記憶の天秤、あるいは忘却の対価

記憶の天秤、あるいは忘却の対価

1 5475 文字 読了目安: 約11分
文字サイズ:

第一章 無価値な僕と、記憶の市場

水島湊(みなと)が意識を取り戻したとき、目に映ったのは見慣れたアパートの染みついた天井ではなく、木目の美しい滑らかな天井だった。体を起こすと、柔らかな寝台がきしむ音を立てる。部屋の中は、乾燥した薬草と古い木材の匂いで満たされていた。窓の外からは、聞いたことのない鳥の鳴き声と、賑やかな人々の喧騒が微かに聞こえてくる。

「お目覚めかい、旅の人」

しわがれた声に振り返ると、そこにいたのは、背中の曲がった小柄な老婆だった。彼女は手にした盆を湊の隣の小机に置く。盆の上には、粗末な黒パンと水差し、そして掌ほどの大きさのガラス瓶が一つ。瓶の中では、淡い光を放つ小さな結晶が、まるで蛍のように浮遊していた。

「昨夜はよく眠れたようだね。これが今日の分の『生活費』さ。昨日の夕食の思い出と、道端で見た夕焼けの記憶。上等ではないが、パン代にはなるだろう」

老婆の言葉が、湊の脳に染み込むのに数秒かかった。夕食の思い出? 夕焼けの記憶? 確かに、昨日の自分が何を食べたのか、どんな空を見たのか、靄がかかったように思い出せない。自分の頭の中から、確かに何かが引き抜かれたという、空虚な実感だけがあった。

「ここは……どこなんですか?」

「レミニシア。記憶が命を繋ぐ街さ」

老婆の言葉通り、この世界「レミニシア」では、記憶が通貨として流通していた。人々は特殊な抽出機を使い、自らの記憶を結晶化させ、「メモリア」と呼ばれる貨幣に変えて日々の糧を得ていた。幸福な思い出、感動的な体験、愛する人との時間。そういった色鮮やかで感情を揺さぶる記憶ほど高価で、昨日食べた食事や、道端の石の色といった、どうでもいい記憶は二束三文で取引される。

湊は、どうして自分がこの世界に来てしまったのか、全く覚えていなかった。元の世界での最後の記憶さえ、曖昧だった。確かなのは、無一文ならぬ「無記憶」の自分は、生きるために過去を切り売りするしかないという現実だけだった。

日々の生活は、自己の解体を意味した。朝起きると、老婆が管理する抽出機に頭を預け、些細な記憶を提供する。子供の頃に読んだ漫画のタイトル、通学路にあった自販機の場所、意味もなく口ずさんでいた歌。そんな断片的な記憶が、微かな光の結晶となり、その日を生きるための最低限の食費に変わった。

湊は、街の中央にある「記憶市場」を当てもなく彷徨うのが日課になった。そこは、ありとあらゆる記憶が取引される、混沌と活気に満ちた場所だった。ガラスケースの中には、七色に輝く「初恋の記憶」や、黄金色に燃える「目標を達成した瞬間の記憶」が並び、富裕層と思しき人々が吟味している。一方で、路地裏では、くすんだ灰色の「退屈な一日の記憶」が、パン屑と交換されていた。

自分の人生がいかに無価値だったかを、湊は痛感していた。元の世界で、彼は写真家になる夢に破れ、無気力な日々を送っていた。情熱も、感動も、輝かしい成功体験もない。彼の記憶は、売ろうにも買い手のつかないガラクタばかりだった。自分の存在そのものが、この市場で最も価値のない商品のように思えた。

そんなある日、市場の一角で、ひときゆわ目を引く光景に出会った。歳の頃は十代半ばだろうか。亜麻色の髪をした少女が、自分の記憶を売っていた。彼女が差し出した瓶の中には、陽だまりのように温かい、柔らかな光を放つ結晶が満ちている。

「これは……『家族でピクニックに行った日の記憶』。とっても幸せな、特別な思い出なんです」

少女の記憶は、瞬く間に高値で買い取られていった。彼女は金貨を受け取ると、安堵したように微笑み、足早に市場を去っていく。しかし、その笑顔の裏に、湊は拭いきれないほどの深い疲労と、何かを必死に堪えるような翳りを見た。まるで、自分の一番大切な部分を削り取って、無理に笑っているかのように。その少女の姿が、なぜか湊の心に強く焼き付いた。

第二章 忘却の淵に咲く花

数日後、湊は薬屋の前で、あの少女リナと再会した。彼女は高価な薬草を買い求め、大切そうに胸に抱えている。声をかけると、リナは少し驚いた顔をしたが、すぐに人懐っこい笑顔を見せた。

