記憶晶石は歌わない

記憶晶石は歌わない

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第一章 琥珀色の黄昏市場

目が覚めると、俺は夕焼けに染まる広場に立っていた。

空には二つの月が浮かび、一つは欠けたサファイアのように青白く、もう一つは熟れた果実のように橙色に輝いている。周囲の建物は、飴細工のように歪んで空へと伸び、その窓々からは、様々な色の光が明滅していた。人々の喧騒が、まるで知らない言語の合唱のように耳に響く。ここはどこだ。俺は誰だ。

混乱する頭でポケットを探ると、硬い感触があった。取り出したのは、ビー玉ほどの大きさの、くすんだ灰色の石。ぼんやりとした光を放つその石を手に取った瞬間、脳内に一つの光景がフラッシュバックした。――スポットライトの熱。汗で滑る鍵盤。審査員の冷たい視線。そして、頭が真っ白になり、指が動かなくなる絶望感。

「ああ……」

声にならない呻きが漏れた。思い出した。俺は高槻湊(たかつきみなと)。ピアニストを目指していたが、コンクールでの大失敗がトラウマとなり、音楽から逃げ出した人間だ。この灰色の石は、その「挫折の記憶」なのだろう。

「お兄さん、初めてかい? それ、売らないのかい?」

しわがれた声に振り返ると、背の低い老人が、天秤のような奇妙な秤を手に立っていた。

「売る……? これを?」

「そいつは『記憶晶石(メモリア・クリスタル)』さ。ここでは誰もが記憶を売り、記憶を買って生きている。思い出が、ここの通貨なんだよ」

老人はにやりと笑い、自分の店と思しき露店を指差した。そこには、色とりどりの記憶晶石が並べられている。まばゆい黄金色の石、澄んだ空色の石、燃えるような真紅の石。それぞれが、誰かの大切な思い出なのだという。

「ちなみに、あんたが持ってるみてえな濁った石は、買い叩かれるのがオチだがね。辛い記憶なんざ、誰も欲しがらん」

生きるため。その一心で、俺は生まれて初めて「記憶」を売った。売ったのは、どうでもいい記憶だ。「高校時代の、好きでもなかった数学の授業の風景」。老人が秤にその記憶を乗せると、天秤はわずかに傾き、俺は銅貨数枚ほどの価値しかないという、この世界のパンを手に入れた。

パンを齧りながら、俺は自分の頭の中から、あの退屈な授業の光景が、まるで陽炎のように揺らめいて消えていくのを感じた。教師の顔も、チョークの音も、もう思い出せない。記憶を失うとは、こういうことなのか。背筋に、ぞっとするような冷たいものが走った。

この世界――『記憶市場(メモリア・マルクト)』で生きることは、自分自身を少しずつ切り売りしていくことと同義だった。元の世界に帰りたい。その方法を探すため、俺は自分という存在が摩耗していく恐怖に耐えながら、日銭ならぬ「日記憶」を稼ぐ生活を始めた。

第二章 記憶調律師の少女

市場の片隅に、他とは少し雰囲気の違う店があった。看板には『追憶の工房』と古風な文字が刻まれ、中からは澄んだ鈴のような音が聞こえてくる。そこで俺は、リラという少女に出会った。

亜麻色の髪を三つ編みにした彼女は、「記憶調律師」の見習いだという。傷ついたり、混濁したりした記憶晶石を、元の輝きに戻すのが仕事らしい。

「あなたの記憶、少し見せてもらえませんか?」

リラは俺の懐にあった、いくつかの些細な記憶晶石を指差した。俺が売るために用意していたものだ。彼女がその一つを指でそっと撫でると、石は淡い光を放ち、俺の脳裏に、幼い頃に母と歩いた海辺の光景が蘇った。潮の香り、肌を撫でる風、繋いだ手の温かさ。

「……すごい。こんなに鮮明に」

「記憶は、ただの記録じゃないんです。感情や五感が織りなす、一つの音楽みたいなもの。時間が経つと、そのハーモニーが少しずつ乱れてしまう。私はそれを、元の美しい音色に戻すだけです」

リラはそう言って、はにかんだ。彼女の工房は、静かで、穏やかで、絶えず何かを失い続けるこの市場において、唯一時が止まっているかのような場所だった。

俺はリラの工房に通うようになった。記憶を売らずに済むよう、彼女の仕事を手伝わせてもらった。壊れた記憶の欠片を拾い集めたり、調律の道具を磨いたり。そんな日々の中で、俺は彼女が抱える想いを知った。

「記憶を売買するなんて、本当は間違ってる」

ある夜、二つの月を見上げながら、リラはぽつりと言った。

「嬉しい記憶も、悲しい記憶も、全部その人だけのもの。それを通貨みたいにやり取りして、失くしてしまったら、その人はもう、その人じゃなくなっちゃう」

彼女の言葉は、俺の胸に突き刺さった。俺も同じことを感じていたからだ。

「元の世界に帰る方法があるんです」とリラは続けた。「この市場を統べる『王』が持つという、『創生の記憶晶石』を手に入れれば、帰還の道が開かれる、と。でも……」

彼女は言葉を濁した。王に会うためには、途方もない対価が必要なのだという。俺は、いつか必ずその対価を支払い、元の世界へ帰るのだと固く誓った。そして、トラウマの象徴である、あの灰色の「挫折の記憶」だけは、決して手放すまいと心に決めていた。あれは辛い記憶だが、ピアノを誰よりも愛していた、かつての自分の証でもあったからだ。

