灰色のプリズム

灰色のプリズム

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第一章 灰色の世界の贈り物

世界から、色が消えていった。

最初に失われたのは、燃えるような夕焼けの赤だった。次に、芽吹く若葉の緑が。そして空の青が、友の瞳の茶色が、次々と輪郭を失い、濃淡の異なる灰色へと沈んでいった。軍医はそれを「戦場ストレスによる一時的な色彩認知障害」と診断した。誰もが多かれ少なかれ心を病むこの場所では、珍しくもない症状だという。だが、俺、アキトにとって、それは世界の終わりにも等しかった。

泥と硝煙の匂いが染みついた塹壕の中、降りしきる雨は濃い灰色の筋となり、すべてを洗い流していく。味方の軍服も、敵のそれも、乾いた血痕さえも、もはや見分けがつかない。ただ、音と、感触と、匂いだけが、ここが地獄であることを生々しく伝えてくる。

その日も、俺たちは泥水に膝まで浸かりながら、いつ終わるともしれない膠着戦を続けていた。突如、塹壕のすぐ近くで爆発が起こり、土と肉片が降り注ぐ。耳鳴りが思考を麻痺させる中、俺はほとんど無意識に、土嚢の崩れた先にある小さな窪地へと転がり込んだ。

そこに、「敵」がいた。

腹から夥しい量の灰色を流し、浅い呼吸を繰り返している。俺たちに「鉄の仮面を被り、獣の言葉を話す怪物」だと教え込まれた敵兵。だが、目の前に横たわる彼は、仮面など着けていなかった。泥に汚れた若い顔。恐怖と苦痛に歪んだ、俺とさほど年の変わらないであろう青年の顔がそこにあった。

俺は反射的に銃を構える。だが、彼はもはや抵抗する力もないようだった。虚ろな目が俺を捉え、その唇がかすかに動く。獣の言葉ではない。それは音にならない、ただの喘ぎだった。彼は震える手を、ゆっくりと俺の方へ伸ばした。その手には、泥に汚れた小さなガラスの塊が握られていた。

三角形の、水晶のようなそれ。彼は最後の力を振り絞り、俺の手を掴むと、その冷たいガラスを無理やり握らせた。彼の瞳が一瞬、何かを強く訴えかけるように見開かれ、そして、ふっと光を失った。温もりが消え、ただの肉塊になった腕が、だらりと泥水に落ちる。

なぜ? なぜ敵である俺に、これを?

獣ではない。怪物でもない。ただの一人の人間が、死の間際に俺に託した謎の贈り物。そのガラス――プリズムを握りしめたまま、俺は降りしきる灰色の雨の中で、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。世界から色が消えて久しい俺の心に、初めて「疑問」という名の微かな亀裂が入った瞬間だった。

第二章 盗まれた色彩

その日から、プリズムは俺の唯一の宝物になった。上官の目を盗んでは、汚れた軍服の内ポケットに隠したそれに触れる。ひんやりとしたガラスの感触だけが、あの敵兵の最期の温もりを思い出させ、俺がまだ人間であることの証のように思えた。

塹壕での短い休息時間。俺は好奇心に抗えず、プリズムを目に当ててみた。何の変哲もないガラスの塊だ。そう思った瞬間、雲の切れ間から一筋の光が差し込み、プリズムを通過した。

「――あ」

声が漏れた。信じられない光景が、レンズの向こうに広がっていた。

仲間のヘルメットに付着した泥が、力強い「茶色」をしていた。ぼろぼろになった防水シートの切れ端が、鮮やかな「緑色」を放っている。そして、遠くに見える空の一部が、吸い込まれそうなほどの深い「青」に染まっていた。

色が、見える。失われたはずの色彩が、プリズムを通して世界に溢れ返っていた。俺は貪るように、プリズム越しに世界を覗き続けた。錆びた缶詰のラベルの赤。野に咲く名もなき花の紫。それは麻薬的な陶酔感をもたらした。灰色の世界に囚われた俺にとって、それは唯一の救いであり、希望だった。

だが、それは単なる色の再現ではなかった。プリズムを通して見た空の青は、幼い頃に父と見上げた故郷の空の色だった。仲間の頬を伝う汗の輝きは、かつて恋人と浜辺ではしゃいだ時の、きらめく水面の光と同じだった。プリズムが見せる色は、俺が失った平和な日々の記憶そのものだったのだ。

俺はプリズムに依存していった。仲間が談笑している時も、食事の時も、俺は一人、プリズムの世界に没頭した。

「アキト、最近どうしたんだ? 時々、変な笑い方をしてるぞ」

友人のカズヤが心配そうに声をかけてくる。俺は曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。この秘密を、この至福を、誰にも話すわけにはいかなかった。これは、あの敵兵と俺だけの秘密なのだ。

