沈黙の交響圏

沈黙の交響圏

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第一章 蒼いノイズ

水無月響(みなづき ひびき)は、音に呪われ、音に救われた男だった。

幼少期から悩まされた極度の聴覚過敏。都会の喧騒は、彼の鼓膜を無数の針で突き刺す拷問に等しかった。車のクラクション、雑踏のざわめき、空調の低周波音。あらゆる音が彼の精神を削り取り、いつしか響は世界そのものを憎むようになった。

そんな彼を救ったのは、皮肉にも「音」だった。ただしそれは、人間が作り出す騒音ではなく、自然が織りなす繊細なシンフォニー。彼はサウンドデザイナーとして独立すると、都会のすべてを捨て、人里離れた霧深い山の麓に小さな小屋を建てて移り住んだ。

ここでは、音は彼を傷つけない。風が木々の葉を揺らす音、夜露が地面に落ちる微かな響き、遠くで鳴く鹿の物悲しい声。それらの音を高性能マイクで拾い集め、加工し、映像作品やインスタレーションに提供するのが彼の仕事であり、生き甲斐だった。静寂に耳を澄まし、世界の微細な息遣いを捉える。それは、かつて音に苦しめられた彼だけが持つ、特異な才能だった。彼は、音と和解し、穏やかな孤独のなかで満ち足りていた。少なくとも、そう思い込もうとしていた。

その夜までは。

満月が、青白い光で森を照らし出す、静謐な夜だった。響は新しい指向性マイクのテストのため、いつものように機材を窓辺に設置し、ヘッドフォンを装着した。狙うは、夜行性のフクロウの羽音。息を殺し、意識を聴覚の一点に集中させる。

――その時だった。

彼の鼓膜を震わせたのは、鳥の羽ばたきではなかった。

キィン、と高く澄んだ音。まるで巨大な水晶を、銀の小槌で叩いたかのような、清冽な響き。それは一度きりではなく、複雑な旋律を伴って繰り返された。風の音でも、動物の声でも、人工音でもない。これまで彼が蒐集してきた数万の音源ライブラリの、どこにも分類できない未知の音。

その音は、不思議なほど美しく、そして底知れぬほど悲しかった。まるで、世界の果てでたった一人、誰にも届かない歌を歌っているかのような、途方もない孤独の気配をまとっていた。

響は我を忘れて録音機のボリュームを上げた。ノイズの向こう側で、蒼い光を放つようなその旋律は、彼の心の最も柔らかな部分を掻きむしった。何だ、これは。どこから聞こえてくるんだ?

その日から、響の平穏な日常は、その「蒼いノイズ」に侵食され始めた。それは昼夜を問わず、不意に彼のヘッドフォンに流れ込んでくるようになった。まるで、別の周波数に存在するラジオ局が、混線しているかのように。彼の築き上げた静寂の世界に、異世界の音が、静かに、しかし確実に染み込んできていた。

第二章 クリスタルの残響

響は狂ったようにその音の正体を探り始めた。仕事も手につかず、寝食も忘れ、ただひたすらに蒼いノイズを追いかけた。複数のマイクを山小屋の周囲に設置し、音の到来方向と強度を三角測量で割り出す。その結果は、彼を驚かせるには十分だった。

音源は、山小屋の裏手にひっそりと佇む、苔むした古い祠。

村の古老から聞いた話を思い出す。あの祠は「幽世(かくりよ)の門」を鎮めるためのもので、決して興味本位で近づいてはならない、と。迷信だ、と一笑に付していた言葉が、今は現実味を帯びて彼の胸に突き刺さる。

彼は最新のスペクトラムアナライザで、録音した音を分析した。画面に表示された波形は、自然界のそれとはあまりにも異質だった。特定の周波数帯域が幾重にも重なり合い、複雑なハーモニーを構成している。それは単なる物理現象としての音ではない。明確な「意志」と「感情」を持った、知的生命体による表現――音楽であり、言語であり、物語だった。

