情景界の器

情景界の器

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第一章 零れたため息と硝子の花

水野咲の人生は、灰色に薄められた水彩画のようだった。広告代理店で営業として働く彼女は、常に微笑みを貼り付け、決して感情を表に出さなかった。「そつなく、穏便に」。それが、人間関係という名の地雷原を生き抜くための、彼女の信条だった。怒りも、悲しみも、過剰な喜びさえも、心の奥底にある分厚い鉛の箱にしまい込み、鍵をかけた。

その日も、咲は深夜のオフィスで一人、終わらない資料と格闘していた。蛍光灯の冷たい光が、隈のできた目の下に影を落とす。ふと、誰もいない給湯室へ向かい、自動販売機のボタンを押した。ぬるいコーヒーを一口含み、窓の外に広がる眠らない街の光を眺めたとき、抑えようもなく深いため息が漏れた。

その瞬間だった。

カラン、と澄んだ音がした。足元に目をやると、咲は息をのんだ。コンクリートの床のひび割れから、見たこともない植物が芽吹いていたのだ。それはまるで繊細なガラス細工のようだった。ため息の露を浴びて生まれたかのように、青みがかった透明な花弁が幾重にも重なり、月光を宿したように淡く発光している。一つ、また一つと、硝子の花は無音で咲き広がり、無機質な給湯室を幻想的な花畑に変えていく。美しさと同時に、ありえない光景への恐怖が咲の心を支配した。これは疲労が見せる幻覚か。そう思った矢先、世界がぐにゃりと歪み、彼女の意識は急速に遠のいていった。

次に目覚めた時、咲は柔らかな苔の上に横たわっていた。頬を撫でる風は、土と若葉の匂いを運んでくる。見上げれば、空を覆い尽くすほどの巨大な樹々の葉が、万華鏡のように光をこぼしていた。ここはどこだ。混乱する頭で身を起こすと、奇妙なことに気づいた。自分の周りに、ふわりと金色の蝶が数匹舞っているのだ。手を伸ばしても触れることはできず、陽炎のように揺らめいては消える。

「ほう、見事な『歓喜』の蝶じゃな。目覚めたばかりでそれほどとは、珍しい」

しわがれた声に振り返ると、木の根に腰掛けた老人が、長い髭を撫でながらこちらを見ていた。

「蝶…?これは一体…?」

「おぬしの心じゃよ」と老人はこともなげに言った。「ここは情景界。人の感情が『情景(けい)』となって景色に現れる世界。おぬしが今感じておる、生きていることへの安堵と、この世界の美しさへの感動が、その金の蝶を生み出したのじゃ」

感情が、形になる? 咲の背筋を冷たいものが走った。まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。しかし、老人の言葉を疑った瞬間、足元からじわりと青白い霧が立ち上り始めた。それは咲の抱いた「不安」と「疑念」の情景だった。

「な…っ」

咲は狼狽した。心の奥底に固く封じ込めてきたはずのものが、こんなにもあっさりと、誰の目にも見える形で世界に漏れ出している。それは、裸で衆目に晒されるよりもずっと屈辱的で、恐ろしいことのように思えた。彼女は必死で心を無にしようと努めた。冷静に、冷静になれ。しかし、焦れば焦るほど霧は濃くなり、金色の蝶はみるみるうちに姿を消していく。

鉛の箱に、亀裂が入ってしまった。咲は、これからこの世界でどう生きていけばいいのか、全く見当もつかなかった。

第二章 繕われた心と棘の蔦

老人の名はエリオといった。彼は咲を自分の村へと案内してくれた。村は巨大なきのこの傘の下に築かれており、家々は色とりどりの光る苔で彩られていた。村人たちの周りには、常に様々な「情景」が揺らめいていた。談笑する者たちの周りには陽気な音符のような光が弾け、畑仕事に勤しむ者の足元からは、充実感を示すかのように健やかな若草が芽吹く。悲しみで俯く子供の頭上には、小さな雨雲ができてはらはらと涙のような雨を降らせていた。

誰もが、自分の感情を隠さない。いや、隠せないのだ。それがこの世界の理だった。咲にとって、その光景は眩しすぎると同時に、ひどく落ち着かないものだった。彼女は、自分の感情が漏れ出すのを防ぐため、常に気を張り詰めていた。他人の期待に応えるためではなく、自分自身を守るために、心を無にすることに全神経を集中させた。

