第一章 黒い本と最初の囁き
古書店『廻廊洞(かいろうどう)』の主、桐谷朔(きりたに さく)の日常は、古紙とインクの匂いが染みついた静寂そのものだった。埃をかぶった背表紙の森を抜けて差し込む午後の光が、彼の無気力な横顔を淡く照らす。感情の起伏というものを、どこかに置き忘れてきたような男だった。客と当たり障りのない会話を交わし、黙々と本の整理をする。そんな、凪いだ水面のような日々。
その均衡が崩れたのは、古書市場で仕入れた段ボールの底から、一冊の奇妙な本が出てきた時からだった。
表紙も、背表紙にも、何の文字もない。ただ、夜の闇を塗り固めたような、吸い込まれそうなほどの黒。革装丁らしい滑らかな手触りだが、どこかひんやりと冷たい。朔は無意識にその本を開いた。中は白紙だった。インクの染み一つない、真っさらなページが延々と続いている。仕入れの記録にもなく、誰が紛れ込ませたのかも分からない。気味が悪い、と思ったが、それだけだった。彼はその黒い本を、店の片隅にある未整理の棚に無造作に押し込んだ。
その夜からだった。店じまいをして一人、奥の居住スペースで過ごしていると、奇妙な物音が聞こえ始めた。店のほうから、本が床に落ちる鈍い音。確認しに行っても、散らかった本は一冊もない。眠りにつこうとすると、壁の向こうから、誰かが爪で引っ掻くような、カリ、カリ、という微かな音が響く。
最初は気のせいだ、建物が古いからだろう、と朔は自分に言い聞かせた。しかし、現象は日に日にエスカレートしていった。誰もいないはずの店の隅に、一瞬、黒い人影がよぎる。耳元で、意味をなさない言葉が、冷たい吐息と共に囁かれる。
ある晩、朔はカウンターで遅い夕食をとっていた。冷めたコンビニの弁当を無心で口に運んでいると、背後の書架から、カタカタと何かが揺れる音がした。振り返る。音は止む。気のせいか、と食事を再開しようとした瞬間、背後で、棚に並んだ文庫本が、まるで意思を持ったように一斉に床へと滑り落ちた。
バサバサバサッ!
乾いた衝撃音が、静寂を切り裂く。朔は息を呑んだ。心臓が、錆びついた扉をこじ開けるように、ドクン、と大きく脈打つ。背筋を、氷の指でなぞられたような悪寒が駆け上った。散らばった本、その中心に、あの黒い本だけが、まるで王のように鎮座している。
それは、朔がこの店に来てから、初めて覚える生々しい「恐怖」だった。その感情が全身を駆け巡った瞬間、ぴたり、と店の空気が凪いだ。まるで、嵐が過ぎ去ったかのように。そして彼は気づいてしまった。何かが、自分のこの「恐怖」を待っていたのだ、と。
第二章 蝕む静寂と影の輪郭
怪奇現象は、朔が恐怖を感じた瞬間に収束する。その奇妙な法則に気づいてから、彼の日常はさらに歪なものへと変貌していった。現象は、彼の恐怖を求めるように、より巧妙に、より執拗になっていく。
夜中に目覚めると、天井の隅に、蜘蛛のように蠢く黒い染みが広がっている。悲鳴を上げそうになる自分を必死でこらえ、恐怖に震えていると、染みはすうっと消えていく。古書のページをめくると、インクの文字が蚯蚓のように這い出し、彼の名前を形作ろうとする。そのたびに朔の心臓は激しく高鳴り、全身から冷や汗が噴き出した。
彼の精神は、確実に蝕まれていった。静寂が怖い。暗闇が怖い。一人でいることが、何よりも怖い。かつて安らぎの場所であった古書店は、今や彼を閉じ込める檻と化した。
あの黒い本を処分しようと、朔は何度も試みた。ゴミに出そうとすれば、収集車がその日に限って来ない。川に投げ捨てようとすれば、足が鉛のように重くなって動かなくなる。燃やそうと火を近づければ、ライターが謎の故障を起こす。本は、まるで彼の身体の一部であるかのように、彼から離れることを拒絶していた。
やがて、朔の中に恐ろしい変化が芽生え始めた。彼は無意識のうちに、「恐怖」を探すようになっていたのだ。静かな夜、物音がしないことに苛立ち、自ら床をきしませてみる。鏡に映る自分の背後に、何かいないかと期待してしまう。恐怖を感じる瞬間にだけ訪れる、あの奇妙な安堵感。それに依存し始めている自分に気づき、朔は吐き気を催すほどの自己嫌悪に襲われた。恐怖に怯えながら、恐怖を求めている。この矛盾した感情の螺旋の中で、彼は正気を失いかけていた。
