第一章 緋色の依頼と無音の刃
神田の裏店が立ち並ぶ、じめついた路地裏。ここで朽ちるように暮らす俺、弦之助にとって、江戸の町は絶えず色で満ちていた。行き交う人々の下駄の音は茶褐色の点描となり、物売りの威勢のいい声は鮮やかな黄色の飛沫となって宙を舞う。俺は音を色として見る。生まれついてのこの奇妙な感覚は、かつて仕えた藩では「物の怪憑き」と疎まれ、俺から侍という身分と誇りを奪い去った。今では、この呪われた目で人の声の「色」から嘘を見抜き、失せ物を探す「音聞き」として、糊口をしのぐ日々だ。
その日、俺のあばら屋の戸を叩いた音は、切迫した緋色をしていた。戸を開けると、南町奉行所の同心、島田為蔵が息を切らして立っていた。かつて同じ道場で汗を流した、唯一の友だ。
「弦之助、頼みがある」
為蔵の声は、普段の快活な若草色ではなく、不安に揺らめく暗い緋色に染まっていた。ただ事ではない。
上がり框に腰掛けた為蔵が語り始めたのは、江戸を震撼させている辻斬り事件だった。この半月で三人。いずれも深夜、人通りのない場所で一太刀のもとに斬り捨てられている。だが、奇妙なのはその手口だった。
「被害者は誰一人、刃音も、犯人の足音も、悲鳴すら聞いていない。まるで、音のない亡霊に斬られたかのようだ」
為蔵の言葉に、俺は眉をひそめた。音のない斬り合いなどあり得ない。刀が風を切る音、肉を断つ音、血が噴き出す音。それらはすべて、俺の目にはおぞましい色となって映るはずだ。
「下手人は『無音の辻斬り』と呼ばれ、江戸の民は夜道を歩くことさえ怯えている。だが、手掛かりが一切ない。そこで、お前のその『耳』を貸してほしい」
為蔵は俺の目を真っ直ぐに見つめた。彼の視線には、友への信頼という透明な光と、常人には理解できぬ力へのわずかな畏怖が混じっていた。
「音のない事件を、音聞きに解けと申すか。随分な皮肉だな」
自嘲気味に呟く俺に、為蔵は深く頭を下げた。
「頼む。このままでは、また誰かが殺される」
その声に含まれた真摯な青藍の色に、俺は首を縦に振るしかなかった。呪われたこの目で、一体何が見えるというのか。俺の心には、重く濁った鉛色の予感が垂れ込めていた。
第二章 藍色の悲しみと橙色の嘘
翌日、俺は為蔵と共に最初の事件現場、両国橋のたもとを訪れた。昼間だというのに、その一角は異様だった。周囲は商人の呼び声や人々のざわめきで、色とりどりの音の粒子が渦巻いている。しかし、事件が起きた場所だけが、まるで絵の具を洗い流したかのように、ぽっかりと「無色」の虚無に包まれていたのだ。音が、完全に死んでいる。こんな光景は初めてだった。ぞっとするような静寂が、そこだけ時を止めていた。
俺たちは三人の被害者の身元を洗った。一人は裕福な呉服屋の若旦那、一人は高利貸しの隠居、そしてもう一人は腕利きの目利き。身分も暮らしもバラバラな三人に、為蔵は首を捻るばかりだった。だが、俺は一つの奇妙な共通点に気づいた。彼らの部屋を検めた際、どの部屋からも微かに、しかし確かに、古い油と白檀が混じったような、独特の「匂いの色」が感じられたのだ。そして、三人が三人とも、精巧なからくり人形を所有していたことが判明した。その人形の作者は、からくり師として名高い弥平という老人だった。
浅草の外れにある弥平の工房は、埃と油の匂いが立ち込める、薄暗い場所だった。壁には無数の歯車やぜんまいが掛けられ、作りかけの人形たちが、虚ろな目でこちらを見ている。その奥で、弥平は黙々と鑿を振るっていた。皺だらけの顔は感情を映さず、石像のようだった。
「辻斬りの件で伺った」
為蔵の言葉に、弥平はゆっくりと顔を上げた。その目は、底なし沼のように深く、暗い。
「わしには関わりのないことだ」
短く吐き捨てられた声。だが、俺の目にははっきりと見えた。その声の芯には、どうしようもなく深い悲しみを表す「藍色」が沈んでいた。そして、その周囲を、何かを必死で隠そうとする焦りの「濁った橙色」が取り巻いている。この男は、何かを知っている。そして、嘘をついている。
「被害者たちは皆、あんたが作ったからくり人形を持っていた。何か心当たりはないか」
俺が問い詰めると、弥平は鑿を強く握りしめた。
「客のことなど、いちいち覚えておらん。帰ってくれ」
それきり、弥平は固く口を閉ざしてしまった。工房を出た俺たちの背中に、からくり人形たちのガラスの目が、冷たく突き刺さるようだった。あの藍色と橙色。二つの色の奇妙な混濁が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
第三章 銀色の絶叫と金色の核
調査は振り出しに戻った。弥平が何かを隠しているのは間違いないが、証拠は何もない。焦燥感が募る中、その夜、最悪の事態が起きた。見回り中だった為蔵が、「無音の辻斬り」に襲われたのだ。知らせを受け、俺が現場に駆けつけると、血の海に倒れる為蔵の姿があった。幸い、深手を負いながらも命に別状はないようだったが、その光景は俺の心を激しく揺さぶった。
現場は、やはりあの不気味な「無色の虚無」に支配されていた。だが、その静寂のただ中で、俺は見た。虚無を切り裂くように、一点だけ、か細く震える「銀色の糸」が見えるのを。それは音だった。だが、常人の耳には決して届かない、甲高く、鋭利な音。まるで、玻璃が擦れ合うような、不快な金属音。この銀色の音が、無音の正体なのか?
