言霊送りの風
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言霊送りの風

第一章 風の呼び声

千夜(ちや)の瞳は、久しく光を映していない。その代わり、彼の耳は世界の全てを聴いていた。頬を撫でる風は、単なる大気の流れではなかった。それは、この土地に刻まれた幾万の記憶を運ぶ語り部であり、千夜はそれを聴き取る稀有な力を持つことから「風耳」と呼ばれた。

草の葉擦れは過ぎ去った恋人たちの囁きに、岩を打つ風の唸りは戦場で散った者たちの鬨の声に聞こえる。彼は盲目の浪人として諸国を流れ、風の音に耳を傾け、人々の「言の葉」の残響を辿ることを生業としていた。言霊の粒子が万物を成すこの世界において、過去は完全に消え去ることはない。風がその欠片を運び、語り継ぐのだ。

だが、この数ヶ月、風が運ぶ物語は異様な静寂に蝕まれていた。ある宿場町に辿り着いた千夜の耳に、乾いた風が不吉な報せを運んできた。

「また一人、霞のように消えちまったそうだ」

「恐ろしいことに、誰だったかさえ思い出せねぇ」

それは、ただの死ではなかった。存在そのものが、まるで最初から無かったかのように世界から削り取られていく。風の中に、その者の生きた証である言霊の残響が、ひとかけらも残っていないのだ。千夜は杖を握る手に力を込めた。風が、泣いている。声にならぬ悲鳴を上げている。彼は、その声の源へと、静かに歩みを進めた。

第二章 空白の残響

千夜が訪れたのは、谷あいの小さな村だった。そこは、異様なほどの静寂に包まれていた。人々の声はか細く、笑顔は影を落とし、まるで村全体が世界の記憶から忘れ去られようとしているかのようだった。

「娘が……私のタエが、消えてしもうたのです」

軒先で薬草を干していた老婆が、千夜に震える声で語りかけた。老婆の記憶の中では、タエという娘は陽だまりのような笑顔で笑い、歌を口ずさみ、村の誰からも愛されていた。しかし、村人たちの記憶から、タエの存在は日に日に薄れているという。

「あの子が好きだった野花の名前さえ、昨日は思い出せなんだ……」

千夜は目を閉じ、意識を風に溶け込ませた。いつもならば、この村で生きたタエという娘の快活な声、母親を呼ぶ甘えた響き、恋人と交わしたであろう密やかな言の葉が、風の旋律となって聞こえてくるはずだった。

しかし、耳に届くのは、空虚な風切り音だけ。

完全な「無」。

そこには、タエという娘が存在した痕跡が、言霊の粒子レベルで綺麗に消し去られていた。これは人の仕業ではない。もっと根源的で、抗いようのない何かが、人々の存在を喰らっている。

「これしか、あの子の思い出が……」

老婆は、掌から古びた柘植の櫛を千夜に差し出した。タエが使っていたというその櫛には、微かに白粉の香りと、娘を想う母の温かい言霊だけが染み付いていた。千夜はそれを受け取ると、静かに頷いた。この温もりだけは、決して消させてはならない。

第三章 無音の笛

陽が落ち、月光が村を青白く照らす頃、千夜は村はずれの丘に独り立っていた。腰に差した一本の古びた竹笛を、彼は静かに唇に当てる。それは「無音の笛」と呼ばれ、彼が奏でる旋律は、常人の耳にはただの風音にしか聞こえない。

息を吹き込むと、笛は音ではなく、微かな振動を世界に放った。千夜の耳には、その振動に共鳴して風の音が幾重にも増幅されて聞こえる。彼は、タエが消えたという場所に意識を集中させ、笛の音色を変えた。それは、この地に留まる言の葉の残響を呼び覚ますための旋律。

もし僅かでもタエの言霊が残っていれば、それは蛍のような淡い光の粒子となって、千夜の心の眼に映し出されるはずだった。しかし、彼の前に広がるのは、どこまでも深い闇。笛の音が呼び覚ますのは、草木の囁きと、遠い昔の土地の記憶ばかり。タエという個人の物語は、完全に削ぎ落とされていた。

千夜は笛を吹くのをやめ、その冷たい竹の感触を指でなぞった。この笛には、もう一つの力がある。それは、言霊を呼び覚ますのではなく、逆にその存在を深く「沈黙」させる力。師からこの笛を託された時、その真の意味を彼は理解していなかった。だが今、この絶対的な静寂を前にして、千夜の胸にひとつの恐ろしい仮説が芽生え始めていた。誰かが何かを「消す」ために、自分は何かを「隠す」ための笛を託されたのではないか、と。

第四章 白銀の捕食者

数日後、千夜は消滅現象が起きたという別の場所を訪れていた。そこはかつて、大きな祭りで賑わった広場だったという。人々の喜びや祈り、多くの強い言霊が渦巻いていた場所だ。彼は気づいていた。この現象は、言霊が豊かに満ちた場所ほど起こりやすいということに。

