頁の葬送曲
第一章 色褪せた街の物音
石畳の継ぎ目から、世界は色を失っていく。俺、カイが住むこの街は、かつてどんな色彩に満ちていたのか、もう誰も思い出せない。建物の輪郭は掠れたインクのように滲み、人々の声は風に溶けて遠い。誰もが、自身に与えられた『物語』の筋書き通りに生き、その結末と共に消えていく。それが、この世界の法則だった。
だが今、その物語そのものが消え始めているのだ。
「おい、よせよ」
俺は足元に伸びる自身の影に話しかけた。影は俺の制止を無視し、するりと地面を滑って、露店のパン籠から焼き立てのパンを一つ、掠め取った。影の手が実体を持つかのようにパンを掴む光景には、未だに慣れない。影は俺の意思とは無関係に動き、思考する、もう一人の俺だった。
影は盗んだパンを、路地裏で膝を抱える小さな少女に差し出した。少女は物語を失いかけているのか、その姿は陽炎のように揺らいでいる。少女は虚ろな目でパンを受け取ると、小さな口でかじり始めた。影は満足げに俺の足元に戻ってくる。時として善人ぶるかと思えば、俺が大事にしているものを隠す悪戯を働くこともある。その真意は、いつも読めない。
ふと、広場の中心で微かな光が瞬いた。一人の老人が、足元から透き通っていく。彼の物語が終わったのではない。彼の物語が、世界から消されたのだ。人々は足を止め、その光景をただ黙って見つめている。悲鳴も、嘆きもない。それはあまりに日常的な、静かな終末の光景だった。老人の姿が完全に掻き消えると、後には微かなインクの匂いと、世界がまた一つ薄くなったという事実だけが残された。
俺は自分の掌を見つめる。俺自身の物語が何なのか、思い出せない。だからだろうか、他の誰よりも、俺の存在は希薄に感じられた。このまま、次の瞬きで消えてしまうのではないかという恐怖が、冷たい霧のように胸に立ち込める。その不安を感じ取ったかのように、足元の影が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。
第二章 白紙の図書館
世界の異変の答えを求め、俺は街の中央に聳える『大図書館』の扉を押した。そこは、かつてこの世の全ての物語が収められていた場所。しかし今、内部に満ちていたのは埃とインクの乾いた匂い、そして墓場のような静寂だけだった。
見渡す限りの書架に並ぶ本は、そのほとんどが真っ白なページを晒していた。物語が消えるということは、こうして文字が失われることなのだ。かつて英雄譚や悲恋を綴っていたはずの頁は、ただ無垢な死骸としてそこに在った。俺は自分の物語を探して、書架の間を彷徨った。自分が誰で、どんな結末を迎えるのか。それを知らなければ、消えゆく恐怖と戦うことすらできない。
だが、どの本を手に取っても、そこに俺の名はなかった。俺は『迷子の登場人物』なのだ。物語という名の家を失った、孤独な存在。
膝から崩れ落ちそうになった俺の腕を、冷たい何かが掴んだ。影だった。いつの間にか壁から立ち上がった影が、俺の手を引いている。その指先は、まるで氷のようだ。影は言葉を発しない。だがその動きには、明確な意志があった。俺を引きずるようにして、図書館のさらに奥深く、普段は誰も立ち入らない禁書庫へと導いていく。重い鉄の扉に、影がそっと触れると、錆びた蝶番が悲鳴を上げてゆっくりと開いた。
第三章 最後の一葉
禁書庫の中は、外よりもさらに濃いインクの匂いがした。それはまるで、無数の物語の血の匂いのようだった。埃を被った書架が迷路のように入り組むその中心に、一冊だけ、ぽつんと台座の上に置かれた本があった。
革の装丁は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。だが、その本だけが、まだ文字を宿していた。
『世界で最後に消えゆく物語』
表紙に刻まれたタイトルを、俺は指でなぞった。ページをめくると、そこには名もなき騎士の旅が綴られていた。彼は呪われた姫を救うため、絶望の淵を歩んでいる。物語はまだ終わっていない。だが、最後の数ページがごっそりと抜け落ちていた。結末が、ないのだ。
途方に暮れる俺の前で、影がすっと動いた。そして、その影の中から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、どんな紙とも違う、奇妙な光沢を放っている。
『終結の頁(しゅうけつのページ)』。
どんな物語も必ずそこにたどり着く、最後の頁。まだ何も書かれていない、純白の終着点。なぜ、影がこれを。俺が問い詰める前に、影はその頁を俺の手に押し付けた。頁に触れた指先から、微かな温もりが伝わってくる。
この騎士の物語を最後まで見届け、この頁が結末で満たされる時、あるいは世界を救う鍵が見つかるのかもしれない。微かな希望を胸に、俺は図書館を後にした。騎士が向かうという『嘆きの谷』を目指して。
第四章 裏切りのインク
騎士の足跡を追う旅は、困難を極めた。そして、その困難の多くは、俺の影によってもたらされた。
