浮遊都市と秘密の動物園
第一章 浮遊する街と金魚の秘密
僕の住む街、アトモスフィアの重力は、人々の心と繋がっている。街全体の幸福度が高まれば、ずしりと大地に根を張り、逆に不幸が満ちれば、まるで巨大なシャボン玉のようにふわりと空へ浮かび上がるのだ。そして今、この街は未曾有の危機に瀕していた。
「また軽くなってる……」
僕は、足首に巻いた鉛の重りを確かめながら呟いた。道行く人々も皆、思い思いの重りを体に括りつけ、一歩一歩、地面を踏みしめるように歩いている。電信柱は根本からアンカーロープで地面に固定され、街路樹の枝は心許なげに宙を掻いている。空を見上げれば、昨夜のうちに係留ロープが切れたらしいパン屋の看板が、雲の合間を寂しげに漂っていた。
原因は、僕にあると誰もが思っている。
僕、リオには秘密があった。いや、秘密を「漏らしてしまう」呪いがあった。他人の秘密を口にしようとすると、その言葉は音にならず、代わりにランダムな動物が口から飛び出すのだ。
角のパン屋の前で、幼なじみのエマが手招きをしていた。彼女は心配そうに眉を寄せている。
「リオ、また痩せた?ちゃんと食べてるの?」
「まあね。それより、パン屋の主人の秘密、知ってるかい?新作のクロワッサン、あれ、実は……」
僕がそう言いかけた瞬間、口の中にぬるりとした感触が広がる。こぽり、と音を立てて、三匹の小さな金魚が唇から滑り出た。金魚たちは空中で優雅に尾を振り、陽光を鱗に反射させてきらきらと輝くと、シャボン玉が弾けるように音もなく消えた。
「……本当は、塩と砂糖を間違えただけなんだって」
僕は虚空を見つめながら、言葉の続きを紡いだ。エマは苦笑いする。だが、道行く人々が僕に投げかける視線は冷ややかだった。ひそひそと交わされる声が、風に乗って耳に届く。
「またあいつだ」「彼のせいで街が空に消えてしまう」
僕はポケットの中で、ガラクタ市で手に入れた古いトランペットを強く握りしめた。冷たい金属の感触だけが、僕の唯一の味方だった。そのベルの奥からは、持ち主である僕にしか聞こえない、微かな鳥の鳴き声が絶えず響いている。まるで、世界のどこかにあるはずの安息の地へ、僕を誘うかのように。
第二章 不幸の連鎖とキリンの孤独
街の浮上は、日に日に深刻さを増していった。人々はまるで競い合うかのように、僕の前で不幸を嘆いた。
「ああ、今朝、十年連れ添ったインコが逃げてしまって……」
中年女性が僕の隣を通り過ぎながら、わざとらしくハンカチで目元を押さえる。
「財布を落としたんだ。今月の生活費が全部入っていたのに……」
青年が地面にへたり込み、天を仰ぐ。
彼らの不幸は本物だろう。だが、その瞳の奥に、奇妙な期待の色がちらつくのを僕は見逃さなかった。まるで、僕に何かを求めているような、そんな視線だった。彼らが不幸を嘆くたび、街の空気はさらに希薄になり、僕の心臓を締め付ける罪悪感は重くなっていくのに、世界だけがどんどん軽くなっていく。
その夜、僕はエマに全てを打ち明けようと決心した。これ以上、一人でこの重圧……いや、この軽さに耐えられなかった。
「僕のせいなんだ。僕が、もっと大きな秘密を抱えているから……」
公園のベンチで、僕は震える声で切り出した。幼い頃、親友と交わした大切な約束を、僕が一方的に破ってしまったこと。その秘密の重さが、僕の胸には鉛のように沈んでいる。もしこれを話せば、どれほど巨大な獣が飛び出すだろう。もしかしたら、街を押し戻せるほどの重力が生まれるかもしれない。
「聞いてくれるか、エマ。あれは、僕がまだ小さかった頃……」
言葉が喉につかえる。代わりに、信じられないほどの圧力が顎にかかった。口が限界まで開き、そこからゆっくりと、まだら模様の巨大な首がぬうっと伸びていく。それは天高くそびえるキリンだった。キリンは悲しげな濡れた瞳で僕を一度見下ろすと、長い首をしならせ、近くのマンションの七階の窓を覗き込み、やがて陽炎のように揺らめきながら消えていった。
だが、街は軽く、人々の非難の声はさらに重くなった。
「見たか!」「なんて巨大な動物を!」「街が壊れるぞ!」
キリンの重さなど、街全体の不幸の軽さに比べれば、焼け石に水だった。僕は完全に孤立した。孤独という名の無重力空間に、たった一人で放り出された気分だった。
第三章 トランペットと暴走する動物たち
僕は街の中央広場に立っていた。もう、誰も僕に近づこうとはしない。人々は遠巻きに僕を指さし、その表情は恐怖と非難と、そしてやはり、あの奇妙な期待に満ちていた。もう、どうにでもなれ。ポケットから取り出したトランペットは、いつもより冷たく、重く感じられた。鳥の鳴き声が、頭の中でやかましく響いている。
もし、これを吹いたら?
