第一章 罅割れた物語
僕の過去は、磨き上げられた琥珀のように完璧だった。父の低い声で語られる冒険譚、母の優しい手でめくられた絵本。夏草の匂いがする丘で初めて凧を揚げた日、冬の夜に暖炉の前で聞いた星の物語。それらすべてが、僕という人間を形作る、揺るぎない礎のはずだった。
しかし、いつからだろう。その完璧な記憶の表面に、微かなひび割れが見えるようになったのは。
雨がアスファルトを濡らす午後だった。僕はショーウィンドウに映る自分の姿に、ふと足を止めた。そこにいたのは、僕が知る僕ではなかった。見慣れたはずの顔の輪郭が、まるで知らない誰かのもののように滲んで見える。その瞬間、鋭い痛みがこめかみを貫いた。耳の奥で、知らない金属音と、遠い誰かの叫び声が反響する。それは一瞬の出来事で、気づけば痛みも幻聴も消え、ウィンドウにはいつも通りの僕が不安げにこちらを見つめていただけだった。
だが、その日から世界は変質した。母が微笑みながら語る「僕の幼い頃の思い出」は、美しいがどこか空々しい舞台脚本のように聞こえた。父が誇らしげに見せてくれる「家族写真」の僕は、まるで巧みに描き加えられた肖像画のようだ。彼らの語る物語が、僕の記憶とぴったり重なるたびに、胸の奥に冷たい空洞が広がっていく。
僕のアイデンティティは、借り物の衣装でしかないのではないか。その疑念は日に日に濃くなり、やがて確信に変わった。僕には、僕自身の過去と呼べるものが、何一つない。その空白に意識を向けようとするたび、身体を内側から引き裂くような激痛が僕を襲うのだった。
第二章 空白の羅針盤
屋根裏部屋の埃っぽい匂いの中で、僕はそれを見つけた。祖父の遺品だという、古びた真鍮製の羅針盤。しかし、それは奇妙な代物だった。ガラスの下には方位を示す針がなく、代わりに磨かれた黒曜石のような鏡面が嵌め込まれているだけだった。僕はそれを『空白の羅針盤』と名付けた。
言いようのない力に引かれ、僕は羅針盤を手に、僕の「物語」が生まれた場所を巡り始めた。母が「あなたが初めて歩いた場所よ」と教えてくれた公園のベンチ。羅針盤の鏡面を覗き込むと、そこには陽光に揺れる木々の葉が曖昧な幻影として映るだけだった。次に、父とよく釣りをしたという川岸へ向かう。ここでも鏡面は、せせらぎの光をぼんやりと反射するばかり。偽りの記憶が染みついた場所では、この羅針盤は何も示さないのだと直感した。
絶望が心を蝕み始めた頃、僕は街の外れにある、誰も近寄らない旧図書館の前に立っていた。蔦に覆われた石造りの建物。ここに関する「物語」は、僕には与えられていない。なぜここに来たのか、自分でも分からなかった。
震える手で羅針盤を掲げる。すると、今まで沈黙していた鏡面が、微かに脈動を始めた。そして、一瞬だけ。そこに映ったのは、苦悶に顔を歪め、叫びを上げている僕自身の顔だった。それは「過去の残響」とでも言うべき、鮮烈なイメージ。同時に、脳を灼くような激痛が走り、僕はその場に膝から崩れ落ちた。痛みは、真実への近さを示す警鐘なのかもしれない。
第三章 語り部の影
旧図書館の奥深く、禁書庫の片隅で、僕はこの世界の秘密の一端に触れた。そこにあったのは、「第一期・物語編纂記録」と記された分厚い書物。ページをめくる指が震えた。そこには、人々の「過去」が、まるで創作物のように詳細に設計され、記録されていた。幸福な幼少期、些細な失敗、心温まる家族の記憶。すべてが「語り部」と呼ばれる者たちによって、個々人に合わせて与えられた物語だったのだ。
この街で最も尊敬される語り部は、長老のエリアスだ。彼の紡ぐ物語は最も美しく、人々に深い安らぎを与えると言われている。僕は震える足で、彼の住む丘の上の館を訪ねた。
「おや、リヒト君。どうしたね、そんな思い詰めた顔をして」
暖炉の火が揺れる書斎で、エリアスは穏やかに僕を迎えた。その深い瞳は、すべてを見透かしているかのようだった。僕は単刀直入に尋ねた。僕の過去について、この世界の仕組みについて。
エリアスは静かに語った。
「物語は、人を支える杖だよ。辛い現実から心を守り、進むべき道を示す。君が感じている痛みは、その杖を手放そうとしているからかもしれん」
彼の言葉は優しかったが、その奥には決して触れさせないという固い意志があった。彼は何かを、この世界全体で何か巨大な真実を隠している。僕は確信した。帰り際、彼が僕の持つ羅針盤に一瞬だけ、悲しげな視線を送ったのを、僕は見逃さなかった。
