第一章 白紙のクロニクル
水無月湊の営む古書店「時紡ぎ堂」には、埃とインクの匂いが染みついていた。祖父から受け継いだその店で、彼は本の背表紙に囲まれて息を潜めるように生きている。現実という、どうにも肌に馴染まない世界から逃れるための、静かで完璧な要塞だった。
その日、店のドアベルが乾いた音を立てたのは、夕暮れの光が店内に斜めの筋を描き始めた頃だった。入ってきたのは、深い皺の刻まれた顔の老人だった。古びたツイードのジャケットを着た彼は、カウンターに一冊の本を静かに置いた。
「これを、引き取ってほしい」
湊はその本を手に取った。ずしりと重い。しかし、奇妙な本だった。表紙には何の装飾もなく、題名も記されていない。革の経年変化だけが、その本が経てきたであろう時間を物語っていた。ページを繰ってみると、さらに奇妙なことに気づく。全てのページが、純粋な白紙だったのだ。インクの染み一つ、文字の痕跡すらない。
「あの、これは……何も書かれていませんが」
湊が戸惑いながら言うと、老人は深い湖のような瞳で彼をじっと見つめた。
「いいや。それは君にしか読めない本だ。君が、読むべき本なのだ」
その言葉の意味を問い返す前に、老人はふっと笑みを浮かべ、身を翻して店から出て行った。呼び止める間もなかった。カラン、と寂しげなベルの音だけが後に残される。
湊は一人、その白紙の本を眺めた。悪質ないたずらかもしれない。それでも、なぜかその本を手放す気にはなれなかった。指先でざらついた表紙を撫でた、その瞬間だった。
――風の匂いがした。
潮の香りと、どこか甘い花の香りが混じった、知らないはずの風。耳の奥で、聴いたことのない弦楽器のメロディが微かに響く。目の前には、巨大な水晶がいくつも浮かぶ、瑠璃色の空が幻のように広がって――すぐに消えた。
「……なんだ、今のは」
心臓が早鐘を打っていた。湊はもう一度、恐る恐る本に触れる。幻覚は現れない。だが、指先に残る微かな温もりと、鼻腔の奥にかすかに残る花の香りが、あれはただの気のせいではないと告げていた。その日から、湊の世界は静かに、しかし決定的に変容を始めた。その白紙の本は、彼にとっての謎であり、同時に抗いがたい引力を持つ、未知の世界への扉となったのだ。
第二章 空想の窓辺
白紙の本との出会いから数日、湊の日常は一変した。店を閉めた後、二階の自室でその本に触れることが、彼の日課となった。触れるたびに、あの不思議な感覚はより鮮明に、より長く続くようになっていった。
彼はその世界を「アストライア」と呼んだ。湊が本を通して「観測」する世界は、息をのむほど美しかった。空に浮かぶ巨大な水晶は、昼は太陽の光を乱反射させて七色の虹を作り、夜は星々の光を蓄えて穏やかな光を地上に投げかける。翠の草原を風が渡り、透明な川には宝石のような魚が泳いでいた。
そして、その世界には人々がいた。中でも湊の心を捉えたのは、二人組の若者だった。太陽を思わせる快活な笑顔を持つ青年「カイ」と、月光のような穏やかな優しさを湛えた少女「リラ」。湊は自分とは正反対の、生命力に溢れたカイに憧れ、その隣で静かに微笑むリラに安らぎを感じた。
湊は、まるで三人目の仲間になったかのように、彼らの日常を追体験した。カイが崖から珍しい薬草を採る時のひやりとした岩肌の感触、リラが奏でるリュートの切ない音色、焚き火を囲んで語り合う夜の暖かさ。彼らが笑えば湊の口角も上がり、彼らが困難に直面すれば自分の胸が締め付けられた。
灰色の現実を生きてきた湊にとって、アストライアは極彩色の楽園だった。人付き合いが苦手で、誰かと深く関わることを避けてきた彼が、初めて他者の喜びや悲しみを自分のことのように感じていた。この本は、ただの「観測装置」ではない。世界と繋がるための「窓」なのだ。
いつしか湊は、店の経営も疎かになるほどアストライアにのめり込んでいった。現実世界の食事は味気なく、人々との会話は空虚に響いた。彼の本当の人生は、あの白紙の本の向こう側にあった。彼はカイであり、リラの友人だった。彼はもはや孤独ではなかった。窓の向こうの空想の世界だけが、彼に生きている実感を与えてくれる唯一の場所となっていた。
第三章 創造主の罪過
幸福な時間は、永遠には続かなかった。ある時から、アストライアの美しい風景に異変が生じ始める。世界の端から、色と音を喰らう「虚無の霧」と呼ばれる灰色の霧が、じわじわと世界を侵食し始めたのだ。霧に触れた草木は枯れ、大地はひび割れ、空の水晶もその輝きを失っていった。
世界の危機に、カイとリラは立ち上がる。伝説によれば、世界の始まりに奏でられたという「創生の唄」だけが、虚無の霧を晴らすことができるという。二人は、その唄の手がかりを求めて、危険な旅に出ることを決意した。
湊は、これまで以上に強く本を握りしめ、彼らの旅路を見守った。胸が張り裂けそうなほどの不安と、彼らへの祈り。自分は無力な傍観者でしかない。それがもどかしく、歯がゆかった。
旅は困難を極めた。虚無の霧は二人の心さえも蝕もうとする。リラが絶望に沈みかけた時、カイは彼女を力強く励ました。
「大丈夫だ、リラ。俺たちが諦めない限り、この世界は終わらない!」
その言葉は、本を握る湊の心にも強く響いた。