響は、その音の断片を繋ぎ合わせ、意味を読み解こうと試みた。それは、想像を絶するほど根気のいる作業だった。だが、音に魅入られた彼に、やめるという選択肢はなかった。

数週間後、彼はついにその物語の輪郭を掴む。

それは、光の届かぬ地底の世界の物語だった。そこでは、人々が水晶の洞窟に暮らし、自ら光を放つ巨大な「歌うクリスタル」の恩恵を受けて生きていた。クリスタルの歌は、彼らの世界のすべてだった。光であり、熱であり、食料であり、そして希望そのものだった。

しかし、そのクリスタルが、今、枯れようとしている。歌声は弱まり、光は失われ、世界は永遠の闇と沈黙に閉ざされようとしていた。蒼いノイズの正体は、その世界の終わりを看取る、最後の「歌い手」が奏でる鎮魂歌だったのだ。

響は、ヘッドフォンの中で鳴り響く悲痛な旋律に耳を傾けながら、震えていた。孤独な歌い手の姿に、かつて世界から拒絶され、音の中に閉じこもっていた自分自身の姿を重ねていた。会ったこともない、姿も知らない、別の世界の存在。だが、響は確かに、その魂の叫びを聞いていた。彼が救われた自然の音とは違う、もっと根源的で、純粋な魂の音。

彼は、この音の世界を、この歌い手を、救いたいと強く願った。

第三章 世界の代償

どうすれば、こちらの意志を伝えられるだろうか。響は考えた。祠は「門」だという。ならば、一方通行ではないはずだ。音で来たものには、音で返す。それが唯一の道に思えた。

彼は、自らの持てる技術と感性のすべてを注ぎ込み、一つの曲を作り上げた。それは、蒼いノイズの旋律をモチーフにしながらも、絶望ではなく、希望を歌う曲だった。夜明けの光、芽吹く若葉、生命の力強い鼓動。彼がこの世界で見つけた、美しい音のすべてを織り交ぜた、生命讃歌。

準備を終えた響は、大型のスピーカーを祠の前に設置し、深呼吸を一つして、再生ボタンを押した。彼の音楽が、森の静寂を破って響き渡る。それは、異世界への返信であり、彼自身の祈りだった。

――奇跡は、起きた。

スピーカーからの音が止むと、祠の方から、あの蒼いノイズが、前にも増してクリアに聞こえてきたのだ。そして、その旋律は明らかに変化していた。悲痛なだけだった調べの中に、戸惑うような、しかし確かに温かい和音が加わっていた。彼の音が、届いたのだ。孤独な歌い手に、彼の想いが伝わったのだ。

「ああ……!」

響は、歓喜に打ち震えた。孤独な魂が、時空を超えて繋がった。こんな感動は、生まれて初めてだった。彼はそれから毎日、新しい曲を作り、祠へと届け続けた。彼の音楽に応えるように、異世界の歌もまた、少しずつ力を取り戻していくように聞こえた。枯れかけたクリスタルが、再び輝きを取り戻す様が、音を通して彼の脳裏に幻視された。

だが、幸福な時間は長くは続かなかった。

異変は、彼の足元で、静かに進行していた。

ある朝、響はいつものように窓を開け、森の空気を吸い込んだ。しかし、何かがおかしい。いつもなら彼を目覚めさせていたウグイスの澄んだ鳴き声が、どこにも聞こえないのだ。耳を澄ませても、聞こえるのは風の音だけ。

その翌日には、森のざわめきが薄らいでいることに気づいた。葉が擦れ合う音の密度が、明らかに低い。

そして、その次の日。彼は愕然とした。小屋のすぐそばを流れる小川の、あの心地よいせせらぎが、完全に消え失せていたのだ。水は流れているのに、音だけがない。まるで、世界がミュートボタンを押されたかのように。