「この前の……。あなたの記憶、すごく綺麗でした」

「ありがとう。でも、もう残り少ないんだ」

リナは寂しそうに笑った。彼女には病気の弟がいて、その治療費を稼ぐために、自分の大切な記憶を切り売りしているのだという。両親を早くに亡くし、二人きりで生きてきた彼女にとって、弟と過ごした幸せな記憶は、何にも代えがたい宝物だった。それを自らの手で手放していくことが、どれほどの痛みを伴うか、湊には想像もつかなかった。

「あなたは、どんな記憶を売っているの?」

リナの無邪気な問いに、湊は言葉を詰まらせた。価値のない、色褪せた記憶。そう答えるのが精一杯だった。

リナと話すうちに、湊の中に、忘れていた感情が蘇り始めていた。誰かのために何かをしたい、という切実な思い。しかし、彼には無力感しか感じられなかった。彼女を助けたくても、自分には売れるような価値のある記憶がない。高価な薬を買うことも、彼女の心を慰める美しい思い出を語ってやることもできない。

その夜、湊は眠れずに、自らの過去を必死に探っていた。何か、何か価値のある記憶はなかったか。そのとき、脳裏に閃光のように蘇った光景があった。

それは、初めて一眼レフカメラを手にした日のことだった。ファインダー越しに見た世界は、肉眼で見るよりもずっと鮮やかで、光と影が織りなす芸術のように見えた。シャッターを切るたびに、世界の一瞬を永遠に切り取れるという全能感。コンテストでの入賞を目指し、寝る間も惜しんで写真を撮り続けた日々。友人と夢を語り合った夜の情熱。

そして――残酷な落選の通知。才能の限界を突きつけられた絶望。カメラを置いたあの日から、湊の世界は色を失った。

その記憶は、湊にとって輝かしい夢の象徴であると同時に、打ち砕かれた挫折の記憶そのものだった。思い出すだけで胸が張り裂けそうになるほど、痛みを伴う。しかし、その情熱、喜び、そして絶望の全てが、彼の人生で最も濃密で、鮮烈な色を放つ記憶であることも事実だった。これを売れば、リナの弟の薬代が、しばらくは賄えるかもしれない。

だが、恐怖が湊を支配した。この記憶を失ってしまえば、自分という人間を構成する最後の核が失われ、本当に空っぽの抜け殻になってしまうのではないか。写真家を目指していた水島湊という人間は、完全に消滅してしまう。それは、第二の死にも等しいと思えた。

彼は、自分の過去の栄光と挫折に、必死にしがみついていた。たとえそれが、今の自分を苦しめるだけの呪いだったとしても。忘却の淵を前に、湊は立ち尽くすことしかできなかった。

第三章 空白者の真実

事態が急変したのは、それから数日後のことだった。リナの弟の容態が急激に悪化したのだ。医師は、治療には極めて希少で純度の高い記憶――例えば、生まれて初めて世界を見た瞬間の「原初の記憶」のような、生命の根源に触れるほどの記憶結晶が必要だと告げた。そんなものは、市場で取引されることすら滅多にない、伝説級の代物だった。

「私、売るよ。私の、全部」

青ざめた顔で、リナは呟いた。彼女に残された、弟との最後の思い出。それを売れば、あるいは奇跡が起きるかもしれない。たとえ自分が「空白者(ヴォイド)」――全ての記憶を失い、自我をなくした存在――になるとしても。

湊は彼女を止めようと、市場の支配人の元へ走った。何か方法はないのか。この残酷な世界の仕組みに、抗う術はないのか。

市場の最奥、天窓から光が差し込む静かな部屋で、支配人は静かに茶をすすっていた。湊の必死の訴えを聞き終えた彼は、憐れむような、それでいて冷え切った目で湊を見つめた。

「無駄なことだ。少年。君は、この世界の本当の姿を何も知らない」

支配人が語り始めた真実は、湊の価値観を根底から粉々に打ち砕くものだった。

「このレミニシアの住人のほとんどはな、もともと『空白者』なのだよ。自我も、過去も、何もない、ただの器だ。我々のような『原住民』が、市場で買い集めた記憶を彼らに移植し、仮初めの『人格』を与えているに過ぎない」

湊は息を呑んだ。では、リナが売っていたあの温かい「家族の記憶」は?

