のわからぬ虚無感から解放されるだろう。それはある意味で、「救済」なのかもしれない。

だが、カイの脳裏に、エナの言葉が蘇る。

『本当の歴史は、ここにある。人の胸の温もりと、痛みと、喜びと……』

偽りの平和か、痛みを伴う真実か。彼は、記録官として、いや、一人の人間として、究極の選択を迫られた。羊皮紙に記された命令書が、彼の震える手の中で、まるで嘲笑うかのように音を立てた。

彼は立ち上がった。その瞳には、もはや組織への忠誠心も、記録官としての迷いもなかった。あるのは、ただ静かで、しかし鋼のように固い決意だけだった。彼は村の中央広場へと向かった。偽りの歴史を定着させるためではない。本当の歴史を、人々の胸に返すために。

カイは広場に村人たちを集め、震える声で歌い始めた。エナから教わった、物悲しい贖罪の旋律を。最初は戸惑っていた村人たち。だが、その歌声が、彼らの心の奥底に眠っていた古い記憶の扉を叩いた。一人が、また一人と、掠れた声で歌い始めた。それは、涙と共に紡がれる合唱だった。彼らは、自分たちの祖先が犯した罪と、その上に築かれた偽りの平和を、ようやく直視したのだ。

歴史は、もはや記録院の羊皮紙に記された、冷たいインクの染みではなかった。それは、村人たちの流す涙の熱さと、胸に刻まれた痛み、そして未来へ向けて過ちを繰り返すまいと誓う、温かい「記憶」として、新たに生まれ変わった。

カイは、記録官の身分を示す徽章を外し、そっと地面に置いた。彼はもはや、歴史を管理する者ではない。彼は、組織に追われる身となるだろう。だが、後悔はなかった。彼は、歴史と共に生き、人々と共に記憶を語り継ぐ、「語り部」としての道を歩み始めたのだ。彼の旅は、これからが本当の始まりだった。固定された過去を守るのではなく、痛みと共に変化し続ける人々の記憶に寄り添いながら、歴史が持つ本当の意味を探す、果てしない旅が。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る