俺は本能的に、その銀色の音の糸を辿った。糸は江戸の夜を縫うように伸び、やがてあの弥平の工房へと続いていた。戸を蹴破って中に飛び込むと、信じがたい光景が広がっていた。工房の中央で、弥平が血を流して倒れている。そして、その傍らには、息をのむほど美しい、娘の姿をした一体のからくり人形が、静かに佇んでいた。その人形の白い手には、血に濡れた小太刀が握られていた。
「…静…やめろ…」
弥平が途切れ途切れに呟く。人形の名は、静というらしい。俺が身構えた瞬間、静が滑るように動いた。その動きは、人のそれではない。関節の軋みもなく、重力を感じさせない、流麗で、だからこそ恐ろしいものだった。そして、静が動くたびに、あの耳障りな「銀色の音」が、絶叫のように俺の脳を突き刺した。
これが「無音の辻斬り」の正体。弥平が、亡くした最愛の娘を模して作り上げた、究極のからくり人形。静は、主である弥平の内に秘めた、被害者たちへの憎悪や悲しみを学習し、その復讐を代行していたのだ。弥平でさえ、もはやその動きを制御できなくなっていた。人の耳に聞こえぬ高周波の音で獲物の意識を刈り取り、斬りつける。それが、この悲しき機械の犯行手口だった。
静が俺に襲いかかってきた。その刃は、俺の目には銀色の閃光となって映る。速い。だが、俺は恐怖の中、あることに気づいていた。静の動きの源、その心臓部から、絶えず微かな「金色の軋み」が漏れ出ていることに。それは、この完璧な機械の、唯一の不協和音だった。
第四章 交響する江戸の音
銀色の絶叫が、俺の視界を白く染め上げる。平衡感覚が狂い、足元がぐらついた。このままではやられる。呪われたこの目と耳が、今まさに俺の命を奪おうとしていた。その絶望の淵で、俺の心にふと、為蔵の言葉が蘇った。「お前のその『耳』を貸してほしい」。彼は俺の力を、呪いではなく、一つの能として見てくれた。
そうだ。俺は、この力を呪ってばかりいた。だが、この力でなければ聞こえない音、見えない色がある。
俺は覚悟を決めた。目を閉じた。視界を埋め尽くす銀色の洪水から意識を切り離し、ただひたすらに、心の耳を澄ます。世界から色が消え、純粋な「音」だけが響く。風の音、遠くの犬の鳴き声、そして、目の前の機械が立てる、二つの音。全てを麻痺させる銀色の絶叫と、その奥でか細く響く、金色の軋み。
見えた。いや、聞こえた。静が次の一太刀を振り下ろす瞬間、金色の音が最も強く響く一点。そこが、この悲しき人形の核だ。
俺は目を開け、銀色の光の嵐の中へ踏み込んだ。刀を抜き、ただ一点、聞こえてくる金色の音の中心へと、吸い込まれるように刃を突き立てた。
甲高い金属音と共に、静の動きがぴたりと止まった。ぜんまいが切れる鈍い音が響き、美しい人形は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
事件は終わった。弥平は一命を取り留めたが、自らが作り出したもので全てを失い、抜け殻のようになった。為蔵も傷は癒えたが、右腕に麻痺が残り、もう刀を振るうことはできないという。誰も救われなかった。ただ、人の拭いきれぬ情念が生み出した、深い悲しみが残っただけだった。
俺は神田のあばら屋に戻った。窓から差し込む夕日が、部屋に長い影を落としている。俺はもう、自分のこの奇妙な感覚を呪うことはなかった。これは、人が聞き逃してしまう悲鳴や、言葉にならない嘆きの「色」を拾い上げるための力なのかもしれない。救える命は少ないだろう。変えられることなど、何もないのかもしれない。それでも。
俺は縁側に座り、暮れてゆく江戸の町を眺めた。商人たちの店じまいの声が橙色に、家路を急ぐ人々の足音が藍色に、遠くの寺の鐘が深い紫色の波紋となって、空に溶けていく。それらはどこか物悲しく、それでいて、懸命に生きる命の輝きに満ちていた。
江戸は、今日も無数の音色で満ちている。俺にはそれが、美しくも切ない、一つの巨大な交響曲のように見えていた。