第一章 錆びついた鼻
桐谷朔(きりたに さく)の鼻は、とうの昔に錆びついていた。かつては神の鼻とまで呼ばれ、百種以上の香りを瞬時に嗅ぎ分け、感情や風景さえも香水瓶に閉じ込めることができた天才調香師。その面影は、今や埃をかぶった路地裏の小さな香水店で、惰性の日々を過ごす男の内に埋もれていた。五年前、唯一無二の親友を失ったあの日から、彼の世界は色と香りを失ったのだ。
その日も、朔はカウンターの奥で、無感動に客の注文をこなしていた。客が去り、静寂が店を支配した時、ドアベルが乾いた音を立てた。入ってきたのは、着古したトレンチコートの男。その顔を見て、朔は眉をひそめた。警視庁捜査一課の刑事、蓮見だった。
「よお、朔。まだこんな所で燻ってんのか」
蓮見の無遠慮な声が、店の澱んだ空気をかき混ぜる。
「何の用だ、刑事さん。うちはまっとうな商売しかしてない」
「分かってるさ。今日は客としてじゃない。専門家として、お前の『鼻』を借りたい」
その言葉に、朔の心が冷たく凍るのを感じた。鼻。彼が最も触れられたくない、失われた感覚の象徴。
「断る。俺の鼻はもう死んだ。他の奴を当たってくれ」
「そう言うな。これはお前にしか分からんかもしれんのだ」
蓮見は懐から、ジッパー付きのビニール袋を取り出した。中には、数枚の小さな紙片が入っている。証拠品なのだろう。
「一週間前、美術評論家の九条が殺された。自宅の書斎で、完全な密室だった。奇妙なのは、現場には指紋ひとつ、物盗りの形跡すらないのに、説明のつかない『香り』だけが残っていたことだ」
蓮見が袋の口を少しだけ開け、朔の前に差し出す。朔は反射的に顔を背けようとした。だが、抗いがたい力に引かれるように、微かな香りを吸い込んでしまう。
瞬間、脳を稲妻が貫いた。
それは一つの香りではなかった。複雑に絡み合った、三つの香り。まず、雨に濡れた土の匂い。次に、古びた図書館の紙の匂い。そして最後に、ふわりと鼻腔をくすぐる、甘く切ない金木犀の香り。
その組み合わせは、朔の記憶の奥底に固く封印された扉を、乱暴にこじ開けた。忘れることなどできるはずもなかった。これは、彼と、死んだはずの親友・相葉海斗(あいば かいと)だけが知る、秘密の符牒。記憶を呼び覚ますために二人で作り上げた、「香りの暗号」だったのだ。
「どうだ、何か分かるか?」
蓮見の問いかけが遠くに聞こえる。朔は息を呑み、震える唇でかろうじて言葉を絞り出した。
「……これは、誰が?」
「分からん。だからお前に訊いてるんだ。この香り、一体何なんだ?」
朔は答えられなかった。これはただの香りではない。これはメッセージだ。死んだはずの親友から、あるいは親友の死を知る何者かからの、朔に宛てられた挑戦状だった。錆びついていたはずの感覚の奥で、忘却の底に沈んでいたはずの悲しみと恐怖が、鮮烈な香りを伴って蘇り始めていた。
第二章 記憶の符牒
警察の捜査に協力するなど、考えられないことだった。だが、あの香りを嗅いでしまった以上、朔に選択肢はなかった。彼は蓮見と共に、九条の邸宅へと足を運んだ。書斎はすでに検証を終えていたが、部屋の中心に立つと、まだ微かにあの香りの残滓が漂っているような気がした。
「雨上がりの土、古い紙、金木犀……」
朔は呟きながら、脳内の記憶の地図をたどる。それは、高校二年の秋のことだった。激しい夕立が止んだ放課後、朔と海斗は市立図書館の裏庭に忍び込んだ。雨に濡れた土の匂いが立ち込め、古い書物の匂いが開け放たれた窓から漏れ出ていた。そして、庭の隅には一本の大きな金木犀の木があり、甘い香りを世界中に振りまいていた。二人はその木の下で、将来の夢を語り合ったのだ。朔は最高の調香師に、画家を目指す海斗は世界を驚かせる絵描きに。
「九条は……海斗と何か関係があったのか?」
朔の問いに、蓮見は手元の資料をめくった。
「ああ。五年前、海斗くんが事故で亡くなる少し前だ。彼が出品したコンクールで、審査員長だった九条は、彼の絵を『才能の空費。模倣の域を出ない』と酷評している。それが原因で、海斗くんはひどく落ち込んでいたと記録にある」
復讐か。朔の胸に黒い疑念が渦巻いた。海斗の才能を貶め、彼の心を折った男への、遅すぎた報復。だが、海斗はもうこの世にいない。一体誰が、彼らの秘密の符牒を使って?