そんなある月曜の夜。店には客もおらず、外は冷たい雨が降っていた。朔はカウンターに突っ伏し、疲弊しきっていた。もう、何も感じたくない。そう願った時だった。
店の最も暗い隅、高い天井まで続く書架の影が、不自然に揺らめいた。それはインクを水に垂らした時のように、じわりと闇を深めていく。やがて、その闇の中から、何かがゆっくりと滲み出てきた。
それは、実体があるのかないのかも分からない、ただの「影」だった。人間の形をしているようにも見えるが、輪郭は曖昧で、まるで陽炎のようにゆらゆらと揺れている。しかし、その存在感は圧倒的だった。店中の空気が凍りつき、古書の匂いが死んだように消える。朔は金縛りにあったように動けず、ただその影を見つめることしかできなかった。
影は、ゆっくりと、彼の方へ近づいてくる。音もなく、気配もなく、ただ闇が、こちらへ侵食してくる。そして、朔の目の前でぴたりと止まった。
声が、聞こえた。それは耳で聞く音ではなかった。脳髄に直接、氷の針を突き立てられるような、冷たい感覚だった。
『……もっと』
朔は息ができなかった。
『もっと、こわがって』
影は、懇願するように、そう囁いた。
第三章 恐怖の告白と妹の面影
絶望的な静寂が、朔と影の間に横たわっていた。影から発せられた思念は、彼の魂を芯から凍らせる。こわがって。その言葉は、命令でも脅迫でもなく、飢えた子供が食べ物をねだるような、悲痛な響きを帯びていた。
「お前は……一体、何なんだ……」
かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。影は、彼の問いに答えるかのように、再び脳内に語りかけてくる。
『わたしは、あなたの恐怖を食べるもの』
『あなたがこわがらないと、わたしは、ここにいられない』
『あなたがこわいと思うほど、わたしは、わたしになれる』
朔は愕然とした。やはり、そうだったのだ。この得体の知れない存在は、彼の恐怖を糧にして生きている。彼が感じてきた恐怖は、全てこの影のための「食事」だったのだ。ふざけるな、と叫びたかった。なぜ自分が、こんな化け物のために、心をすり減らさなければならないのか。怒りが湧き上がった。だが、それ以上に強い感情が、彼の心を支配した。それは、抗うことすら諦めてしまうほどの、絶対的な無力感だった。
その時、奇妙なことが起きた。朔の絶望と諦念に呼応するように、目の前の影の輪郭が、ほんの少しだけ、はっきりとしたのだ。曖昧な人型だったものが、細身の、小柄なシルエットを帯び始める。まるで、ピントの合わない写真が、徐々に焦点を結んでいくように。
そして、朔はそのシルエットに見覚えがあることに気づいてしまった。華奢な肩。細い首筋。風に揺れる長い髪。それは、彼の記憶の奥底に、錆びついた鎖で固く封じ込めていた姿だった。
「……しおり?」
無意識に、その名前が口をついて出た。
詩織。五年前に、交通事故で亡くした、たった一人の妹。
その名を呼んだ瞬間、影は激しく揺らめいた。そして、その輪郭はさらに鮮明になり、おぼろげながら、少女の顔立ちが浮かび上がってきた。大きな瞳、小さな唇。紛れもなく、それは幼い日の詩織の面影だった。
頭が割れるように痛んだ。忘れていたはずの記憶が、濁流となって蘇る。あの雨の日。横断歩道。大型トラックのけたたましいブレーキ音。手を繋いでいたはずの、小さな手の感触が、ふっと消えた瞬間の、絶望的な喪失感。そして、血の海に横たわる小さな身体を見た時の、現実感を失うほどの、圧倒的な恐怖。
そうだ。あの時、自分は、死ぬほど、怖かったのだ。世界が、終わるほどに。
しかし、朔はその記憶に蓋をした。耐えきれなかったのだ。妹を守れなかった自責の念と、彼女を失った恐怖に。彼は、事故に関わる一切の感情を心の奥底に沈め、無気力という鎧で自身を守り、生きてきた。
影となった詩織は、悲しげに朔を見つめている。
『お兄ちゃんが、あの時、すごくこわがってくれたから』
『わたしは、生まれたの』
