不協和音は風船人形の夢を見るか
第一章 調和に沈む街
灰原律(はいばら りつ)の部屋では、メトロノームだけがいつも通りだった。黒檀でできたその古びた道具は、彼の感情の起伏を映す鏡のように、予測不能なリズムを刻み続ける。今は静かな彼の心を表すかのように、ただ単調に、しかしほんの少しだけ拍を外しながら「カチ…ッコチ…」と揺れている。それが、この街で唯一許された、微かな不協和音だった。
律が窓の外に目をやると、世界は完璧なハーモニーに満ちていた。パン屋の店主が発する「ふっくらとパンが焼ける音」は、通りを行く郵便配達員の「軽やかな自転車のベルの音」と長三度の美しい和音を奏でる。人々は皆、穏やかな微笑みを浮かべ、その口から漏れる息遣いさえも、まるで計算されたオーケストラの一部のようだった。昇進したばかりの隣人が発する「誇らしげなファンファーレの音」も、赤ん坊の誕生を祝う向かいの家の「柔らかな木琴の音」も、すべてが長調の明るい響きの中に溶けていく。
争いも、失敗も、焦りもない。誰もが幸福で、満ち足りている。だが律は、その完璧すぎる調和に息が詰まりそうだった。アスファルトの隙間から聞こえていた「小さな虫の羽音」も、風が運んでいた「建物の隙間を抜ける寂しげな音」も、今はもうない。すべてが調律され、整えられた世界。そこには、かつて人々を笑わせた、愛すべき「コメディ」が存在する余地はなかった。
律はため息をつき、テーブルの上のマグカップに指を伸ばした。途端、指先が滑り、カップが床に落ちて砕け散る――そんな想像をした。だが、彼の指は吸い付くようにカップを掴み、中身のコーヒーは一滴も揺れなかった。失敗すら許されないこの街で、彼の心は乾いたスポンジのように、混沌を渇望していた。
第二章 消えたコメディアン
街角の広場に、音葉(おとは)さんがいた。彼はかつて、この街一番のコメディアンだった。彼が発する音は「ブレーキの壊れた自転車が坂道を下る音」。キーキーと耳障りな金属音と、ガタガタと揺れる車体の音が混じり合った、まさに不協和音の塊。彼はその音と共に盛大に転び、ハトの群れに突っ込み、噴水の水を頭からかぶり、人々を涙が出るほど笑わせていた。彼のドタバタ劇は、街の日常に彩りとユーモアを与えていたのだ。
しかし、今の音葉さんから聞こえるのは、澄み切った「クリスタルのグラスが触れ合う音」だけだった。彼はベンチに静かに腰掛け、完璧な手つきで鳩に餌を撒いている。その表情は穏やかで、幸福そうに見える。だが、彼の瞳からは、かつてのいたずらっぽい輝きが消え失せていた。
「音葉さん」
律が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「やあ、律くん。今日も良い天気だね。世界はこんなにも美しいハーモニーに満ちている」
その声は、淀みなく滑らかだった。律は、彼の口から飛び出すはずの突拍子もない冗談を待ったが、何も出てはこなかった。
律は胸が締め付けられるのを感じた。怒りとも悲しみともつかない感情が込み上げる。その瞬間、彼のポケットに入れていたキーホルダーの小さな金属が、ぐにゃりと歪み、指先ほどの大きさの役に立たないミニチュアの錨(いかり)に変わった。ネガティブな感情は、彼の能力を暴発させる。周囲の無機物を、より一層奇妙で使い物にならないものに変えてしまうのだ。
音葉さんの虚ろな笑顔が、この街の異常さを何よりも雄弁に物語っていた。この調和は偽物だ。誰かが、何かが、この街から大切なものを奪っている。律は固く拳を握りしめた。机の上のメトロノームが、遠く離れたこの場所でも彼の感情に呼応するかのように、苛立ったジャズの変拍子を刻み始めたのが、聞こえるようだった。
第三章 不協和音の残響
街の調和の原因を探るため、律は中央図書館の古文書室に籠った。しかし、どの文献にも「街を襲った奇妙な調和」に関する記述は見つからない。司書が発する「静かにページをめくる音」と、古書のインクが乾いた「微かな紙の匂い」が混じり合い、律を眠りへと誘うだけだった。
諦めて図書館を出たその夜、律は近道のために古びた裏路地を歩いていた。街灯が奏でる「穏やかな光のハミング」が支配する静寂の中、彼はふと足を止めた。どこからか、微かな音が聞こえる。それは、この街では決して耳にすることのない、ほんの少しだけ音程がズレた響きだった。
音の源を探して耳を澄ますと、古びた鉄製のマンホールの蓋に行き着いた。隙間から漏れ聞こえてくるのは、低く、持続する、不完全な唸り声のような音。それは完璧なハーモニーから逸脱した、懐かしくさえある「不協和音」の残響だった。
律の心臓が、期待と不安で高鳴る。ポケットの中のメトロノームが、まるでサンバのカーニバルが始まったかのように、けたたましくも楽しげなリズムを刻み始めた。これだ。この下に、きっと答えがある。
彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、マンホールの縁に指をかけた。錆び付いた鉄は重く、軋む音を立てた。その「軋み」の音すら、今の律には心地よい音楽のように聞こえた。決意を固め、彼は冷たく湿った闇の中へと、一歩を踏み出した。
