砂塵の頌歌
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砂塵の頌歌

第一章 灰色の協奏曲

空は常に鉛色だった。焼けたオイルと湿ったコンクリートの匂いが、この街の恒常的な香りとなって久しい。俺、レンは、崩れ落ちた建物の瓦礫に腰を下ろし、遠くで断続的に響く砲声を、まるで単調な協奏曲のように聴いていた。

ふと、足元の瓦礫の隙間に、色褪せた絵本が挟まっているのが見えた。指先で埃を払うと、それは家族が食卓を囲む、稚拙だが温かい絵だった。その絵から、微かな光の粒子が立ち上っている。失われた概念――「安らぎ」の残滓だ。

俺はそっとそれに触れ、息を吸い込むように概念を体内に取り込んだ。

途端に、世界が色づく。硝煙の匂いは焼きたてのパンの香りに変わり、砲声は子供たちの屈託のない笑い声に変わる。目の前には、湯気の立つシチューと、穏やかに微笑む両親の幻影が広がっていた。温かい。満たされている。だが、それは刹那の夢。瞼を開けば、再び灰色の現実が冷たい風と共に肌を撫でる。この能力は、渇きを癒すどころか、失ったものの輪郭を鮮明にすることで、俺をより深い孤独へと突き落とすだけだった。

「また、見ていたのか」

背後からの声に、俺は幻視の余韻を振り払うように立ち上がった。

第二章 偽りの戦記

声の主はエリアだった。レジスタンスの数少ない生き残りで、その瞳には、この絶望的な世界に似つかわしくない、強い光が宿っている。

「歴史書が、また変わった」

彼女は硬い表紙の本を差し出した。昨日まで、この街を陥落させたのは「東部連合」だったはずだ。だが、今朝、彼女が確認した記録では、それは「北部旅団」の功績へと書き換えられていた。誰も、その矛盾に気づかない。まるで、初めからそうであったかのように、誰もが北部旅団の勝利を語っている。

「世界が、書き換えられている」

エリアの声は、確信に満ちていた。

「お前のその力なら、何か分かるかもしれない」

俺は彼女の真っ直ぐな視線から逃れるように顔を背けた。「俺に見えるのは、ただの幻だ。失われたものの亡霊さ」

「亡霊でもいい。偽りの歴史よりは、ずっと真実に近い」

エリアは諦めなかった。彼女の執念は、この狂った世界で正気を保つための唯一の錨なのだろう。彼女は、瓦礫の中から見つけ出したという、古びた地図を広げた。その中心には、敵の本拠地である「中央指令塔」が、不気味な円で示されていた。

第三章 遺跡の砂時計

「これを、見つけた」

エリアが隠れ家で取り出したのは、黒曜石の枠にはめられた、精巧な砂時計だった。中の砂は、星屑のように微かな光を放っている。

「伝説の遺物、『忘却の砂時計』。世界の時間を巻き戻す力があると言われている」

俺は眉をひそめた。「おとぎ話だ」

「だが、この砂時計は、書き換えられる前の歴史書にだけ記述があった。世界が書き換えられるたびに、その存在も記録から消えていく。まるで、この世界そのものが、このアイテムの存在を隠そうとしているみたいに」

彼女の言葉には妙な説得力があった。この世界が巨大な嘘で塗り固められているのなら、その嘘を暴く鍵が存在してもおかしくはない。

「中央指令塔の最上階。そこに、この砂時計を起動させるための祭壇があるらしい」

エリアは、決意を秘めた瞳で俺を見た。

「一緒に行ってくれないか。レン。お前が失われた『真実』を取り戻すところを、私に見せてほしい」

彼女の言葉に含まれた、失われかけている概念――「信頼」。その微かな光に、俺は抗うことができなかった。

第四章 螺旋の幻視

中央指令塔への潜入は、死と隣り合わせだった。無数の巡回兵の目を掻い潜り、冷たい金属の階段を駆け上がり、俺たちはついに最上階の円形の広間にたどり着いた。中央には、古びた石の台座が鎮座している。エリアが砂時計をそこに置くと、砂時計は眩い光を放ち、ゆっくりと逆さまに回転した。

