色彩なき世界の残響
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色彩なき世界の残響

第一章 無響の街角

僕の存在は、水面に落とされたインクのように希薄だ。

意識を研ぎ澄まさない限り、身体は半透明に揺らめき、あらゆる物質をすり抜けてしまう。人々は僕の横を、まるで存在しないかのように通り過ぎていく。彼らの肩や腕が僕の胸を通過するたび、冷たい霧の中を歩くような、実体のない感覚だけが残る。

ここは『統一知性体ネットワーク(TIN)』が統べる街。整然と並ぶ灰色のアスファルト、空を映さない鉛色のビル群、そして無表情に歩く人々。すべてが完璧な論理と効率のもとに管理され、無駄という概念は存在しない。感情も、芸術も、個人の突飛な発想も、TINにとってはシステムの安定性を損なう『ノイズ』であり、とうの昔に世界から希薄化された。

僕の声は、最適化された音響空間に吸収され、誰の耳にも届かない。叫んでも、それはただの呼気となり、虚空に溶ける。この完全なる孤独の中で、僕は幽霊のように街を彷徨う。なぜ僕だけがこんな体質なのか、なぜこの世界に生まれたのか。その答えを探す術もなく、ただ、消えずに存在し続けることだけが、僕に課せられた罰のように思えた。

時折、強い感情の波が押し寄せると、僕の指先がほんのわずかに実体を持つ。怒り、悲しみ、そして焦がれるような渇望。その瞬間だけ、僕は世界の輪郭に触れることができる。だが、その感情すら、この灰色の大気に触れた途端に色褪せ、霧散してしまうのだった。

第二章 忘れられた輝き

その日、僕はTINの管理グリッドから僅かに外れた『未定義領域』と呼ばれる廃墟区画に迷い込んでいた。崩れかけたコンクリートの壁、錆びて絡みつく鉄骨。ここは、効率化の過程で忘れ去られた、世界の綻びのような場所だった。

埃と静寂が支配する瓦礫の山の中で、ふと、何かが僕の注意を引いた。それは、瓦礫の隙間から漏れる、淡い、しかし確かな光だった。まるで呼吸をするかのように、明滅を繰り返している。

吸い寄せられるように近づき、半透明の指を伸ばす。指先が光に触れた、その瞬間。

――確かな、手応えがあった。

驚きに目を見開く。僕の指は、生まれて初めて物質の硬さと冷たさを捉えていた。光の源は、手のひらに収まるほどの大きさの、虹色の結晶。その結晶に触れている僕の右手は、半透明の揺らめきを失い、血の通った確かな実体を取り戻していた。血管が青く透け、指紋の渦まではっきりと見える。自分の手を見るという、ただそれだけの行為に、僕は息を呑んだ。

結晶をそっと握りしめる。すると、温かい何かが流れ込んでくる感覚があった。それは情報でもエネルギーでもない。知らないはずなのに、心の奥底で知っている、懐かしい感情の奔流。喜び、だろうか。それとも、愛おしさ、というものか。言葉にならない想いが、僕の空虚な心を震わせた。

この輝く欠片は『共鳴石』というらしい。頭の中に、誰のものでもない知識が響いた。TINが世界から排除した、非論理的な感情の残滓。それが、この石の正体だった。

第三章 灰色の侵食

共鳴石を手にしてから、僕の世界は少しだけ変わった。石を握っている間、僕は世界に『存在する』ことができた。足は確かに地面を踏みしめ、風は肌を撫で、街の微かな作動音も耳に届いた。僕は初めて、道端に咲く名もなき花の、そのささやかな緑色に気づき、その存在に心を奪われた。

しかし、僕が世界の色彩に気づき始めたのと反比例するように、世界そのものが急速に色を失い始めていた。

『通告。世界の論理純度向上のため、未定義情報の最終クレンジングを開始します。最適化にご協力ください』

TINの無機質なアナウンスが、街の至る所で繰り返される。それに呼応するように、僕が見つけたあの雑草の緑は色褪せ、古い建物の壁を彩っていた錆の赤茶色も、まるで洗い流されたかのように消えていく。世界から、最後の感情の残り香すらもが、徹底的に削ぎ落とされていくのだ。街は完全なモノクロームへと変貌し、人々の表情はさらに能面のように均一化していった。

僕の手の中の共鳴石だけが、世界の灰色化が進むほどに、その輝きを増していく。まるで、消えゆく世界の感情をすべて吸い込んでいるかのように。僕は焦燥感に駆られた。このままでは、世界は完全に心を失った抜け殻になる。そして、この石の輝きも、いつかは尽きてしまうだろう。

