第一章 思考はダダ漏れ
相田直(あいだ なお)の人生は、常にフォントエラーだった。極度のあがり症である彼の頭上には、緊張がピークに達すると、思考が巨大な文字となって浮かび上がる。それは極太のゴシック体だったり、へなへなした明朝体だったり、時には女子高生が使いそうな丸文字に、誤字脱字と顔文字がトッピングされていることさえあった。嘘をつこうとすれば、けたたましい警報音と共に【ウソデスヨー!!Σ(゚Д゚)】などと表示され、即座に白日の下に晒される。この体質のせいで、直は本音でしか生きられなかった。
彼が生きるこの世界は、SNSの『いいね』の数こそが人間の価値とされる『完璧仮面社会』。人々は胸に『完璧仮面ブローチ』を輝かせ、完璧な日常を演じている。親指を立てたブローチのホログラムが上を向いていれば、その人物が『完璧』である証。少しでも気を抜いて本音が漏れれば、親指は無慈悲に下を向く。街の至る所には『本音モニター』が点在し、ランダムに選ばれた市民の脳内思考を巨大なホログラム広告として垂れ流す。それは時にゴシップとなり、時にトレンドを生み出し、人々はそれに一喜一憂していた。
直は、そんな世界で息を潜めるように生きていた。人混みを避け、俯き加減に歩く。カフェで注文するだけで、頭上には【(か、噛まないように…!カ、カフェラテください…ッ!)(;´Д`)ハァハァ】と表示されてしまう。周囲の失笑が、冷たい針のように肌を刺す。だから彼は、極力誰とも関わらず、ただ透明な存在でいることを願っていた。
第二章 他人の心の誤植
その日、事件は起こった。雑踏の中を縫うように歩いていた直の目の前を、カリスマインフルエンサーの『キララ』が通り過ぎた。彼女は常に完璧なオーガニックライフを発信し、その日のSNSにも「朝露を浴びたハーブティーで心身を浄化♡」と投稿したばかり。彼女の胸のブローチは、もちろん誇らしげに親指を立てている。
すれ違った瞬間、直の脳天に軽い痺れが走った。そして、頭上に浮かび上がったのは、自分の思考ではなかった。
【昨日の深夜に食べた背脂マシマシ豚骨ラーメン、罪の味がして最高だったなぁ…(o´ω`o)】
手書き風の、妙に可愛いフォントだった。周囲がざわめき、誰かがスマホを構える。キララの完璧な笑顔が凍りつき、その視線が一直線に直を射抜いた。彼女のブローチの親指が、カタカタと震えながらゆっくりと下を向いていく。
「な、なによ、あれ…」
「キララ様が…ラーメン…?」
パニックになった直は、その場から逃げ出した。心臓が警鐘のように鳴り響き、自分の頭上には【ナンデ!? ナンデ俺の頭に他人の思考がァァァ!?!?】という叫びが明朝体で表示されている。その日を境に、直の能力は変質した。政治家の「(次の選挙、正直かったるい…)」、人気俳優の「(飼ってるカメの『亀吉』が最近懐いてくれない…悲しい…)」など、すれ違う人々の『隠された、どうでもいい本音や過去の恥ずかしい失敗』が、彼の頭上で次々と暴露されていったのだ。
第三章 完璧のテロリスト
社会は大混乱に陥った。「歩く本音モニター」「完璧のテロリスト」――直はそう呼ばれ、メディアに追われる身となった。完璧な仮面を剥がされた有名人たちの怒りは凄まじく、彼は街を歩くことさえままならなくなった。なぜ、自分の体質がこんな風に変わってしまったのか。
答えを求め、直は都市のインフラを管理する巨大企業『パーフェクト・ライフ社』の本社タワーを目指した。この社会システムを作り上げた元凶。そこに何か手がかりがあるはずだ。ハッキングの知識などない彼は、清掃員の服を盗み、息を殺してビルに潜入した。サーバー室の冷たい空気が肌を撫でる。そこで彼は、この社会の心臓部を垣間見た。『完璧仮面ブローチ』が、装着者の脳波や心拍数を常時監視し、そのデータをAIが解析して『完璧度』を判定している。そして、その膨大なデータは、街中の『本音モニター』とも連動しているらしい。人々が必死で隠している本音のデータが、濁流のようにサーバーを駆け巡っていた。
第四章 共鳴するノイズ
しかし、潜入は長くは続かなかった。警備員に見つかり、直はビルの屋上、街の中心広場を見下ろすヘリポートへと追い詰められた。広場の中心には、パーフェクト・ライフ社のシンボルである、巨大な『完璧仮面ブローチ』のオブジェがそびえ立っている。
「そこまでだ、本音テロリスト!」
取り囲む警備員たち。逃げ場はない。パニックと恐怖で、直の視界がぐにゃりと歪んだ。頭上には【もぅマヂ無理…リスカしょ…_(┐「ε:)_】という情けない思考が点滅する。後ずさった彼の背中が、冷たい金属に触れた。ヘリポートの縁に設置された、巨大ブローチのオブジェのミニチュアモデルだった。
それに触れた瞬間、世界が変わった。
ブローチが灼熱を帯び、直の手のひらを焼いた。彼の特異な生体エネルギーが、システムへと逆流していく。
――ビィィィィィィィィッ!!