彼は、恐ろしい可能性に行き着いた。

彼が異世界へ音を送るたび、この世界の音が一つ、また一つと消えていく。

まるで、二つの世界に存在する音の総量が決まっているかのようだ。一方の世界の音を豊かにするということは、もう一方の世界から音を奪うことに他ならない。

彼は、救済などしていなかった。

彼はただ、愛するこの世界の音を犠牲にして、滅びゆく異世界を延命させていただけだったのだ。自分の行いは、音の略奪であり、世界の均衡を破壊する、取り返しのつかない罪だった。

ヘッドフォンからは、力を取り戻した異世界の美しい歌が聞こえてくる。しかし、その一音一音が、現実の世界から奪い取られた音の亡骸なのだと思うと、もはやそれは呪いの旋律にしか聞こえなかった。

第四章 君に捧ぐ、サイレンス

選択の時が来た。

このまま音を送り続け、クリスタルの世界の歌い手と、刹那の共鳴を楽しむか。いずれこの世界が完全な沈黙に包まれると知ったうえで。

それとも、すべてを止め、愛するこの世界の音を守るか。それは、異世界の歌い手を見捨てることであり、ようやく得た魂の繋がりを、自らの手で断ち切ることを意味した。

どちらを選んでも、待っているのは喪失だ。響は数日間、何も手につかず、ただ静まり返っていく森の中で苦悩した。かつてあれほど憎んだ音のない世界が、すぐそこまで迫っている。だが、その静寂は、彼が求めた平穏とは似ても似つかぬ、死と虚無の匂いがした。

彼は、ようやく決断した。

最後の曲を作ろう、と。

それは、異世界の歌い手に捧げる、最後の鎮魂歌(レクイエム)。そして、音を奪ってしまったこの世界への、謝罪と愛の歌。彼は、残されたわずかな世界の音――風の微かな唸り、自分の心臓の鼓動、鉛筆が紙を擦る音――を丹念に録音し、旋律に織り込んでいった。それは、これまでのどの曲よりも静かで、切なく、そして優しい曲になった。

彼は完成した曲のデータを手に、祠へと向かった。スピーカーから最後の音楽を流し終えると、彼は持ってきたハンマーを振り上げ、録音機材、スピーカー、コンピュータ、そのすべてを躊躇なく破壊した。砕け散るプラスチックと金属の、乾いた不協和音が、静寂の森に響いた。

これで、もう音は送れない。

祠から聞こえていた蒼いノイズは、彼の最後の音楽に応えるように、最も美しく、穏やかな旋律を一度だけ奏でた。それは感謝のようでもあり、別れの挨拶のようでもあった。そして、ふつり、と。まるで蝋燭の火が消えるように、その音は永遠に沈黙した。

完全な静寂。

響は、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。すべてを失った。異世界の友も、自分が生み出す音楽も。虚無感が津波のように彼を襲う。

どれほどの時間が経っただろうか。絶望的な無音の世界で、彼の耳が、微かな音を捉えた。

チ、チチ……。

それは、一羽のセキレイの、か細い、しかし確かなさえずりだった。

響は、はっと顔を上げた。

それを皮切りに、世界はゆっくりと、しかし確実に、音を取り戻し始めた。死んでいたはずの小川が、遠慮がちにせせらぎ始め、風が再び木々の葉を揺らし、森が息を吹き返していく。

彼の頬を、熱い涙が止めどなく伝った。

失われた蒼い世界の悲しみと、戻ってきたこの世界の愛おしさを、同時に胸に抱きしめる。彼は何かを永遠に失い、そして何かを確かに取り戻した。

かつて音を憎んだ男は、今、世界に音が満ちているという当たり前の奇跡に、打ち震えていた。彼の心にあった虚無感は消え、代わりに、静かな哀しみと、世界と深く繋がっているという確かな感覚が根付いていた。

彼はもう、孤独ではない。この世界の、あらゆる音と共に生きていくのだ。その尊さと儚さを、誰よりも深く知る者として。響は立ち上がり、音を取り戻した森の中を、一歩一歩、踏みしめるように歩き始めた。

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