ネガティブ・テレパスの憂鬱

ネガティブ・テレパスの憂鬱

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第一章 囁きのシャワー

月曜日の朝、満員電車。佐伯健人(さえきけんと)、二十八歳。彼の人生が決定的に捻じ曲がったのは、まさにこの、湿った革靴の匂いと他人のため息が充満する鉄の箱の中だった。

(うわ、あの人、寝癖やばすぎ…芸術の域だろ)

(今日のネクタイ、なんであの色選んだかな。ミミズみたい)

(またため息ついてるよ。こっちまで憂鬱になるっつーの)

それは、脳内に直接響くノイズだった。最初は空耳かと思った。しかし、声の主と思しき人物に視線をやれば、皆一様に無表情でスマートフォンを眺めている。口は固く結ばれ、声帯は微動だにしていない。だが、健人の鼓膜の内側では、辛辣な言葉のシャワーが止まらない。そして、その全てが、どうしようもなく健人自身に向けられていた。

パニックだった。次の駅で転がるようにホームへ降り立ち、壁に背中を預けて喘いだ。世界が、悪意に満ちた囁きでできていることを知ってしまったのだ。

その日を境に、健人の世界から平穏は消えた。会社のエレベーターでは「こいつが乗ると狭くなる」、給湯室では「佐伯さんの淹れるコーヒー、薄くてまずい」、果てはトイレの個室でさえ、隣から「長すぎだろ…漏れるわ」という心の声が壁を透過してくる。人間という生き物が、かくも他者に対して批判的であったとは。

生きるためには、防衛策が必要だった。健人はなけなしのボーナスを叩き、最高級のノイズキャンセリングヘッドホンを購入した。それを装着している間だけが、彼に残された聖域だった。クラシック音楽を大音量で流し、世界からの悪意を遮断する。同僚からは「佐伯、音楽好きなんだな」「なんか変わったね」と囁かれたが、その口から発せられる言葉の裏で、どんな罵詈雑言が渦巻いているかを想像すると、生返事を返すのが精一杯だった。

そんな地獄のような日常に、唯一の例外が存在した。

「佐伯さん、おはようございます!そのヘッドホン、かっこいいですね!」

企画部の木下陽菜(きのしたひな)だった。彼女はいつも太陽のような笑顔を浮かべ、健人に屈託なく話しかけてくる。問題は、彼女の心の声が、健人には一切聞こえないことだった。

他の誰もが健人に対して何かしらのネガティブな感想を抱いているというのに、彼女の周囲だけは、不気味なほどに静かだった。悪意がない?そんな馬鹿な。人間である以上、他人に百パーセントの善意を向けることなど不可能だ。

(この女…何を企んでる?)

健人は、静寂こそが最大の恐怖であると知った。聞こえない悪意は、聞こえる悪意よりもずっと性質が悪い。健人は陽菜と関わることを、固く心に誓って避けるようになった。彼女の笑顔が、底なしの沼の入り口に見えてならなかった。

第二章 沈黙の善意

避ければ避けるほど、運命は意地悪く二人を接近させる。新規プロジェクトのメンバーとして、健人と陽菜はペアを組むことになったのだ。絶望の淵に立たされた健人は、会議中もヘッドホンを外そうとしなかった。

「佐伯さん、あの、聞こえてます?」

陽菜が隣の席から、少し困ったように覗き込んでくる。健人はわざとらしくヘッドホンをずらし、「ああ、すまない」と短く答える。

(どうせ心の中では『このヘッドホン野郎、仕事する気あんのか』とか思ってるんだろ)

しかし、聞こえてくるのは静寂だけ。嵐の前の静けさのような、息の詰まる沈黙。健人の疑心暗鬼は、日を追うごとに粘度を増していった。

ある日の夕方、健人は誰もいない給湯室で、床に落ちている一冊の手帳を見つけた。表紙には可愛らしい猫のシールが貼ってある。木下陽菜のものだった。悪魔が囁いた。見てしまえ、と。彼女の腹の底に渦巻く本音を、その目で確かめるんだ。