しかし、繕われた心は脆い。村の子供たちが無邪気に彼女の周りを走り回り、一人の子が転んでしまった時、咲は思わず駆け寄った。大丈夫、と声をかけ、子供の膝の擦り傷にそっと触れる。その瞬間、咲の指先から柔らかな若葉色の光が溢れ、子供の傷を優しく包んだ。それは「慈しみ」の情景だった。子供は目を丸くし、すぐに笑顔になって駆け去っていく。

だが、それを見ていた他の村人たちの視線は、どこか奇妙なものだった。彼らの間から聞こえてくる囁き声が、咲の耳に届く。「あの人の情景は、なんて不安定なんだ」「あんなに強い光を放ったかと思えば、すぐに消えてしまう」「まるで蓋をされた泉のようだ」。

その言葉は、咲の心に深く突き刺さった。羞恥と自己嫌悪で、胸が締め付けられる。すると、彼女が立っていた地面から、黒く鋭い棘を持った蔦が何本も突き出してきた。それは咲の「拒絶」と「苛立ち」の情景だった。村人たちは驚いて後ずさり、蔦はまるで咲自身を閉じ込める檻のように、彼女の周りをぐるりと取り囲んだ。

「やめて…!」

咲は心の中で叫んだ。見ないでくれ。こんな醜い私を。しかし、感情を抑圧しようとすればするほど、蔦は勢いを増し、鋭い棘を剥き出しにする。

そんな咲に、一人の少女が近づいてきた。エリオの孫娘のリーナだ。彼女は他の村人たちと違い、棘の蔦を恐れることなく、その黒光りする表面を興味深そうに見つめていた。

「あなたの情景、すごいね」リーナは言った。「いろんな形になる。私のなんて、ほとんど何も出てこないのに」

リーナの周りには、確かに目立った情景がなかった。彼女は生まれつき感情の起伏が乏しく、「情景」がほとんど現れないのだという。村では少し変わった子として扱われていたが、本人はそれを気にする素振りも見せない。

「憧れるな」リーナは続けた。「そんなにたくさんの色や形を、心の中に持っているんでしょう?」

リーナの純粋な言葉に、咲は何も答えられなかった。彼女が忌み嫌い、隠そうと必死になっているものを、この少女は美しいと言う。その日から、リーナだけが、棘の檻の中にいる咲に毎日話しかけに来るようになった。咲の心は、固く閉ざされたままだったが、その小さな訪問者は、分厚い鉛の箱の蓋に、ほんのわずかな光の隙間をもたらし始めていた。

第三章 虚無の怪物と器の真実

村に平穏が戻りかけたある日の夕暮れ、それは前触れもなく現れた。空が不気味な灰色に染まり、地の底から響くような不快な静寂が世界を支配した。村人たちの周りに咲き誇っていた色とりどりの「情景」が、急速に色褪せていく。まるで、世界の彩度を奪い去るかのように。

「『虚無(ヴォイド)』じゃ…!」

エリオの絶叫が響いた。村の外れから、黒い靄のような不定形の怪物がゆっくりと這い寄ってきていた。それは明確な形を持たず、ただ純粋な「無」が凝縮したかのような存在だった。虚無が通り過ぎた場所は、木も草もすべてが色を失い、灰色の抜け殻と化している。

村人たちは恐怖に駆られた。しかし、彼らが放つ「恐怖」の黒い霧や、「勇気」の赤い炎の情景は、虚無に触れた途端、あっけなく吸い込まれ、消えてしまう。情景を喰われた者は、まるで魂を抜かれたようにその場に崩れ落ち、虚ろな目で宙を見つめるだけになった。虚無は、人々の感情そのものを糧としていたのだ。

咲はリーナの手を握り、エリオの家の奥に隠れた。窓の隙間から見える光景は地獄そのものだった。村を満たしていた温かな光や優しい音楽のような情景が、次々と虚無に飲み込まれていく。

「咲、聞いてくれ」

エリオが、震える咲の肩を掴んだ。その目は、これまでにないほど真剣だった。

「おぬしがこの世界に呼ばれたのは、偶然ではない。おぬしこそが、虚無を滅ぼす唯一の希望なのじゃ」

「…私が?何を言っているんですか。私には何も…」

「いや、おぬしにしかできん」エリオは力を込めて言った。「我ら情景界の住人は、感情をありのままに表す。故に、心に感情を溜め込むということがない。だが、虚無は膨大な感情のエネルギーを一気にぶつけなければ滅ぼすことはできん。…わかるか?おぬしは、長年、その心に途方もない量の感情を溜め込み続けてきた。喜びも、怒りも、悲しみも、すべてを。おぬしは、この世界を救うための、感情の『器』なのじゃ」