影は、俺が進むべき道を指し示したかと思えば、次の瞬間にはその先にある吊り橋のロープを影の手で断ち切った。俺が眠りに落ちると、水袋の水をこっそり捨てていることもあった。その行動は、もはや悪戯では済まされない、明確な妨害だった。
「なぜ邪魔をするんだ!」
谷間の強風が吹き荒れる崖の上で、俺はついに影に向かって叫んだ。影は何も答えない。ただ、風に揺れる俺の輪郭をなぞるように、その黒い姿を揺らめかせた。その瞳があるべき場所が、深い闇の奥で、悲しげに光ったように見えたのは気のせいか。
その夜、焚き火の傍でうたた寝をしていた俺は、奇妙な気配に目を覚ました。影が、俺の鞄から『終結の頁』を抜き取り、その上に何かを書き込もうとしていたのだ。影の指先から、黒いインクのような雫が滴り落ち、頁の上に複雑な紋様を描き始める。
その紋様は、俺が何度も見てきたものだった。物語が消える時、人々が消える時に虚空に浮かび上がる、あの不吉な形。
全身の血が凍りついた。まさか。物語を消していたのは、世界を終わらせようとしているのは、ずっと俺の傍にいた、この影だったというのか。
俺が息を呑む音に、影は動きを止めた。ゆっくりとこちらを振り返る。その顔には、もはやのっぺりとした影絵の面影はなかった。人の形をした唇が、確かにそこにあった。そして、その唇が、音もなく言葉を紡いだ。
「これで、終わらせられる」
第五章 最初の語り部
影は、もはや俺の足元に縛られてはいなかった。それは独立した人の形を取り、焚き火の向こう側に静かに座っていた。裏切られた怒りと、理解できない混乱で、俺は言葉を失っていた。
影は語り始めた。声ではない。影が指を動かすと、背後の岩壁に影絵が映し出され、その情景が俺の心に直接流れ込んでくる。それは、この世界の創生の物語だった。
この世界は、一人の『最初の語り部』によって紡がれた。だが、彼はあまりに多くの物語を性急に生み出しすぎた。物語同士は矛盾し、登場人物たちは定められた運命に苦しみ、同じ悲劇を無限に繰り返すだけの牢獄と化した。影は、その『最初の語り部』が世界を創造した際に切り捨てた、良心であり、後悔の念そのものだった。
「この世界は、失敗作なのだ」
影の想いが、悲痛な響きとなって俺の胸を打つ。物語を消していたのは、破壊のためではなかった。この歪んだ牢獄を解体し、更地に戻し、そこに全く新しい、真に自由な『始まりの物語』を創造するためだったのだ。
「では、俺は……」
「君は『橋渡し』だ」と影は告げた。「特定の物語に縛られない、純粋な魂。旧世界の終わりと、新世界の始まりを見届けるための、ただ一人の観測者。だから君には、物語がなかった」
俺が『迷子の登場人物』だった理由。それは、この大いなる破壊と創造の、証人となるためだった。俺の存在そのものが、この終末のための鍵だったのだ。
第六章 頁の葬送曲
俺たちは共に『嘆きの谷』の最奥にたどり着いた。そこで、最後の物語の騎士は、呪われた姫と対峙していた。しかし、彼は剣を抜かなかった。ただ静かに姫を抱きしめ、姫にかけられた呪いを、その身に引き受けた。騎士の身体は黒い茨に覆われ、石のように動かなくなる。姫は解放され、涙を流しながら朝日の中へと消えていった。
それは英雄譚ではなかった。自己犠牲の、静かで荘厳な愛の物語だった。
その瞬間、俺の手の中の『終結の頁』が、眩い光を放った。空白だった頁に、金のインクが走る。そこに刻まれたのは、今しがた俺が見届けた、物語の結末だった。
頁が完成した、その時。世界が鳴動した。
空がガラスのように砕け散り、大地はインクの染みとなって溶け落ちていく。街も、森も、人も、全てが巨大な物語の終焉と共に、その存在意義を失っていく。俺の身体も、足元から砂のように崩れ始めていた。
「ありがとう、カイ」
影の声が、今度ははっきりと俺の心に聞こえた。「君という観測者がいたからこそ、旧世界は正しく終わることができる。そして私は、新しい物語を紡げる」
影は俺から離れ、天へと昇っていく。その姿は巨大な創造主のそれへと変貌し、掲げたその手から、新しい世界の夜明けを告げる、温かい光が放たれた。
第七章 名前のない主人公
崩壊する世界の中で、俺の意識は薄れゆく光の粒子となった。だが、その最後の瞬間に、俺は見た。
影が創造した、新しい世界を。
そこには、どこまでも広がる青い空と、緑の草原があった。不完全な物語に縛られた牢獄ではない、無限の可能性に満ちた、まっさらな世界。
そして、その草原に、一人の子供が立っていた。
その子供は、俺がこれまで見てきたどの登場人物とも違っていた。その瞳には、定められた運命への諦めではなく、自らの足で歩む未来への、力強い希望の光が宿っていた。子供は空を見上げ、生まれて初めて見る太陽の眩しさに、嬉しそうに目を細めた。
俺は、安堵と、ほんの少しの寂しさを感じながら、静かに微笑んだ。俺の役目は、終わったのだ。古い物語の最後の登場人物として、新しい世界の最初の夜明けを見届ける。それが、物語を持たなかった俺に与えられた、たった一つの、そして最高の物語だったのだ。
彼の名は、まだない。
彼自身の物語は、今、ここから始まるのだから。