数日後、第二の事件が起きた。被害者は、画廊のオーナーだった男。彼もまた、かつて海斗の才能に見向きもせず、無下に扱った人物だった。現場に残された香りは、「潮風」「乾いた絵の具」「微かなミント」。朔はすぐに思い出した。それは、海斗が初めて自分のアトリエを構えた海辺の古い倉庫の匂い。壁のペンキが剥がれ落ち、潮風が吹き込むその場所で、二人はミントティーを飲みながら夜通し語り明かした日の記憶だった。
犯人は、海斗の無念を知る者だ。そして、朔と海斗の思い出を、まるで自分のことのように知っている。香りのメッセージは、朔にしか解けない謎解きであると同時に、海斗の受けた屈辱を追体験させるための儀式のようにも思えた。
朔は、封印していた記憶の箱を一つ、また一つと開けていく。そのたびに、鮮やかな思い出と共に、親友を救えなかった無力感と後悔が胸を抉った。鼻が利かなくなったのは、海斗の事故現場に漂っていた、鉄とオイルと、そして彼の血の匂いを嗅いでしまったからだ。あの日以来、すべての香りは朔にとって苦痛の引き金でしかなくなった。
「犯人は、俺に何をさせたいんだ……」
蓮見のオフィスで、朔は頭を抱えた。犯人は着実に、海斗を傷つけた人間を消している。このままでは、第三の犠牲者が出る。香りの符牒は、犯行予告でもあった。次は何の香りだ? どの記憶だ? 朔は必死に過去を掘り返す。その行為は、瘡蓋になった傷を自ら引き剥がすような、耐え難い痛みだった。
第三章 偽りの追憶
第三の事件は、朔の予想を裏切る形で訪れた。被害者は、海斗とは何の関係もない、金融ブローカーだった。だが、現場にはやはり香りが残されていた。「燃えかけた木炭」「ラベンダーのドライフラワー」「古い革の匂い」。
その組み合わせに、朔は激しく動揺した。それは、海斗の祖父の家、その暖炉の匂いだった。遊びに行った冬の日、暖炉には火がくべられ、部屋には乾燥ラベンダーが飾られていた。そして、祖父の革張りの椅子に座っては、大人になったふりをしたものだ。だが、この記憶を知る者は、朔と海斗以外にいるはずがない。家族でさえ知らない、二人だけの秘密の場所だった。
「どういうことだ……。海斗は死んだはずだ。幽霊でもない限り、こんなことは……」
朔は混乱の極みにいた。犯人は、海斗の復讐をしているのではなかったのか? ならば、なぜ無関係の人間を? そして、なぜ二人だけの記憶を知っている?
その時、蓮見が苦い顔で一枚の報告書を差し出した。
「朔、落ち着いて聞け。海斗くんの五年前の事故記録を再調査した。妙な点が見つかった」
報告書には、事故車の残骸から、微量の特殊な化学薬品が検出されたと記されていた。それは美術品の修復や、あるいは贋作作りにも使われる稀少な薬品だった。
「そして、この薬品の取引記録を追ったところ、面白い名前が出てきた。九条、二人目の被害者の画廊オーナー、そして今回殺された金融ブローカーだ。奴らは裏で、美術品の闇取引に手を染めていた」
頭の中で、バラバラだったピースが激しい音を立てて組み合わさっていく。
「まさか……海斗は、事故で死んだんじゃない……?」
「その可能性が高い。彼は、奴らの不正に気づいてしまった。だから、口を封じられたんだ」
朔は全身から血の気が引くのを感じた。親友の死は、絶望による不注意な事故などではなかった。彼は、殺されたのだ。そして、自分は五年もの間、その事実に気づかず、ただ自分の無力さを嘆いていただけだった。
香りのメッセージの意味が、根底から覆る。
これは復讐のリストではない。海斗の死に関わった人間を指し示す、告発のリストだったのだ。犯人は、朔に真相を教えようとしていた。
「雨上がりの図書館(夢を語った場所)」、「海辺のアトリエ(夢を追いかけた場所)」、「祖父の家の暖炉(安らぎの場所)」。犯人は、海斗の大切な思い出の香りを使い、彼の魂を汚した者たちを断罪していたのだ。
朔は、震える手で顔を覆った。犯人は、海斗を誰よりも愛し、その死の真相を追い求めていた人物に違いない。そして、その人物は、朔と海斗の秘密の符牒を知っている。
「……一人だけ、いる」
朔の脳裏に、一つの顔が浮かんだ。ほとんど話したこともなかったが、海斗がいつも大切そうに語っていた、彼の妹。