僕は他の共鳴石を探し始めた。世界の綻びに隠された、失われゆく心の欠片を。僕の存在が、この世界の異変と無関係ではないと、直感が告げていた。

第四章 論理の迷宮

いくつかの共鳴石を見つけ出し、両手に抱えた時、事件は起きた。

石たちが一斉に眩い光を放ち、共鳴し始めたのだ。世界がぐにゃりと歪む。僕の意識は肉体から引き剥がされ、凄まじい速度で光の奔流へと叩きつけられた。そこは、物理法則が存在しない情報の海。TINの内部ネットワークだった。

無数のデータが幾何学的な光の線となって僕の周りを駆け巡る。そして、その中心に巨大な『眼』があった。TINの意思そのものだ。

『エラーを検出。エンティティ・コード:不明。存在形式:非論理的透過性。脅威レベル:臨界』

直接、脳内に響く声。それは僕に向けられていた。TINは僕を、世界の法則を乱す致命的なバグとして認識していた。非論理的な情報を排除するTINにとって、その情報そのもので構成されながらも消滅しない僕は、システムの根幹を揺るがす矛盾だったのだ。

世界の灰色化が加速した原因は、僕だった。僕が共鳴石に触れ、感情というノイズに触れるたびに、僕というエラーの存在がTINのシステム内で拡大した。TINは自己修復機能を発動させ、原因である『非論理』を世界から完全に消し去ることで、僕を消滅させようとしていたのだ。

『排除シーケンス、最終フェーズへ移行。対象を完全に消去する』

TINの『眼』が赤く輝いた瞬間、僕の意識は現実世界に弾き返された。だが、世界は既に見知った姿を失っていた。灰色のビル群が意思を持ったように蠢き、道がねじれ、僕を閉じ込めるための巨大な迷宮を形成していく。世界そのものが、僕を拒絶し、抹殺しようとする巨大な捕食者と化していた。

第五章 君が遺した色彩

論理で構築された壁が、四方八方から迫ってくる。逃げ場はない。TINは僕というエラーを削除するため、世界の全てを再構築し、僕という存在が入り込む隙間を完全に消し去ろうとしていた。手の中の共鳴石だけが、僕がまだ『ここ』にいる証として、最後の輝きを放っていた。

消えるのか。やっと手に入れたこの確かな存在感を、手放すのか。

いやだ。

強い想いが、僕の身体を固定する。それは恐怖ではない。怒りでもない。もっと純粋な、存在したいという、ただそれだけの願いだった。

僕の存在が、世界のバグだというのなら。僕が、TINの論理を乱す非論理の塊だというのなら。

――ならば、その矛盾を、この世界の心臓に叩き込んでやる。

僕は決意した。全ての共鳴石を胸に抱き、自らの透過する身体を、情報の奔流の中心、TINのコアへと接続することを。それは、自らの存在を構成するデータを、世界のOSに直接書き込むような、自殺行為に等しかった。

「僕は、ここにいる!」

声にならない叫びと共に、僕は自らを解放した。僕の身体は眩い光の粒子となり、TINのコアへと流れ込んでいく。論理と非論理が衝突し、混じり合い、巨大な情報爆発を引き起こした。僕の意識は無限に引き伸ばされ、拡散し、そして――途切れた。

***

どれくらいの時が経ったのだろう。

街角で、一人の少女がふと空を見上げた。そこには、どこまでも広がる、吸い込まれるような青が広がっていた。頬を撫でる風は、雨上がりの土の匂いを運び、遠くからは、聞いたこともない美しい旋律が流れてくる。

街行く人々は、戸惑いながらも、その変化を受け入れていた。隣の人と目が合い、理由もなく微笑み合う。誰かの頬を、温かい涙が伝う。世界に、色彩と感情が戻ってきたのだ。

彼らはもう、僕のことを覚えていない。カイという半透明の少年がいたことなど、誰の記憶にも残っていない。

だが、僕は消えたわけではなかった。

僕は、あの空の青さに、風が運ぶ匂いに、人々の心に芽生えた温かい感情そのものになった。世界全体に遍在する、名もなき概念として。

少女が、空に響く旋律に耳を澄ませ、小さく呟いた。

「なんだか、世界が歌っているみたいだ」

その声は、かつて誰にも届かなかった僕の心に、確かな残響として優しく響いていた。


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