第一章 静寂の旋律
俺、水上響介(みなかみ きょうすけ)の世界は、常に不快なノイズに満ちている。音響技師という職業柄、人より耳が良いのは確かだが、俺が聞いているのは空気の振動だけではない。俺には、人のつく「嘘」が、鋭い高周波音として聞こえるのだ。キーン、と鼓膜を突き刺す、ガラスを爪で引っ掻くような不協和音。それは、人が嘘を口にする瞬間にだけ、俺の頭の中に直接鳴り響く。
「この企画なら絶対成功します!」というプレゼンの裏で鳴る甲高い音。「ずっと一緒にいようね」と囁く恋人の言葉に重なる耳鳴り。テレビから流れる政治家の演説は、もはやノイズミュージックのコンサートだ。おかげで、俺は人間という存在そのものに心底うんざりしていた。人を信じることを諦め、ヘッドフォンで外界の音を遮断し、スタジオのミキシングコンソールに向かう時間だけが、唯一の安息だった。そこには、純粋な音の物理法則しか存在しないからだ。
そんな俺の灰色の日々に、予期せぬ一音が舞い込んだのは、秋風が少し冷たくなってきた午後のことだった。いつものように仕事帰りに立ち寄った、駅裏の古びた喫茶店『木漏れ日』。そこで、窓際の席に座る一人の老婦人が目に留まった。銀色の髪を品よくまとめ、背筋を伸ばして紅茶を飲む姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
「隣、よろしいかしら?」
彼女は、俺が席を探しているのに気づくと、ふわりと微笑みかけた。俺は無言で頷き、彼女の向かいの席に腰を下ろす。気まずい沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「いいお天気ですわね。夫も、こんな日は散歩がしたいとよく言っていたものです。今頃、異国の空の下で何を思っているのかしら」
夫。海外出張が長引いているの、と彼女は続けた。その時、俺は息を呑んだ。聞こえないのだ。あの、不快な高周波音が、一切。彼女の言葉は、まるで澄み切った湧き水のように、俺の耳に何の抵抗もなく流れ込んできた。社交辞令や見栄、あるいは自己欺瞞。人が言葉を発する時、そこには必ず何かしらのノイズが混じる。それが俺の知る世界の法則だった。だが、目の前の老婦人――藤乃千代(ふじの ちよ)と名乗った彼女の世界は、完全な静寂に包まれているようだった。
俺は、生まれて初めて出会った「真実だけを語る人間」に、心を奪われていた。この瞬間が、俺の人生のチューニングを根底から狂わせる前奏曲であることを、まだ知る由もなかった。
第二章 調和のデュエット
それから、喫茶店『木漏れ日』は俺にとっての聖域になった。週に三度、四度と足を運び、千代さんの向かいの席に座るのが習慣になった。彼女はいつも同じ席で、同じ銘柄のダージリンティーを注文し、俺を穏やかな微笑みで迎えてくれた。
彼女が語る話は、ほとんどが「海外出張中」の夫、正一さんのことだった。二人が出会った頃の淡い思い出。新婚旅行で訪れた北国のラベンダー畑の香り。喧嘩した翌朝、不器用な彼が作った少し焦げた卵焼きの味。彼女の言葉は、色鮮やかな情景を俺の心に描き出し、そのどれもが嘘の音を伴わなかった。彼女の記憶の中の正一さんは、完璧なまでに誠実で、愛情深い人物として息づいていた。
「響介さんは、どんな音がお好きなの?」
ある日、彼女がそう尋ねた。俺は少し躊躇った後、自分の呪われた能力について、ぽつりぽつりと話し始めた。人の嘘が音として聞こえること。そのせいで誰も信じられなくなったこと。世界が不快なノイズで溢れていること。それは、誰にも理解されないと諦めていた、俺の孤独な魂の告白だった。
話し終えた俺に、千代さんは驚いた様子も見せず、ただ静かに頷いた。そして、慈しむような眼差しで俺を見つめ、こう言ったのだ。
「大変だったわね。でも、私の言葉からは、その音は聞こえないのでしょう?」
「……はい」
「それなら、よかった。あなたの耳に、心地よい音楽が届いているのなら、私は嬉しいわ」
その瞬間、俺の心の防壁に、暖かな光が差し込んだ気がした。彼女は俺の異常さを否定も肯定もせず、ただ事実として受け入れてくれた。彼女と過ごす時間、彼女の言葉を聞く時間は、まるで完璧に調律された楽器が奏でる美しい和音のようだった。俺は、この調和が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
人間不信の塊だった俺が、千代さんの前では自然に笑えるようになっていた。ヘッドフォンを外して街を歩く時間も増えた。世界からノイズが消えたわけではない。だが、俺には帰るべき「静寂」がある。そう思えるだけで、世界は以前よりずっと耐えられるものに変わっていた。この能力は、千代さんのような本物の人間を見つけ出すための羅針盤だったのかもしれない。俺は、遅まきながら訪れた幸福を噛み締めていた。
第三章 不協和音の真実
その幸福な調べは、一本の電話によって、唐突に断ち切られた。喫茶店のマスターからだった。千代さんが店で倒れ、救急車で運ばれたという。俺はスタジオを飛び出し、指定された病院へ向かった。胸を掻きむしるような不安と、千代さんの身を案じる焦燥感で、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
集中治療室の前の廊下で待っていると、一人の女性が俺に近づいてきた。「水上響介さん、でいらっしゃいますか?」。年の頃は四十代半ばだろうか。疲れた表情の中に、どことなく千代さんの面影があった。
「母が、いつもお世話になっております。娘の美咲です」
彼女は深々と頭を下げた。俺は慌ててそれを制し、千代さんの容態を尋ねる。幸い、命に別状はないらしい。ほっと胸をなでおろした俺に、美咲さんは申し訳なさそうに続けた。
「母から、何か聞いていらっしゃいますか?父のこととか…」
「ええ。海外出張が長引いていらっしゃると。とても素敵なご主人ですね」
俺がそう言うと、美咲さんの表情が曇り、その瞳に深い悲しみの色が浮かんだ。彼女は視線を落とし、震える声で言った。
「父は……十年前に、事故で亡くなりました」
時が、止まった。俺の耳が、脳が、彼女の言葉を理解することを拒絶した。何を言っているんだ?千代さんの言葉からは、一度だって嘘の音は聞こえなかった。あの澄み切った真実の響きは、何だったんだ?