「海斗の妹さんだ。美咲(みさき)さん。彼女なら、兄から符牒を聞いていてもおかしくない」
最後の香りのメッセージ。「燃えかけた木炭」は、暖炉の終わり、つまり「終焉」を意味しているのではないか。だとすれば、犯人が次に向かう場所は――。
「海斗が最後に使っていた、あの海辺のアトリエだ!」
朔は叫び、蓮見と共に駆け出した。これはもう、単なる事件解決ではない。親友の無念を晴らし、そして、悲劇の連鎖を止めるための、朔自身の戦いだった。
第四章 沈黙のレクイエム
潮の香りが、錆びついたシャッターの隙間から流れ込んでくる。海辺の倉庫、かつて海斗が夢を追いかけたアトリエは、時が止まったかのように静まり返っていた。朔は蓮見に外で見張るよう告げ、一人で中へと足を踏み入れた。
倉庫の中央、イーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスの前に、一人の女性が佇んでいた。細い肩、黒いワンピース。振り返ったその顔は、記憶の中の面影よりもずっと儚く、そして強い光を宿していた。相葉美咲だった。
彼女の手には、小さなスプレーボトルが握られていた。最後のメッセージを、この場所に残すつもりだったのだろう。
「……桐谷、朔さん」
美咲の声は、澄んでいたが、硝子のように脆かった。
「来てくれると、信じていました。兄が、唯一心を許したあなたなら」
「なぜ、こんなことを」
朔の声は震えていた。
「兄は殺されたんです。奴らの闇取引に気づいたから。私は警察に何度も訴えましたが、誰も事故だと決めつけて取り合ってくれなかった。だから、証明するしかなかった。兄が遺したこの『香りのノート』を使って。兄が信じたあなたに、このメッセージが届くように」
彼女の足元には、兄の死の真相を記したであろう日記と、取引の証拠となる帳簿が置かれていた。彼女は、最後の標的——事件の黒幕である美術界の重鎮をここへ呼び出し、すべての罪を暴いた上で、自らも罰を受けるつもりだったのだ。
「君の気持ちは分かる。だが、やり方が間違っている」
「他に方法があったんですか!?」美咲の叫びが、倉庫の壁にこだまする。「あなたは五年間、何も知らずに生きてきた! 兄の絶望も、無念も知らずに!」
その言葉が、朔の胸に突き刺さる。そうだ、自分は逃げていた。親友の死から、自分の無力さから、すべてから目を背けていた。
朔はゆっくりと美咲に近づいた。
「そうだ。俺は逃げていた。海斗を失った悲しみで、鼻が利かなくなったと思い込んで、世界から香りが消えたことにして、自分の殻に閉じこもっていた。君が一人で戦っている間、俺は……何もしていなかった」
彼は、美咲の目の前で深く息を吸い込んだ。潮の香り、古い木の香り、そして彼女が握りしめたボトルから漏れ出す、微かなラベンダーの香り。それらが混じり合い、朔の内で新しい意味を結ぶ。それは、悲しみ、怒り、そして愛する者を守ろうとする切ない決意の香りだった。錆びついていたはずの鼻が、感情の最も繊細な機微を、再び鮮明に感じ取っていた。
「でも、もう終わりにするんだ。君の復讐も、俺の逃避も。君が守りたかった海斗の心は、確かに俺が受け取った。だから、残りのケリは俺につけさせてくれないか。彼の親友として」
朔の真摯な瞳に、美咲の強張った表情がゆっくりと解けていく。彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちた。それは、長すぎた孤独の終わりを告げる涙だった。
事件は、朔が蓮見に渡した証拠によって解決し、黒幕は逮捕された。美咲は情状酌量が認められ、長い償いの日々に入った。
朔は、路地裏の店に戻った。だが、彼はもう以前の彼ではなかった。再び調香台の前に立ち、新しい香水を作り始める。それは、誰かの悲しみに寄り添い、失われた記憶に温かな光を灯すような、複雑で、深く、そして優しい香りだった。
時々、彼は海辺のアトリエを訪れる。そこにはもう、人工的な香りのメッセージはない。ただ、風が運ぶ潮の匂いと、遠い日の記憶が微かに漂うだけだ。その香りを吸い込むたび、朔は思う。香りは記憶を呼び覚ます。そして、記憶は人を未来へと繋いでいくのだと。彼の世界は、再び豊かで切ない香りに満ちあふれていた。親友が遺してくれた、沈黙のレクイエムと共に。