第三章 虚構世界のレクイエム

帰還への希望を胸に、俺は王に関する情報を集め続けた。そして、ついに王に謁見するための条件を知ることになる。その条件は、あまりにも残酷だった。

「『人生で最も幸福だった記憶』を、一つ捧げること」

それを知った時、俺は言葉を失った。帰るために、最高の自分を捨てろというのか。脳裏に浮かんだのは、初めてコンクールで入賞した時の、鳴りやまない拍手と両親の笑顔。あの輝かしい記憶を失ってしまえば、俺という人間の核が、ごっそりと抜け落ちてしまうだろう。

絶望に打ちひしがれる俺に、リラはさらに衝撃的な事実を告げた。彼女は泣きそうな顔で、震える声で、この世界の真実を語り始めた。

「湊さん、聞いて。この世界から『帰還』した人は、これまで一人もいないの」

「……どういうことだ?」

「帰還は、叶わない夢だから。……だって、この世界は……」

リラは一度言葉を切り、深く息を吸った。

「現実世界で、もうすぐ死を迎える人の脳が見せている、最後の夢の世界だから」

時が止まった。耳鳴りがする。広場の喧騒も、二つの月の光も、すべてが色を失っていく。

記憶市場(メモリア・マルクト)。それは、死を目前にした人間が、人生で積み重ねた膨大な記憶を整理し、安らかな眠りにつくための、魂の終着駅。記憶の売買とは、人生の取捨選択のプロセスそのものだったのだ。そして、「王」とは、そのプロセスを管理する脳のシステムに過ぎない。

「帰還」、つまり『創生の記憶晶石』を手に入れることは、記憶の整理を終え、すべてを受け入れ、安らかな「死」を迎えることを意味していた。だから、帰還した者はいない。帰還した者は、この世界から消えるのだから。

「私も……あなたと同じ。現実の私は、もうずっと前に、冷たいベッドの上で……」

リラはそれ以上、言葉を続けられなかった。彼女の瞳から、きらきらと光る大粒の涙がこぼれ落ちた。それはまるで、彼女が今まで調律してきた、誰かの美しい記憶の結晶のようだった。

俺は、全てを理解した。なぜこの世界に来たのか、思い出せないはずだ。俺は、現実世界で、あの日以来の絶望の中で、自ら命を絶とうとしたのかもしれない。あるいは、病か、事故か。いずれにせよ、俺の「生」は、もう終わろうとしているのだ。

帰還とは、安らかな死。この世界に留まることは、偽りの生を永遠に続けること。

ポケットの中で、あの灰色の記憶晶石が、冷たく、そして重く感じられた。

第四章 追憶のフォルテッシモ

選択肢は二つ。幸福な記憶を捧げて、すべてを終わらせるか。それとも、この夢の世界で、リラと共に、記憶を失いながら永遠に彷徨うか。

どちらも違う、と俺の魂が叫んでいた。

俺はリラの手を取り、工房へと走った。そこには、彼女が調律のために使っている、ガラスでできた美しいピアノが置かれていた。トラウマのせいで、この世界に来てから一度も触れなかった楽器。

「湊さん……?」

「リラ、聞いていてほしい。俺の、最後の記憶(うた)を」

俺は椅子に座り、震える指を鍵盤に置いた。そして、ポケットからすべての記憶晶石を取り出した。挫折の記憶。初めて海を見た記憶。リラと笑い合った記憶。そして、まだ売らずに残っていた、母の温もりや、父の励ましの記憶。

俺はそれら全てを、ピアノの上に置いた。

そして、弾き始めた。

最初に奏でたのは、不協和音。あの日のコンクールの、絶望の音だ。指がもつれ、音が濁る。だが、俺は弾き続けた。次に、幼い日の楽しかった記憶を重ねる。単純で、明るいメロディ。二つの旋律はぶつかり合い、耳障りな音を立てた。

それでも、俺は弾き続けた。

喜びも、悲しみも。成功も、失敗も。愛しさも、憎しみも。俺の人生のすべてを、音に乗せた。記憶晶石たちが、俺の演奏に呼応するように、一斉に輝き始める。黄金色も、空色も、そして、あの鈍い灰色さえもが、互いに溶け合い、まばゆい虹色の光となって工房を満たした。

メロディは次第に調和を帯び、一つの壮大な交響曲へと変わっていく。それは、高槻湊という人間の、たった一度きりの人生を物語る、追憶のフォルテッシモだった。

「ああ……」

リラが息をのむ。俺の身体が、足元からゆっくりと光の粒子になっていくのが見えた。死でも、停滞でもない。第三の選択。それは、自分の人生のすべてを肯定し、その記憶のすべてを音楽として昇華させ、この世界そのものに溶け込んでいくこと。

鍵盤を叩く最後の指が、光となって消える。同時に、俺の奏でたメロディが、市場全体に響き渡った。それは、この世界で初めて生まれた、誰のものでもない、けれど誰もが懐かしく感じる、温かい音楽だった。

リラは、頬を伝う涙をそのままに、その音楽に静かに耳を傾けていた。彼女の目の前で、最後の光の粒子がふわりと舞い上がり、窓から見える二つの月に吸い込まれて消えた。

「ありがとう、湊さん」

彼女は、初めて自分の意志で涙を流した。その涙は、もう記憶晶石にはならなかった。

「あなたの記憶(うた)、決して忘れない」

記憶市場には、今もそのメロディが微かに流れ続けているという。それは、記憶を売り買いするしかなかった世界に生まれた、たった一つの、永遠に歌い継がれる魂の物語。

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