この呪いを増幅させるかもしれない。あるいは、解き放つかもしれない。
僕はマウスピースに唇を当て、目を閉じた。街の人々の不幸、僕の孤独、エマの心配そうな顔。その全てを肺腑に吸い込み、一気に楽器へ注ぎ込んだ。
だが、音は出なかった。
代わりに、まるでダムが決壊したかのように、僕の口から無数の動物たちが溢れ出したのだ。
光を放つ半透明のクラゲが夜空を泳ぎ、小さな羽をつけた子豚の群れが楽しげに宙を舞う。虹色の鱗を持つ蛇が噴水の縁を滑らかに上り、ダイヤモンドの甲羅を背負った亀がゆっくりと石畳を進んでいく。それは悪夢であり、同時に、この世のものとは思えないほど幻想的な光景だった。
人々は悲鳴を上げて逃げ惑う――僕はそう思った。
しかし、現実は違った。
「うわあ……!」
「なんて綺麗なんだ……」
「見て!あのブタ、こっちに来るわ!触ってみたい!」
さっきまで不幸のどん底にいたはずの住民たちが、一様に目を輝かせ、歓声を上げていた。恐怖ではなく、純粋な歓喜と興奮が広場を満たしていく。子供たちが光るクラゲを追いかけ、恋人たちが虹色の蛇に見とれていた。
その瞬間だった。
どすん、と地響きにも似た衝撃が街を揺らした。
急激に増大した幸福度が、街の重力を一瞬で取り戻したのだ。浮いていた車が地面に落ち、店の看板がガシャンと音を立てて揺れる。人々は一瞬よろめいたが、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
第四章 軽すぎた真実
呆然と立ち尽くす僕の元へ、エマが駆け寄ってきた。彼女もまた、羽の生えた子豚を腕に抱き、夢見るような表情を浮かべている。
「リオ、すごいよ!みんな……みんな笑ってる!」
広場は、幸福な喧騒に包まれていた。人々は僕が吐き出した幻想的な動物たちと戯れ、写真を撮り、歓声を上げている。その様子を見ていたパン屋の主人が、照れくさそうに頭を掻きながら僕の前にやって来た。
「いやあ、すまんかった、リオ君」
彼の言葉に、周りにいた人々も次々とうなずく。
「そうなんだよ。君の口から出る動物が、あまりにも可愛くて、珍しくて……」
「最初に市長の隠し子の秘密を君が喋った時に出た、あの双子のパンダがきっかけだったんだ。あれは傑作だった」
「みんな、自分も不幸な目に遭えば、君がもっとすごい動物を見せてくれるんじゃないかって、つい……」
不幸アピール合戦。それが、街を浮遊させた原因の全てだった。僕を心配してではなく、僕が生み出す動物たちが見たいがために、人々は不幸を演じ、街の重力を危険に晒していたのだ。
そのあまりにも滑稽で、人間らしくて、そしてどこか愛おしい理由に、僕は張り詰めていた糸が切れたように、その場にへたり込んで笑い出した。涙が滲むほど、おかしくて、たまらなかった。僕の孤独は、僕が生み出した幻想を求める、人々の歪んだ愛情の裏返しだったのだ。
第五章 秘密のテーマパーク
それから、僕の人生は一変した。
僕は自分の体質を呪うのをやめ、それを受け入れた。街の住民たちと協力し、「秘密の供養ショー」と名付けたイベントを毎日開催することにしたのだ。人々は、誰にも言えない小さな秘密――テストでカンニングしたこと、恋人のプリンをこっそり食べたこと――を僕に打ち明けに来る。僕はそれを聞くたびに、色とりどりの可愛らしい動物たちを口から解き放った。
街は「秘密を動物に変える魔法使いの住む街」として、世界中から観光客が押し寄せる名所となった。僕はあのトランペットを吹いて、制御不能な動物たちを溢れさせ、幻想的なパレードを繰り広げた。それはかつての孤独な暴走ではなく、街全体を巻き込んだ、幸福な祭典の号砲だった。
やがて僕は、そのユニークなテーマパークで巨万の富を築いた。だが、それ以上に大切なものを手に入れた。人々との温かい繋がりと、自分自身を肯定する心。僕の口から飛び出す動物たちは、もはや呪いの象徴ではなく、人々に笑顔を届ける幸福の使者となっていた。
夕暮れ時、僕はテーマパークの最も高い塔の上から、オレンジ色に染まる街並みを見下ろしていた。隣には、エマが静かに寄り添っている。あれほど僕の頭の中で鳴り響いていたトランペットの鳥の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。代わりに、眼下から聞こえてくる人々の楽しそうな笑い声が、心地よく耳に響く。
「ねえ、リオ」
エマがいたずらっぽく微笑み、僕の耳元で囁いた。
「私の秘密、聞いてくれる?実は私ね……」
僕は微笑み返し、彼女の言葉に静かに耳を傾けた。彼女の秘密は、どんな美しい動物に姿を変えるだろうか。それはこれから始まる、僕と彼女だけの、新しい物語の始まりだった。