「もちろん、彼女がどこかの誰かから買った記憶だ。彼女自身は『空白者』から再生された存在で、本当の家族など、初めから存在しない。彼女が弟だと信じている少年もまた、同じだ。彼らは、誰かの幸福な記憶の断片を寄せ集めて作られた、儚い虚像なのだよ」

世界が、足元から崩れ落ちていく感覚。この街の賑わいも、人々の笑顔も、全てが借り物の記憶の上になりたつ砂上の楼閣だった。少数の富裕層である「原住民」が、貧しい者から搾取した幸福な記憶をコレクションのように集め、自らの人生を彩るために消費する。記憶を売り尽くした者は「空白者」に戻され、倉庫で眠りにつき、また新たな中古の記憶を移植されるのを待つ。それは、魂の尊厳を踏みにじる、永遠の輪廻だった。

「リナが記憶を全て売れば、どうなるか分かるかね? 彼女は器に戻り、また別の誰かの記憶を植え付けられる。そして、今の弟のことなど、綺麗さっぱり忘れて、新たな人生(・・)を始めるだろう。それが、この世界の救済であり、真実なのだ」

支配人の言葉は、冷たい刃となって湊の心を抉った。リナの献身も、弟への愛も、全ては偽りの記憶が見せている幻覚に過ぎないというのか。湊が守ろうとしていたものは、初めから存在しない蜃気楼だったのだろうか。絶望が、彼の思考を暗く塗りつぶしていった。

第四章 ファインダー越しの未来

湊は、絶望の底で考え続けた。リナの記憶が偽りなら、彼女のあの必死な想いは、無価値なのだろうか。弟を救いたいと願う、今の彼女の心は、嘘なのだろうか。

違う。断じて違う。

たとえ過去が作られたものであっても、「今、ここ」に存在するリナの感情は、紛れもなく本物だ。誰かを想うその心は、何よりも尊い真実のはずだ。

そして、湊は自分自身に思い至る。元の世界で挫折し、無気力に生きてきた自分の過去。それは確かに自分のものだ。夢に焦がれた情熱も、敗北した苦しみも、全てが水島湊という人間を形作ってきた。記憶が本物か偽物かなど、問題ではない。その記憶を抱えて、今をどう生きるか。未来をどう創るか。それが全てなのだ。

湊は再び支配人の前に立った。その目には、もう迷いの色はなかった。

「俺の記憶を買ってほしい」

彼は、自らの「写真家としての夢と挫折の記憶」を差し出した。それは、彼の人生で最も色濃く、価値のある記憶だった。支配人は、その鮮烈な光を放つ結晶を見て、満足げに頷いた。

「いいだろう。望みの対価を言え」

「金(メモリア)はいらない」

湊は、きっぱりと言い切った。

「俺が欲しいのは、この世界に『新しい記憶を創り出す技術』を広めることだ。過去を売買するのではなく、誰もが自分の手で、未来の思い出を『記録』できる世界を創りたい」

湊は、頭の中にあるカメラの構造、レンズの仕組み、光を像として定着させるための化学知識、その全てを語った。それは、彼が夢に敗れた後も、心の片隅で捨てきれずにいた知識の断片だった。過去の遺物だと思っていたものが、この世界では未来を創造する希望の種になり得た。

支配人は、最初こそ怪訝な顔をしていたが、やがて湊の提案の持つ革新的な意味を理解し、その目に興味の光を宿した。「記憶」という有限の資源を奪い合うのではなく、「記録」という無限の可能性を生み出す。それは、この世界の停滞したシステムを根底から変える、とんでもない発想だった。

取引は成立した。抽出機が作動し、湊の頭から、夢と情熱、そして苦悩の記憶がごっそりと抜き取られていく。視界が白く霞み、自分が誰だったのかさえ曖昧になっていく。しかし、彼の心は不思議なほど穏やかだった。過去を手放すことで、彼は初めて未来へと歩き出す自由を手に入れたのだ。

全てが終わったとき、湊の心は静かな湖面のようだった。写真の知識は全て失われたが、何かを成し遂げたという確かな手応えだけが残っていた。

数週間後、レミニシアの街に、初めての「写真館」ができた。湊が設計図を元に、職人たちと作り上げたものだ。その最初の客は、リナと、奇跡的に回復した弟だった。

湊は、完成したばかりの木製のカメラを構え、ファインダーを覗く。記憶は失っても、体がその動作を覚えていた。ファインダーの先で、リナが弟の手を握り、はにかむように微笑んでいる。それは、まだ誰のものでもない、誰からも買われていない、彼らだけの「今」の姿だった。

湊は、ゆっくりとシャッターを切った。

カシャッ、という乾いた音が響く。それは、この世界で初めて生まれた、未来への記憶の産声だった。過去の記憶を失った湊の目には、ファインダー越しに広がる新しい世界が、ただひたすらに美しく、キラキラと輝いて見えた。自分とは何か。それは過去の記憶の総体ではない。これから何を創り出していくか、その意志の中にこそあるのだと、彼は静かに確信していた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る