忘失の観測者
第一章 欠けた世界の輪郭
僕の目には、世界は常に不完全な姿で映る。
目の前で微笑む友人、リアの頬には、まだ存在しないはずの涙の跡が薄く浮かび、彼女が未来に忘れるであろう記憶の言葉が、時折、音にならない吐息となってこぼれ落ちる。街路樹は、やがて来る嵐で折れる枝をかばうように不自然に揺れ、石畳の道には、まだ穿たれていない亀裂の幻影が走っていた。僕だけが知覚する『まだ存在しない未来に失うもの』の姿。それが、僕にとっての現実だった。
この世界は『時間のしずく』で満たされている。人々の感情や記憶が具現化したそれは、喜びの記憶は陽光のように煌めき、悲しみの記憶は霧雨のように空気を湿らせる。人々は、自分にとって価値あるしずくを集め、ガラスの小瓶に満たすことで、自らの存在を確かなものにしていた。リアもその一人で、彼女の持つ小瓶は、いつも暖かな光を放つしずくで満たされていた。
「カイ、見て。また新しい『喜びのしずく』を見つけたの」
リアが差し出す小瓶の中、黄金色のしずくが優しく明滅している。だが、僕にはその光がどこか均質で、奥行きを失っているように見えた。最近、世界の様子がおかしい。僕の目に映る『未来の喪失』が、日に日に薄らいでいるのだ。リアの頬を伝うはずの涙の跡は霞み、建物の壁を走る亀裂の幻影も、まるで薄氷が溶けるように消えかけている。
人々はそれを歓迎した。失うものがなくなる世界。永遠に続く平穏。街に漂う『時間のしずく』から、悲しみを帯びた濁ったしずくが姿を消し、誰もが存在の不安に脅かされることのない、安定した日々を謳歌していた。
だが、僕の胸には言いようのない空虚感が広がっていた。失うものがない世界とは、本当に満たされた世界なのだろうか。輪郭を失い、のっぺりとした完璧な球体になっていく世界に、僕は息苦しささえ覚えていた。
第二章 逆流する砂時計の伝説
言い知れぬ不安に駆られた僕は、街で最も古い建造物である『大図書館』の奥深くへと足を踏み入れた。埃と古紙の匂いが鼻をつく。ここでなら、この世界の異変の手がかりが見つかるかもしれない。
無数の書架を彷徨い、指先がインクの染みで黒ずみ始めた頃、僕は一冊の古びた書物に行き当たった。『永遠を紡ぐための設計図』と題されたその本には、この世界の成り立ちと、一つの禁忌の装置についての記述があった。
『終焉の砂時計』。
それは、世界のあらゆる『時間のしずく』を吸い上げ、その中に含まれる『喪失の可能性』を浄化する装置だという。砂は通常、重力に従い上から下へ落ちる。だが、その砂時計だけは、まるで時間を遡るかのように、下から上へと砂が逆流するのだと。そして、全ての砂が逆流しきった時、世界は悲しみも、不安も、何かを失うという概念そのものも存在しない、完全で停滞した永遠に至る。
書物を閉じた僕の指は、微かに震えていた。人々が手に入れた平穏は、作られたものだったのだ。
僕は聖堂へと向かった。街の中心にそびえ立つ、白亜の『刻の聖堂』。そこに、その砂時計は安置されているという。道すがら、僕は空中に舞う『時間のしずく』に意識を向けた。かつては、ほろ苦い後悔のしずくや、切ない追憶のしずくが、夜空の星のように点在していたはずの空間が、今はただ、穏やかで、しかし何の深みもない、均質な光で満たされている。まるで感情の味がしない水のように、世界は無味乾燥なものへと変わり果てていた。失うものがなくなった世界は、感動さえも失っていた。
第三章 始まりのしずく
聖堂の巨大な扉を開くと、荘厳な静寂が僕を迎えた。ステンドグラスから差し込む光が、空気中の塵をきらきらと照らし出している。その光の中心、祭壇の上に『終焉の砂時計』は鎮座していた。
高さは僕の背丈ほどもあるだろうか。透き通ったガラスの中で、金色の砂が、まるで意思を持っているかのように、下から上へと静かに、しかし着実に吸い上げられていく。もう、下のガラスに残された砂は残りわずかだった。世界が永遠の停滞に至るまで、あと幾ばくもない。
僕は吸い寄せられるように祭壇に近づき、砂時計の底を覗き込んだ。最後の砂粒が吸い上げられようとするその場所に、たった一つだけ、取り残されたものがあった。