第四章 崩壊の序曲
エリアスと会ってから、僕の身体を苛む痛みは増していく。それは、偽りの記憶という硬い殻が、内側からの圧力で砕け散る音のようだった。もはや、優しい家族の記憶も、輝かしい少年時代の思い出も、僕を繋ぎ止めることはできなかった。
空白の羅針盤が、熱を帯びて震えている。その鏡面は、ひとつの場所を繰り返し映し出していた。街の最も高い崖にそびえ立つ、禁忌の場所――『沈黙の塔』。かつて大罪人が幽閉されたという物語が伝わるだけで、誰もその真実を知らない。
僕は嵐の夜、塔へと向かった。雷鳴が轟き、風が唸りを上げる。塔の頂へと続く螺旋階段を上るたびに、羅針盤の鏡面に映る「残響」は鮮明になっていく。炎。悲鳴。崩れ落ちる街並み。知らない人々の絶望の表情。そして、幼い僕の手を握り、何かを叫んでいる、本当の両親の顔。
最上階に辿り着いた時、羅針盤は砕けるような光を放った。僕の空白が、ついに真実と共鳴したのだ。鏡面には、この世界が迎えた「終わり」の光景が映し出されていた。空から降り注ぐ光の槍、大地を焼き尽くす劫火、すべてを飲み込む巨大な津波。それは、人の力では抗いようのない、大災厄の記憶だった。
僕だけが、この世界の墓標の上に作られた偽りの楽園で、たった一人、真実を覚えている。僕は、忘れられるべき過去そのものだった。
第五章 最後の選択
「やはり、ここまで来てしまったか」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこにエリアスが立っていた。彼の表情には、いつもの穏やかさはなく、深い疲労と諦観が滲んでいた。
彼はすべてを語った。遠い昔、この世界を襲った大災厄。生き残ったわずかな人々は、あまりにも過酷な真実を前に心を壊し、希望を失った。そこで、エリアスを含む最初の「語り部」たちは、人々の記憶を封印し、代わりに美しく幸福な「物語」を植え付けることで、新たな世界を創り上げたのだと。絶望を忘れさせるための、巨大な揺りかご。
「君は、その災厄をその身に刻んだまま生き延びた、唯一の『オリジナル』だ。君の存在そのものが、この世界の秩序を揺るがす特異点なのだよ」
彼の言葉は静かだったが、重く僕の心にのしかかる。
「君が完全に記憶を取り戻せば、その『真実』はウイルスのように広がり、人々の偽りの幸福は崩壊する。世界は再び、あの絶望に満ちた荒野へと還るだろう」
そして、彼は僕に選択を突きつけた。
一つは、自らの記憶と存在を完全に消し去り、この世界の偽りの平和を守ること。
もう一つは、真実を解放し、すべてを混沌に還すこと。
世界の運命が、僕というたった一人の空白の上に委ねられた。僕は、僕が何者でもなかったこの世界で、初めて僕自身の意志で、何かを選ばなければならなかった。
第六章 星屑の種子
僕は、静かに微笑んだ。僕には守るべき「過去」はない。だが、この偽りの世界で生きる人々の穏やかな笑顔は、確かに僕の目に焼き付いている。たとえそれが、作り物の幸福だとしても。
「僕が消えることで、この世界が続くのなら」
僕は空白の羅針盤を胸に抱いた。エリアスが悲しげに頷く。彼は、僕という存在を消し去るための、最後の「語り部」となるのだ。
だが、僕はただ消えるつもりはなかった。最後の力を振り絞り、僕は僕の「真実の記憶」を羅針盤に託した。災厄の絶望だけではない。炎の中で僕を庇った両親の愛、瓦礫の中で見つけた一輪の花、夜明けの光に感じた小さな希望。それらすべてを、小さな種子として羅針盤の鏡面の奥深くに封じ込めた。
「いつか、人々が真実に耐えられるほど強くなった未来で…。誰かが、この種を見つけてくれるように」
僕の身体が、足元から光の粒子となって崩れていく。父の顔も、母の笑顔も、僕に関するすべての記憶が、この世界から綺麗に消え去っていく。痛みはない。ただ、果てしない静寂と、解放感があった。
世界から、リヒトという青年がいた痕跡は、完全に消えた。人々は何も知らず、穏やかな朝を迎え、幸福な物語を生き続ける。
――そして、永い時が流れた。
森の奥深く、苔むした石の上で、一人の少女が古びた真鍮の羅針盤を拾い上げる。彼女がその鏡面を覗き込んだ瞬間、一瞬だけ、見たこともない満天の星空と、優しく微笑む青年の顔が、淡い光となって映り込んだ。それは、忘れられた残響。未来へと託された、小さな真実の種子だった。