第四章 地下のチューニングフォーク
地下へ続く梯子は、深く、どこまでも続いているように思えた。湿った空気とカビの匂いが鼻をつく。やがて彼の足が硬い地面を捉えると、目の前には信じられない光景が広がっていた。
そこは、街の地下に存在するとは思えないほど広大な、ドーム状の空洞だった。そしてその中央に、すべての元凶が鎮座していた。天を突くほどの巨大な、水晶でできたチューニングフォーク。それは淡い光を放ちながら、低く、しかし強力な振動を続けていた。「ブゥゥン…」というその音こそが、街全体を包み込むハーモニーの源泉なのだと、律は直感した。
壁面には古代の文字がびっしりと刻まれている。律がなんとか読み解くと、そこには街の創設者たちの願いが記されていた。
『争いは不和の音より生まれる。故に我らは、人々の心の不協和音を調律し、永遠の平穏をこの地に築かん』
彼らは善意で、この装置を遺したのだ。人々から苦しみを奪い、争いのない世界を作るために。
律は立ち尽くした。この平穏を、壊していいのだろうか。人々は今、幸福だ。誰も傷つかず、誰も悲しまない。自分が取り戻そうとしている混沌は、本当に人々のためになるのだろうか。彼の心は大きく揺れた。しかし、その脳裏に、魂が抜けたように微笑む音葉さんの顔が浮かんだ。失敗して、怒って、それでも腹の底から笑い合う。それが人間ではないのか。
律の葛藤は、空洞に響く機械的な音によって断ち切られた。チューニングフォークの根本から、石でできた守護者のような自動人形が姿を現したのだ。
「調和ヲ乱ス者ヲ、排除スル」
無機質な声と共に、人形がゆっくりと律に迫ってくる。
第五章 決断の変身
逃げ場はなかった。石の人形は着実に距離を詰めてくる。律の心臓は破れんばかりに脈打ち、恐怖と焦りが全身を駆け巡った。このままでは、自分もこの調和の一部にされてしまう。
「やめろ!」
律は叫んだ。その声は、恐怖に震えていた。彼の感情が極限まで高ぶったその瞬間、ポケットのメトロノームが狂ったように高速のブレイクビーツを刻み、律の身体から青白い光が迸った。彼の能力が、制御不能のまま暴発したのだ。
しかし、その力は目の前の人形には向かわなかった。まるで磁石に引かれるように、すべてのエネルギーが空洞の中心、巨大なチューニングフォークへと吸い込まれていく。
閃光。
そして、すべてを飲み込むような轟音。
空洞全体が激しく揺れ、律は思わず床に伏せた。
やがて、振動が収まり、あたりに静寂が訪れた。律がおそるおそる顔を上げると、そこには信じがたい光景が広がっていた。あれほど巨大で荘厳だった水晶のチューニングフォークは、跡形もなく消え去っている。
代わりにそこにあったのは――巨大で、派手な原色で彩られた、ビニール製の風船人形だった。間の抜けた笑顔を浮かべ、手足をだらりとさせたその姿は、あまりにも滑稽だった。
やがて、その人形の口から、空気が抜けるような情けない音が漏れ始めた。
「プ〜、ピロピロ〜、ブブッ、プスン……」
それは、今まで聞いたこともないほど音程が外れた、最高にダサいメロディだった。
第六章 帰ってきた不協和音
律が地上に戻ると、世界は一変していた。街は、ありとあらゆる不協和音で満ち溢れていた。
パン屋の店主は、真っ黒に焦がしたパンを手に「炭が砕ける音」を発しながら、客に怒鳴っている。その客は「財布を忘れたことに気づいたカエルの鳴き声」で慌てふためき、店を飛び出していった。あちこちで言い争いが起き、子供たちは泥だらけになって走り回り、誰かが派手に転んで荷物をぶちまけている。
しかし、その光景は不思議と活気に満ちていた。人々は怒り、焦り、失敗していたが、その表情には生命力がみなぎっていた。完璧なハーモニーに支配されていた時よりも、ずっと人間らしかった。
広場の噴水のそばで、大きな人だかりができていた。その中心には、音葉さんがいた。彼はバナナの皮で盛大に滑り、「錆びたトランポリンが軋む音」という、とんでもない音を発しながら噴水に突っ込んでいた。びしょ濡れになった彼の姿を見て、人々は腹を抱えて笑っている。音葉さんもまた、昔のようにいたずらっぽく笑っていた。
律は自分の部屋に戻った。窓の外の混沌とした街並みを眺めながら、静かに微笑む。机の上のメトロノームは、ご機嫌な様子で、相変わらずリズム感のないサンバを陽気に刻んでいた。
街の地下深くからは、今もあの風船人形が奏でる、間の抜けたメロディが微かに響いてくる。それは、この街の新しいテーマソング。完璧ではないけれど、どこか愛おしい、希望に満ちた不協和音。
律は、自分の掌を見つめた。能力のせいで、彼の指先から聞こえる音は「静かにページをめくる音」から、いつの間にか「うっかりインクをこぼす音」に変わっていた。それもまた、悪くない。きっとこの街は、以前よりももっと面白く、もっとカオスなコメディの世界になるだろう。そしてその方が、ずっといい。