エリオの言葉は、雷のように咲の心を打ち抜いた。私が、器? 私がずっと蓋をして、見ないようにしてきたこの醜い感情の塊が、希望だというのか。

「しかし」エリオは続けた。「虚無を滅ぼすには、おぬしがその器の蓋を開け、溜め込んできた全ての感情を解放せねばならん。楽しい思い出も、辛い記憶も。最も見たくない、おぬし自身の心の闇…虚無感や自己嫌悪さえも、全て受け入れ、解き放つのじゃ。それは、おぬしが最も恐れてきたことのはずじゃ」

その通りだった。自分の内なる混沌と向き合うこと。それは、死ぬことよりも怖いことだった。咲は震えが止まらなかった。できない。私にはそんなこと…。

その時、家の扉が軋み、虚無の黒い触手が中へと伸びてきた。それは、咲の隣で震えるリーナへと向かっていく。

「いやっ!」

咲は、反射的にリーナの前に立ちはだかった。この子だけは、この純粋な魂だけは、こんな虚しい存在にされてたまるか。初めてできた、私の心を覗き込んでくれた、たった一人の友達を。

守りたい。

その強い想いが、鉛の箱の鍵を、初めて内側からこじ開けようとしていた。

第四章 情景の嵐、そして夜明けの色

咲はゆっくりと目を開けた。目の前には、全てを飲み込もうとする絶対的な「無」が迫っている。もう恐怖はなかった。彼女はリーナをエリオに託し、一人、虚無の前へと歩み出た。そして、深く、深く息を吸い込み、固く閉ざしていた瞼を再び下ろした。

自分の内側へ、意識を沈めていく。

最初に思い出したのは、上司の理不尽な叱責に、唇を噛んで耐えた日のこと。その瞬間、咲の足元から灼熱のマグマが噴き出し、虚無に向かって燃え盛る炎の舌となった。次に浮かんだのは、誰にも言えずに一人で泣いた夜のこと。凍てつくような吹雪が巻き起こり、鋭い氷の礫が虚無を打ち据える。

次から次へと、感情が解放されていく。クライアントから感謝された時の、胸が温かくなるような小さな喜びは、世界を照らすほどの光の奔流に。道端で見つけた猫に癒された穏やかな気持ちは、全てを浄化する清らかな泉に。孤独、嫉妬、劣等感、諦め。見ないふりをしていた黒く淀んだ感情たちも、巨大な棘の森となり、漆黒の雷となって虚無に襲いかかった。

それは、混沌の嵐だった。美しく、同時に恐ろしく荒々しい、水野咲という一人の人間が二十八年間溜め込んできた、ありとあらゆる感情の顕現だった。彼女が押し殺してきた全ての「情景」が、今この世界で初めてその真の姿を現したのだ。

虚無は、その凄まじいエネルギーの奔流に耐えきれなかった。炎に焼かれ、氷に砕かれ、光に貫かれ、雷に引き裂かれる。断末魔の叫びさえなく、その黒い体は巨大な感情の嵐の中で霧散し、やがて跡形もなく消え去った。

嵐が、過ぎ去った。

夜が明け、昇り始めた太陽の光が、灰色の世界を再び照らし始める。咲は、静かにその場に立っていた。もう彼女の周りから、意図せず情景が漏れ出すことはない。棘の蔦も、不安の霧も現れない。

感情を無理に抑え込むのではない。全てを認め、受け入れることで、彼女は初めて自分の感情の主となったのだ。嵐のような解放の果てに、彼女の心には、凪いだ海のような静けさが訪れていた。

「咲!」

リーナが駆け寄ってくる。その背後で、色を取り戻した村人たちが、安堵と賞賛の眼差しを咲に向けていた。咲はリーナを抱きしめ、その小さな背中を優しく撫でた。

ふと、自分の周りに揺らめく、新しい「情景」に気づく。それは特定の形を持たない、穏やかで優しい、虹色のオーロラのような光だった。喜びも悲しみも怒りも、全てが溶け合い、混ざり合って生まれた、彼女だけの夜明けの色。

もう、元の世界に帰りたいとは思わなかった。灰色の水彩画のような人生は、もう終わったのだ。

咲はリーナの手を取り、微笑んだ。その微笑みは、もう貼り付けたものではない。心の底から生まれた、本物の微笑みだった。彼女の本当の人生は、全ての感情が祝福されるこの世界で、今、始まったばかりだった。

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