罪悪感と好奇心の狭間で数秒間葛藤した後、健人は震える手で手帳を開いた。そこにあったのは、乱雑だが温かみのある文字で綴られた、日々の記録だった。そして、健人は自分の名前を見つけ、息を呑んだ。

『四月十日。佐伯さん、今日は青いネクタイ。すごく似合ってた。でも、なんだか疲れてるみたいだった。大丈夫かな』

『四月十二日。会議中、佐伯さんが真剣な顔で資料を読んでた。横顔がかっこよくて、ちょっと見とれちゃった。でも、ヘッドホンは外してほしいな。話しかけづらい』

『四月十五日。佐伯さんが自販機でブラックコーヒーを買うのを見た。私も同じのを買ってみたけど、苦くて飲めなかった。佐伯さんって、大人だ』

ページをめくるたびに、そこにあったのは健人への悪意のない、むしろ好意に満ちた観察記録だった。罵詈雑言を期待していた心は、完全に肩透かしを食らう。だが、安堵はなかった。代わりに、さらに深い混乱が彼を襲った。

(なんだ、これは…?)

なぜ、心の声が聞こえない?これほどの好意を抱いているなら、何かしらポジティブな心の声が聞こえてもいいはずだ。だが、健人の能力は「悪口限定」だ。善意や好意は受信範囲外。

だとしたら、この手帳に書かれていることは、すべて嘘なのか?他人の目につくことを前提とした、巧妙な罠?陽菜の笑顔の裏には、やはり計り知れない深淵が広がっているに違いない。健人は手帳を閉じると、まるで汚物に触れたかのように、そっと元の場所に戻した。疑念は、もはや確信に変わりつつあった。

第三章 逆転のテレパシー

転機は、雷鳴のように突然訪れた。

プロジェクトのクライアント向けプレゼン資料に、致命的なデータの誤記が見つかった。最終チェックを担当したのは健人だった。会議室は凍りつき、部長の怒声が響き渡った。

「佐伯!君は何を見ていたんだ!」

物理的な声と同時に、脳内に悪意の濁流が流れ込む。

(だからあいつに任せるのは反対だったんだ)

(本当に使えない。給料泥棒が)

(俺の評価まで下がるだろ、ふざけるな)

謝罪の言葉も出てこない。無数の針で全身を刺されるような感覚。健人は、もう限界だった。頭を下げ、よろめくように会議室を飛び出した。エレベーターを待ちきれず、非常階段を駆け下りる。行先などなかった。ただ、この悪意の飽和した空間から逃げ出したかった。

会社の裏手にある小さな公園のベンチで、健人はうずくまっていた。ヘッドホンをしても、一度聞いてしまった声は頭の中で反響し続ける。自己嫌悪と絶望が、彼の心を黒く塗りつぶしていく。

「佐伯さん!」

息を切らした声がした。顔を上げると、陽菜が立っていた。彼女の肩は上下し、額には汗が滲んでいる。

「大丈夫ですか?すごく心配で…」

その言葉を聞いた瞬間、健人の中で何かがぷつりと切れた。心配?この状況で?彼女の周りだけが相変わらずの静寂に包まれていることが、猛烈な苛立ちを掻き立てた。

「うるさい!」健人は叫んでいた。「どうせあんたも、心の中では俺のこと、無能な馬鹿だって笑ってるんだろ!なんでだよ!なんであんたの悪口だけ、聞こえないんだよ!気持ち悪いんだよ!」

感情の堤防が決壊し、溜め込んでいた疑念と恐怖が、醜い言葉となって陽菜に突き刺さる。

陽菜は、一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。そして、その瞳にみるみる涙が溜まっていく。だが、彼女は泣かなかった。代わりに、ひどく悲しそうに、そしてどこか懐かしむように、ふっと微笑んだ。

「…やっぱり、そうだったんですね」

「何が…」

「私、昔から、人の『本音の善意』だけが聞こえるんです」

健人は、自分が何を言われたのか理解できなかった。善意だけが、聞こえる?