そして、運命の日が訪れる。二人が古の神殿の最奥で、ついに手がかりを見つけ出した時だった。それは一枚の、古びた鏡だった。伝説には「唄の在り処は、真実を映す鏡の中に」と記されていた。
カイが、覚悟を決めた面持ちで鏡の前に立つ。湊も、固唾を飲んでその光景を「観測」していた。その時、湊の意識がぐにゃりと歪んだ。視界がカイのそれと完全に一致する。まるで、自分がカイになったかのように。彼の心臓の鼓動が、自分のものとして体に響く。
カイが――いや、湊が、鏡を覗き込む。そこに映し出されるであろう、勇気ある青年の顔を期待して。
しかし、鏡に映っていたのは、カイの顔ではなかった。
そこにいたのは、青白い顔で、目の下に深い隈を刻み、疲れ果てた表情を浮かべた、見慣れた男の姿。
水無月湊、その人だった。
「――え?」
声にならない声が漏れた。瞬間、封印されていた記憶の奔流が、堰を切ったように湊の脳内になだれ込んだ。
アストライアは、異世界などではなかった。
それは、幼い湊が、孤独を紛らわすために創り出した空想の世界だった。友達のいなかった彼が、画用紙に描き、物語を考え、一人遊びをしていた、彼だけの秘密の王国。快活で誰からも愛されるカイは、「こうありたかった自分」の理想像。優しく寄り添ってくれるリラは、彼が渇望した温もりと安らぎの象身。
成長するにつれ、湊は現実との折り合いをつけるために、その世界を「卒業」した。恥ずかしい子供の遊びとして、意識の奥底に固く封印し、忘れ去ったのだ。
白紙の本は、彼の失われた記憶と創造力の残滓。あの老人は、世界を救ってほしいと願う、湊自身の無意識の叫びだったのかもしれない。
そして、「虚無の霧」。その正体は、創造主である湊自身の「忘却」だった。彼がアストライアを忘れ、その存在を信じなくなったことで、世界はその存在基盤を失い、無に還ろうとしていたのだ。
「ああ……」
湊は愕然とした。自分が愛した美しい世界。必死で応援してきたカイとリラの旅。そのすべてを滅ぼしかけていたのは、他の誰でもない、創造主である自分自身だったという、残酷な真実。彼は傍観者ではなかった。神であり、そして、最も罪深い破壊者だったのだ。
第四章 創生の唄
絶望が、湊の全身を打ちのめした。床に崩れ落ち、ただ震えることしかできない。自分が捨てた過去が、こんなにも鮮やかな世界を形作っていたとは。そして、自分の無責任な忘却が、その世界を殺そうとしていたとは。
どうすればいい。もう一度、蓋をして忘れてしまえば、この苦しみから逃れられるだろうか。だが、それではアストライアは完全に消滅してしまう。カイも、リラも、美しいあの世界も、すべてが虚無に呑まれてしまう。
その時、本の中から、か細いが確かな声が聞こえた気がした。カイの声だ。
『……湊。聞こえるか』
それは幻聴だったかもしれない。だが、湊には確かに届いた。鏡の向こう、理想の自分であったはずのカイが、現実の自分に語りかけていた。
『俺たちを、見捨てないでくれ。君が俺たちを信じ、物語を紡いでくれる限り、俺たちはここにいる。君が、俺たちの世界なんだ』
物語を、紡ぐ。
湊は顔を上げた。涙で滲む視線の先に、白紙の本があった。そして、傍らには、彼が昔使っていた万年筆が転がっていた。まるで、誰かがそこに置いたかのように。
「創生の唄」は、どこか遠くにある伝説の遺物などではなかったのだ。
湊は震える手で万年筆を握りしめた。インクの匂いが、懐かしい記憶を呼び覚ます。彼は本を開いた。そこはもう、ただの白紙ではない。彼が物語を紡ぐべき、始まりのページだった。
彼は書いた。
アストライアを渡る風の匂いを。空に浮かぶ水晶の輝きを。カイの不屈の勇気を。リラの慈愛に満ちた微笑みを。彼が「観測」し、体験した全ての感動と愛おしさを、祈りを込めて言葉にしていく。それは失われた記憶を取り戻す作業であり、同時に、新しい世界を創造する行為だった。
一文字、また一文字とペンを走らせるたびに、本から柔らかな光が溢れ出す。その光は部屋を満たし、湊の涙を乾かしていった。彼の紡ぐ言葉こそが、世界を形作る「創生の唄」だったのだ。アストライアでは、彼の言葉が光の粒子となって降り注ぎ、虚無の霧を浄化していく。枯れた大地に緑が戻り、ひび割れた川に水が満ち、空の水晶が再びまばゆい輝きを取り戻していくのが、湊には見えた。
どれほどの時間が経っただろうか。湊がペンを置いた時、白紙だった本には、美しい物語の第一章がびっしりと記されていた。
彼は窓の外を見た。朝の光が、見慣れた街並みを照らしている。世界は昨日までと何も変わらない。だが、湊自身の心は、まるで生まれ変わったかのようだった。
彼はもう、現実から逃げるだけの孤独な男ではない。彼の中には、アストライアという広大で美しい世界が、カイやリラと共に、確かに息づいている。彼は傍観者ではない。物語を紡ぐ「創造主」なのだ。
湊は静かに本を閉じ、店のカウンターへと向かった。埃とインクの匂いが、今は心地よく感じられた。彼がこれから紡ぐ物語は、アストライアを救うだけでなく、彼自身の現実をも、きっと豊かに彩っていくだろう。彼の人生という名の物語は、今、本当の意味で始まったのだから。