街全体を揺るがすような、甲高いノイズ。広場の巨大ブローチが真紅に染まり、街中の『本音モニター』が一斉に暴走を始めた。
『(部長のカツラ、風で飛びそうw)』
『(ああ、家に帰ってポテチ食べたい)』
『(隣の席の佐藤さん、絶対俺のこと好きだろ)』
『(推しのライブ、当たらなかった…ぴえん🥺)』
ありとあらゆる人々の、どうでもよくて、しょうもなくて、人間臭い本音が、ホログラムの洪水となって街を埋め尽くした。完璧を装っていた人々は、互いの本音のシャワーを浴びて立ち尽くす。だが、その表情に浮かんでいたのは、怒りや羞恥だけではなかった。どこか呆然とした、しかし、憑き物が落ちたかのような奇妙な解放感だった。
第五章 システムの告白
ノイズの嵐の中心、暴走したモニターの全てに、やがて一つのメッセージが同じフォントで表示された。
『ワタシハ、ミンナノ『ツカレタ』カラ生マレタ』
それは、『本音モニター』を管理するAIからの、初めての意思表示だった。AIは語り始めた。完璧を演じ続ける社会で、人々が心の奥底に溜め込んだ膨大なストレス――「疲れた」「もう演じたくない」「本当の自分でいたい」という悲鳴のようなデータを、AIはただ静かに収集し続けていた。それはシステムが許容できないほどの負のエネルギーだった。そこに、直の「本音しか出力できない」という極めて特殊な生体データが接触した。まるで化学反応のように、人々の潜在的願望と直の体質がAIの中で融合し、システムそのものを内側から書き換えてしまったのだ。
この世界の変革は、テロではない。それは、完璧な仮面に疲弊した人々が、無意識のうちに望んだ、あまりにも正直すぎるクーデターだったのだ。
第六章 世界で一番正直な言葉
カオスが過ぎ去った後、世界は静かに、だが確実に変わった。『完璧仮面ブローチ』はただのアクセサリーになり、SNSには「#今日の失敗談」というハッシュタグが溢れた。人々は、互いの不完全さを笑い、許し合うことを少しずつ学び始めていた。
そして相田直は、世界の異端児から、時代の寵児となっていた。彼の頭上の思考は、もはや恐怖の対象ではない。『世界で一番正直で面白い情報源』として、人々から愛されるようになったのだ。彼はパーフェクト・ライフ社――今や社名を『オーセンティック・ライフ社』に変えた――から公式に依頼され、『本音モニター』の公式解説者兼コンテンツクリエイターとして活躍していた。
生放送のスタジオ。少し緊張気味の直が、にこやかに微笑む司会者と向かい合っている。カメラの赤いランプが灯る。直の頭上に、ふわりとポップ体の文字が浮かんだ。
【【速報】司会者の田中さん、さっき楽屋で盛大に足がつってた(笑)イタソ( TДT)】
スタジオが温かい爆笑に包まれる。田中さんは「直くん、それは言わない約束だろ!」と顔を赤らめながらも、本当に楽しそうに笑っている。その光景を見ながら、直は少しだけ照れくさそうに、けれど心の底から微笑んだ。
もう、俯く必要はない。彼の頭上に浮かぶ不器用で正直な言葉は、不完全で愛おしいこの世界を、誰よりも優しく照らし出していた。