混乱する俺に、美咲さんは決定的な事実を告げた。
「母は、若年性のアルツハイマー病なんです。父が亡くなったショックで、病気が進行してしまって…。それ以来、母の中では、父はずっと海外に出張していることになっているんです。毎日、父の帰りを待ちながら、楽しかった思い出だけを繰り返している。母は、嘘をついているんじゃない。心の底から、父が生きていると信じているんです」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。全身の血が逆流し、耳の奥で、これまで聞いたどんな嘘の音よりも激しい、割れるような轟音が鳴り響いた。
俺の能力は、相手が「嘘だと認識していること」にしか反応しない。
その冷徹な事実に、俺は打ちのめされた。俺が信じた静寂は、真実の静寂ではなかった。それは、病が生み出した、完璧な虚構の静寂だったのだ。安息の地だと思っていた場所は、砂上の楼閣だった。俺の羅針盤は、初めから壊れていた。信じていたもの全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
第四章 心が奏でる音
数日間、俺は自分の殻に閉じこもった。スタジオにも行かず、ただ部屋の隅で、再び鳴り響き始めた世界のノイズに耳を塞いでいた。千代さんが信じていた世界は、偽物だった。俺が感じていた安らぎも、偽物だった。結局、この世界に確かなものなど何一つないのだ。絶望が、冷たい霧のように心を覆っていた。
だが、何日経っても、心の中から千代さんの微笑みが消えなかった。夫の話をするときの、あの少女のような輝き。俺の告白を静かに受け入れてくれた、あの慈愛に満ちた眼差し。それらまでが、嘘だったとは思えなかった。
俺は、吸い寄せられるように再び病院へと向かった。個室に移された千代さんは、窓の外をぼんやりと眺めていた。俺が入っていっても、気づかない。おそらく、俺の記憶も、彼女の中から消えてしまったのだろう。
ベッドのそばの椅子に静かに腰を下ろし、彼女の横顔を見つめる。その時、ふと気づいた。
彼女の語った思い出話は、客観的には「嘘」だったのかもしれない。だが、夫を愛する彼女の気持ち、彼と過ごした日々の幸福感、それらは紛れもない「本物」だったのではないか。彼女の世界がたとえ病による幻想だとしても、その中で彼女が感じていた温かな感情までが、偽物だったわけではない。
真実とは何だ?嘘とは何だ?
俺は今まで、言葉の表面的な正しさだけを追い求めていた。だが、本当に大切なのは、その言葉がどんな心から発せられたか、ということではないのか。人を傷つけるための冷たい真実もあれば、人を救うための優しい嘘もある。そして、千代さんのように、自分自身を支えるために生まれた、悲しくも美しい虚構もあるのだ。
俺は立ち上がり、窓辺に立つ千代さんの隣に並んだ。
「千代さん。いい天気ですね」
彼女はゆっくりと俺の方を向き、初めて会う人にするように、小さく微笑んだ。
「ええ、本当に。夫も、こんな日は散歩がしたいと言うでしょうね」
その言葉に、嘘の音はしなかった。だが、もう俺はそれを「真実」だとか「嘘」だとか、そんな物差しで測るのはやめていた。ただ、彼女の言葉の奥にある、夫への深い愛情という「心の音」に、耳を澄ませていた。
「そうですね。きっと、どこか綺麗な空の下で、あなたのことを想っていますよ」
俺は、穏やかにそう答えた。それは、彼女の世界に寄り添うための、俺なりの優しい音色だった。
病院からの帰り道、街の雑踏が耳に流れ込んできた。相変わらず、世界は不快な高周波音に満ちている。だが、俺の聞こえ方は少しだけ変わっていた。あのノイズの向こう側で、人がなぜ嘘をつくのか、その弱さや、悲しみ、見栄、そして優しさに、思いを馳せることができるようになっていた。
俺の能力は、呪いでもなければ、特別な贈り物でもない。それはただ、世界に満ちる無数の音の一つに過ぎないのだ。そして、本当に聞くべきなのは、言葉の真偽を告げる高周波音ではなく、その奥でか細く鳴り響いている、人の心の和音なのだと、俺は静かに悟っていた。