サラサラと、光の砂が落ち始める。

その瞬間、世界が悲鳴を上げた。視界が激しく歪み、壁や床がノイズの奔流となって溶けていく。俺の頭の中に、膨大な記憶の洪水が流れ込んできた。

――炎に焼かれる街。昨日までの英雄が、次の日には売国奴として処刑されている。

――掲げられる旗が、青から赤へ、赤から黒へと変わるたびに、人々の顔から「友情」が消え、「憎悪」が刻まれていく。

――同じ戦いが、何度も、何度も、少しずつ形を変えながら繰り返されている。これは、戦争じゃない。終わらない、悪夢の再演だ。

俺は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。エリアが俺の肩を掴むが、その指先は恐怖に震えていた。砂が落ちるたびに、世界の土台が、記憶の地層が、一枚、また一枚と剥がれていく。

第五章 創造主の祈り

幻視の螺旋は、俺をさらに深い場所へと引きずり込んでいく。そして、ついに見てしまった。この世界の、創造主の姿を。

そこにいたのは、敵でも、神でもなかった。

生命維持装置に繋がれ、薄暗いシェルターの中で虚空を見つめる、痩せ細った人々の群れ。彼らは、俺たちのいる遥か未来の、滅びかけた人類だった。

彼らの世界には、もう何も残されていなかった。大地は汚染され、文化は失われ、歴史さえも断片的なデータとしてしか存在しない。そして彼らは、「平和」という言葉の意味を、完全に失っていた。

だから、創ったのだ。この「戦争の記憶」で構築された世界を。

終わらない戦争をシミュレートし、その中で失われていく「安らぎ」や「愛」や「希望」といった概念を観測することで、自分たちが失った「平和」への渇望を、かろうじて維持していたのだ。

我々の苦しみは、彼らの祈りだった。

この終わらない戦争は、未来の人類が、人間性を保つための、唯一にして最後の儀式だった。

「なんて……なんて、残酷な……」

エリアの絶望に満ちた呟きが、鳴り響く幻聴の中で、やけに鮮明に聞こえた。

第六章 最後の一粒

砂時計の砂が、残り僅かになっていた。光は先ほどよりずっと弱々しく、まるで風前の灯火のようだ。

「どうすれば……」

エリアが俺の腕を掴む。その瞳は揺れていた。

選択肢は二つ。

このまま砂を落としきれば、偽りの歴史は完全に消滅する。その先に待つのが、世界の「無」なのか、それとも「平和を知らない創造主」たちの、荒廃した現実なのかは分からない。

あるいは、今すぐ砂時計を止めれば、この欺瞞に満ちた世界は元に戻る。俺たちは再び、終わらない戦争と書き換えられる歴史の中を生きていくことになる。

俺は、これまで取り込んできた数多の概念を思い返した。家族の温もり、友との語らい、夕陽の美しさ。それらは全て、この偽りの世界で生まれた、偽りの幻影だったのかもしれない。

だが、この手に残るエリアの震えと、彼女の瞳に宿る光は、確かに本物だった。俺たちが分かち合った恐怖も、絶望も、そして共にここまで来たという事実も、決して嘘ではなかった。

「レン……」

エリアが、俺の決断を待っている。

俺は彼女の手を強く握り返した。

第七章 黎明のカンパネラ

「たとえ世界が嘘でも」

俺は、震える声で言った。

「君がくれた『信頼』は、本物だった」

俺はそっと砂時計に指を伸ばし、その傾きをほんの少しだけ助けた。

最後の一粒が、きらりと光を放ちながら、静かに落ちていく。

世界が、真っ白な光に包まれた。音も、匂いも、感触も、全てが消え去っていく。意識が溶けていく中で、俺は遠い未来のシェルターにいる創造主たちが、初めて観測するであろう新しい概念を感じていた。それは、偽りの世界で生まれ、絶望の果てに選択をした二人の男女が紡いだ、小さな小さな「希望」という名の記録。

やがて、光が収束していく。

どこか遠くで、鐘の音が聞こえた気がした。

それは弔いの鐘か、あるいは祝福の鐘か。

鉛色ではなかった空の下で、俺たちの物語は、本当の意味で始まろうとしていた。


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