その夜、千夜は広場の中央で瞑目し、神経を研ぎ澄ませていた。風が凪ぎ、空気が張り詰める。そして、それは現れた。

音もなく。

気配もなく。

ただ、空間が歪み、そこから白銀の光を放つ揺らめきのようなものが滲み出してきた。それは定まった形を持たず、ただ純粋な法則の奔流そのものだった。千夜には見えない。だが、彼の肌が、耳が、その存在が放つ圧倒的な「無」の波動を感じ取っていた。周囲の言霊の粒子が、その光に吸い寄せられ、音もなく消滅していく。風の歌が、悲鳴を上げて途絶える。

「貴様が、言の葉を喰らう者か」

千夜が問いかけるが、返事はない。その代わり、白銀の光はゆっくりと千夜の方へと向きを変えた。千夜がこれまで聴き溜めてきた無数の言霊が、その魂に豊かに宿っていることを感知したのだ。それは、この世界の異物を排除しようとするかのような、冷徹で純粋な意思だった。千夜は咄嗟に「無音の笛」を構えた。これは、戦うための武器ではない。だが、今はこれしか、己を守る術はなかった。

第五章 沈黙の理(ことわり)

白銀の光が千夜に迫った瞬間、彼の脳裏に直接、言葉ではない「理解」が流れ込んできた。それは声ではなく、世界の法則そのものが奏でる、冷徹な真実の響きだった。

『我は浄化者。世界の飽和を防ぐための理(ことわり)』

この世界は、人々の想いや言葉、すなわち言霊によって絶えず満たされていく。しかし、それは無限ではない。溢れかえった言霊は淀みとなり、やがては世界そのものを崩壊させる。浄化者は、それを防ぐために定期的に現れ、過剰と判断された言霊を回収し、無に還す自動機構なのだという。

そこに悪意はない。ただ、秩序を維持するための、あまりにも無慈悲な均衡。

千夜の心象風景に、ある光景が映し出された。タエが消える瞬間だ。母への感謝を込めた「ありがとう」という最期の言葉。その温かい言霊が、浄化者の白銀の光に触れた途端、意味も感情も熱も失い、ただの粒子となって吸収され、消えていく。喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも、語り継がれるべき物語も、浄化者にとっては等しく回収すべき「過剰なデータ」でしかなかった。

絶望が千夜の心を凍らせた。このままでは、人の歴史は、文化は、魂の輝きは、全てが無に帰す。忘れられるのではない。最初から無かったことにされてしまう。

その時、千夜は「無音の笛」の本当の意味を悟った。この笛は、大切な言霊を浄化者から隠すための「鞘」だったのだ。だが、隠すだけでは何も解決しない。いずれ世界は、意味を失った美しいだけの、空虚な箱庭になってしまう。

第六章 全ての言の葉を此処に

覚悟は、静かな夜明けのように千夜の心に訪れた。

浄化者を滅ぼせば、世界は言霊の飽和によって崩壊するだろう。放置すれば、世界は意味を失い緩やかに死んでいく。ならば、道は一つしかない。

「俺が、新たな理となる」

千夜は杖を捨て、浄化者の前にまっすぐに立った。彼は目を閉じ、意識を世界の風と一体化させる。

「来たれ。俺の魂に」

風に呼びかける。これまで旅路で聴いてきた、全ての言の葉に。名もなき村人の笑い声に。戦場で散った武士の無念に。赤子の最初の産声に。老婆が娘に捧げた尽きせぬ愛情に。それら全てが、忘れられてはならない、消されてはならない、尊い物語なのだ。

風が応え、無数の言霊の光が世界中から集まり、千夜の身体へと流れ込んでいく。彼の魂は、人一人が到底抱えきれないほどの記憶と感情の奔流を受け止め、器としての限界を超えて軋みを上げた。だが、彼の表情は穏やかだった。老婆から預かった柘植の櫛を固く握りしめる。タエの物語は、彼が確かに此処に宿した。

第七章 新たなる風の詩(うた)

全ての言の葉をその身に宿した千夜は、浄化者に向き直り、「無音の笛」を唇に寄せた。

今度の旋律は、「沈黙」ではない。

彼が奏でたのは、魂に宿した全ての言霊を解き放ち、浄化者と共鳴させるための「調律」の詩。

千夜の身体が、内側から淡い光を放ち始めた。言霊の粒子となって、少しずつ世界にほどけていく。個としての「千夜」の意識は薄れ、痛みも恐怖も消え、ただ無数の物語と一体になる感覚だけが満ちていく。

白銀の光が、彼を包み込んだ。

それはもはや、捕食ではなかった。二つの理が一つに溶け合う、荘厳な融合だった。

千夜という名の浪人はいなくなった。

だが、その日を境に、世界の風は変わった。

風は時に優しく、忘れられた子守唄を歌い、赤子をあやすようになった。時に力強く、不正を働く者の耳元で、過去の英雄の言葉を囁くようになった。

あの村で、老婆が縁側でうたた寝をしていると、柔らかな風が吹き抜け、懐かしい白粉の香りを運んできた。そして、確かに聞こえたのだ。

「おっかあ、ありがとう」

それは、娘の声によく似た、優しい風の音だった。

悲しみが世界から消えたわけではない。だが、誰かが生きた証が、その温かい想いが、理不尽に消し去られることはもうない。

新たなる風が、選んだ言の葉を未来へと紡ぎ、永遠に語り継いでいくのだから。

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