『でも、お兄ちゃんが、忘れちゃったから……わたし、消えそうだった』
『だから、思い出してほしかった。わたしのこと。……こわかった、あの気持ちのこと』
朔は、ようやく全てを理解した。目の前の影は、幽霊でも悪霊でもない。それは、五年前のあの日に、朔が抱いた強烈な「恐怖」と「自責の念」、そして「妹を失いたくない」という悲痛な願いが、あの黒い本を依り代として形になった存在だったのだ。詩織は悪意で彼を怖がらせていたのではない。兄に忘れられ、存在が希薄になっていく中で、ただ必死に、自分という存在を繋ぎ止めようとしていただけだった。兄の恐怖だけが、彼女をこの世に留める唯一の絆であり、食事だったのだ。
第四章 最期の晩餐
真実の奔流に打ちのめされ、朔はその場に崩れ落ちた。頬を伝う、熱い雫の感覚を、彼は何年ぶりに味わっただろうか。それは恐怖の汗ではない。後悔と、そしてどうしようもないほどの愛情から生まれた、涙だった。
「詩織……ごめん……ごめんな」
嗚咽と共に、言葉が漏れる。彼は、妹の死から逃げ、自分の感情から逃げ、たった一人でこの世に生まれ落ちてしまった妹の成れの果てを、飢えさせていたのだ。なんと愚かで、残酷なことをしてしまったのだろう。
彼は顔を上げた。目の前には、まだ輪郭のぼやけた妹の影が、不安げに揺らめいている。朔は、もう彼女を怖がることができなかった。心を満たしているのは、恐怖ではなく、深い哀しみと、胸が張り裂けそうなほどの愛おしさだけだった。
「詩織。もう、いいんだ。もう、怖がらなくていい」
朔は、震える声で語りかけた。それは、影に対してではなく、五年前のあの日に心を閉ざしてしまった、自分自身への言葉でもあった。
「お兄ちゃん、全部思い出したよ。お前と手をつないで歩いたこと。お前が好きだった、キャラメルの匂い。雨の日の水たまり。全部……全部、覚えている。そして、どれだけお前を愛していたか」
彼が、恐怖以外の感情――温かい愛情や、悲痛な後悔を向けるたびに、詩織の影は、ろうそくの炎が風に吹かれたように、弱々しく揺らめいた。彼女の存在を支えていた「恐怖」という食事が、断たれてしまったからだ。輪郭が、少しずつ、周囲の闇に溶け始めていく。
消えてしまう。その事実が、再び朔の胸を締め付けた。しかし、今度は逃げなかった。彼は、消えゆく妹の姿を、まっすぐに見つめた。
「お兄ちゃんは、もうお前を怖がってやることはできない。でも、忘れない。絶対に、忘れないから」
彼は立ち上がり、震える足で影へと歩み寄った。そして、実体のないその身体を、抱きしめるように腕を広げた。冷たい空気を抱くだけのはずだった。しかし、その瞬間、確かに、温かい何かに触れた気がした。
脳内に、最後の思念が響く。それは、今までのような冷たいものではなく、陽だまりのように、穏やかで、満ち足りた響きだった。
『……ありがとう、お兄ちゃん』
『やっと……あったかい……』
その言葉を最後に、詩織の影は、光の粒子のようにきらめきながら、静かに霧散していった。闇に溶けるのではなく、光の中に、昇華していくように。
後に残されたのは、いつもの古書店と、頬を涙で濡らした朔だけだった。怪奇現象も、不気味な気配も、もうどこにもない。ただ、店の空気には、彼女が好きだったキャラメルのような、甘く、そして切ない香りが、微かに漂っていた。
数日後、朔の日常は戻ってきた。しかし、それは以前の無気力な日々とは全く違っていた。彼は失われた感情と記憶を取り戻し、喪失という名の深い傷と、向き合って生きていく覚悟を決めた。
時折、ふと、店の隅に温かい気配を感じることがある。それはもはや恐怖ではなく、愛する妹が、静かに自分を見守ってくれているような、優しい感覚だった。
朔は、あの真っ黒な本を手に取った。そして、万年筆で、その美しい白紙の最初のページに、タイトルを書き込んだ。
『妹へ』
彼にとって、恐怖とは、愛する者を失うことであり、そして最も恐ろしいのは、その記憶と感情を「忘れてしまう」ことだった。この本は、その恐怖と、そして愛の、唯一の証人なのだ。朔は本をそっと書架に戻した。それはもう、恐怖の源ではなく、世界で一冊だけの、かけがえのない宝物だった。