陽菜は続けた。その声は、雨上がりの空気のように澄んでいた。

「だから、佐伯さんの心の声も、私にはずっと聞こえていましたよ。私が初めて話しかけた時、『この人、いつも笑顔ですごいな』って思ってくれてたこと。私が仕事でミスした時、口では何も言わなかったけど、心の中では『大丈夫かな、手伝ってあげたいな』って、すごく心配してくれてたこと。佐伯さん、本当は、すごく優しい人だから」

世界が、ひっくり返った。

健人の能力は、悪意の受信機。陽菜の能力は、善意の受信機。二人は、同じ世界のポジとネガ、表と裏をそれぞれ聞いていたのだ。彼女が健人に近づいてきたのは、彼の悪意ではなく、彼自身も気づいていなかった内なる善意の声を「聞いて」いたから。そして、彼女の心の声が聞こえなかった理由は、あまりにも単純だった。彼女が健人に向けていた感情は、一片の悪意も混じらない、純度百パーセントの善意だったのだ。

第四章 不協和音のハーモニー

呆然と陽菜を見つめる健人に、彼女は困ったように笑いかけた。

「悪口が聞こえるのは、すごく辛いですよね。でも、善意が聞こえるのも、結構大変なんですよ。お世辞とか社交辞令の裏にある、ちょっとした親切心とかが全部聞こえちゃうから、人を疑えなくなっちゃって。騙されたことも、一度や二度じゃありません」

互いの秘密を分かち合った瞬間、二人の間を隔てていた透明な壁が、音を立てて崩れ落ちた気がした。

健人は、自分の聞いてきた世界を反芻する。部長の「使えない」という心の声。それは、プロジェクトの失敗を憂う責任感の裏返しだったのかもしれない。同僚の「仕事が遅い」という苛立ちは、全体のスケジュールを気にする真面目さの現れだったのかもしれない。悪意は悪意だ。だが、それはその人の全てではない。人間の心は、もっと複雑で、多面的で、そして不器用なものなのだ。

「…そうか」

健人は、ずっと耳を塞いでいたヘッドホンを、ゆっくりと首にかけた。ざわめきが戻ってくる。世界は相変わらず、ちくりと心を刺す小さな悪意で満ちている。でも、もう以前のように怖くはなかった。

隣に、自分の善意を聞いてくれる人がいる。それだけで、世界は絶望的な場所ではなくなった。聞こえる悪意のノイズの向こう側に、聞こえないだけで確かに存在する、無数の善意を感じられるようになったからだ。

後日、健人と陽菜は駅前のカフェにいた。健人はもう、ヘッドホンをしていなかった。

(あそこのカップル、雰囲気変じゃない?)

(男の方、なんか挙動不審だし)

相変わらず、周囲の囁きは健人の耳に届く。だが、彼は向かいに座る陽菜に集中した。彼女はメニューを見ながら、楽しそうに今日の出来事を話している。その笑顔が、今はもう沼の入り口には見えなかった。

(陽菜さんといると、落ち着くな。この時間がずっと続けばいいのに)

健人がそう心で思った瞬間、陽菜がふと顔を上げ、健人と目を合わせた。彼女の頬が、ほんのりと赤く染まる。そして、内緒話でもするように、悪戯っぽく微笑んだ。

世界はノイズに満ちている。不協和音がそこら中で鳴り響いている。それでも、その無数のノイズの中から、たった一つの美しいメロディーを見つけ出すことはできる。健人は、淹れたてのコーヒーの湯気の向こうで、静かに微笑む陽菜を見つめながら、そんなことを考えていた。悪意に満ちた世界も、案外、悪くない。

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