それは、他のどんなしずくとも違う、淡く、儚い光を放つ『時間のしずく』だった。まるで、夜明けの空の色を溶かし込んだような、青白い光。
無意識に、僕はそのしずくに指を伸ばした。触れた瞬間、奔流のような記憶が僕の脳裏を駆け巡った。
忘れていた、僕自身の始まりの記憶。
僕は、この世界が『未来を失うこと』を望んだ最初の願いから生まれた存在だった。誰かが、大切なものを失う悲しみに耐えきれず、もう何も失いたくないと強く願った。その願いが『終焉の砂時計』を起動させ、僕はその副作用として、世界から捨てられた『失う可能性』を一身に背負う観測者として生まれたのだ。僕が見ていた『未来の喪失』は、世界が忘却しようとしている未来の姿そのものだった。
そして、砂時計の底にあるしずくは、僕がこの世界に存在する唯一の証。僕が生まれるきっかけとなった、最初の『喪失の記憶』だった。
「カイ……」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこにリアが立っていた。彼女の瞳は、僕が今まで見たこともないほど穏やかで、そして空虚だった。彼女の姿には、もう何の欠落も見当たらない。完璧で、美しい。だが、そこに僕の知るリアはいなかった。
「これで、もう誰も悲しまない世界が来るの。あなたも、もう苦しまなくていいのよ」
彼女は、この砂時計の完成を心から望んでいた。失うことのない永遠の幸福を、純粋に信じていた。その純粋さが、世界から未来を奪おうとしていることに、彼女は気づいていない。
砂時計の最後の砂が、ゆっくりと上へと昇っていく。決断の時は、すぐそこまで迫っていた。
第四章 永遠の始まりに、ただ一つの喪失を
僕はリアに微笑みかけた。それは、僕が初めて見せた、未来の喪失を映さない、ただの微笑みだった。
「失うことのない世界は、きっと何も生まれない世界なんだ」
僕は砂時計に向き直り、底で淡く光る自分自身の『時間のしずく』に、そっと両手で触れた。
「リア、君が未来で何かを失うとしても、それはきっと、新しい何かを得るための余白になる。傷つくことを恐れていたら、本当に大切なものに触れることもできなくなってしまう」
僕の言葉が、リアの空虚な瞳をわずかに揺らした。
「さよなら、リア。僕が、この世界の最初の『失われたもの』になる」
僕がしずくを強く握りしめると、僕の身体は内側から眩い光を放ち始めた。指先から、足元から、存在がほどけていく。光の粒子となり、世界に捨てられたはずの『可能性』へと還っていく。
「カイっ!」
リアの悲鳴が聞こえた気がした。
僕という存在と引き換えに、『終焉の砂時計』の逆流は止まった。そして、まるで長い眠りから覚めたかのように、上のガラスに溜まっていた砂が、一粒、また一粒と、静かに下へと落ち始めた。
世界に、再び『未来』がもたらされた瞬間だった。
僕の意識は拡散し、世界の隅々へと溶けていく。聖堂の壁に、まだ見ぬひび割れの予兆が走り、街路樹の枝が未来の嵐を夢見てそっと揺れる。街行く人々の笑顔の片隅に、いつか訪れる悲しみの小さな影が差し込む。それは、世界が再び動き出した証拠だった。変化し、創造し、そして何かを失っていく、豊かで不完全な時間が、再び始まったのだ。
リアは、僕のことを忘れただろう。カイという名前も、共に過ごした記憶も、彼女の中から綺麗に消え去ったはずだ。
けれど、彼女は、そしてこの世界の全ての人々は、ふとした瞬間に、胸にぽっかりと空いた穴のような、名付けることのできない切なさを感じることになるだろう。何かとても大切なものを失ったような、けれどそれが何だったのか思い出せない、甘くも苦い喪失感を。
それは、世界が未来を取り戻すために失った、僕という『可能性』の残り香。
空を見上げれば、時折、人々は見たこともない淡い光のしずくが舞っているのを目にするだろう。それは失われたものを悼む涙でも、得たものを喜ぶ輝きでもない。
ただ静かにそこに在る、永遠の始まりに灯された、たった一つの喪失のしずくだった。