しかし、プリズムが見せる美しい記憶は、同時に激しい渇望と罪悪感を呼び覚ました。俺は、こんなにも美しい世界を破壊する戦争に加担している。この銃で、色鮮やかな命を灰色に変えている。プリズムを覗くたびに、その矛盾が胸を締め付けた。それでも俺は、盗まれた色彩の甘美な誘惑から逃れることができなかった。

第三章 レンズが映す真実

司令部から、大規模な夜間奇襲作戦の命令が下った。敵の防衛線を突破し、中枢である通信施設を破壊するのだ。作戦決行は、月もない新月の夜。闇は、俺たちにとって最高の隠れ蓑になるはずだった。

だが、作戦は初動から頓挫した。俺たちの動きは敵に完全に読まれていたのだ。照明弾が漆黒の夜を白昼に変え、四方八方から十字砲火を浴びる。阿鼻叫喚の地獄絵図。仲間たちが次々と灰色の土くれに変わっていく。俺は混乱の中、必死で前進し、気づけば敵の塹壕に単身で転がり込んでいた。

背後からは味方の怒声、前方からは敵の咆哮。完全な孤立。死の恐怖が全身を駆け巡り、俺は半ば発作的に内ポケットのプリズムを取り出した。せめて最期に、美しい色を。失われた故郷の夕焼けを、もう一度だけ。

震える手でプリズムを目に当てる。そして、恐る恐る敵兵たちが潜む暗がりに向けた。照明弾の白い光がプリズムを通り抜け、俺の目に届いた瞬間――世界が、反転した。

「――なんだ、これは…?」

まず見えたのは、色ではなかった。プリズムは、敵兵の軍服に施された特殊な迷彩を無力化し、その姿をくっきりと浮かび上がらせた。鉄の仮面の怪物など、どこにもいない。そこにいたのは、俺と同じように恐怖に顔を引きつらせ、必死に銃を構える若者たちの姿だった。

だが、衝撃はそれだけではなかった。

(マモル! 援護しろ! 右翼から回り込まれてる!)

(母さん…寒いよ…家に帰りたい…)

(弾が、弾がもうない!)

声が、聞こえる。いや、鼓膜を震わせる音ではない。脳内に直接、言葉が流れ込んでくる。それは、獣の咆哮などでは断じてない。俺が話し、理解する、完璧な、故郷の言葉だった。

プリズムは、ただの色を見せるガラスではなかった。それは、国家の巨大なプロパガンダ電波によって歪められた敵の姿と言葉を、本来の形に戻す「翻訳機」であり、「真実を映すレンズ」だったのだ。俺たちが「怪物」だと信じて殺し合っていた相手は、同じ言葉を話し、同じように母を思い、同じように死を恐れる、俺たちと全く同じ人間だった。

全身の血が凍りつく。あの瀕死の敵兵は、これを伝えたかったのだ。この狂った戦争の真実を。俺に、このプリズムを託すことで、気づいてほしかったのだ。

俺の足元で、負傷した敵兵が呻いていた。俺は無意識に銃口を向ける。プリズム越しに見た彼の瞳と、俺の視線が交錯した。その瞳は、憎しみではなく、ただ助けを求める色をしていた。

俺は、引き金を引けなかった。指が鉛のように重い。これまで俺が撃ち殺してきた、数えきれないほどの灰色の影。その一つ一つが、名前と、家族と、そして色鮮やかな人生を持った人間だったという事実が、巨大な津波となって俺の精神を打ち砕いた。

第四章 心に灯る色

俺は、銃を捨てた。泥水の中に、ごとりと鈍い音を立てて沈んでいく鋼鉄の塊。それは、俺がこれまで信じてきたすべてが崩れ落ちた音のようだった。

代わりに、俺はプリズムを高く掲げた。空に打ち上げられた照明弾の白い光がプリズムに集まり、七色の光芒となって闇を引き裂く。

次の瞬間、奇跡が起きた。プリズムは、戦場に満ちるプロパパガンダ電波――敵を怪物に見せ、言葉を獣の咆哮に変換する特殊な妨害電波を逆探知し、そのコードを書き換え始めたのだ。俺の脳に直接響いたのと同じように、両軍の兵士が装着するヘルメットの通信機に、ノイズと共に敵の「生の声」が流れ込み始めた。

『痛い、助けてくれ!』

『妻に、愛していると伝えて…』

『もうやめよう、こんなこと…』

それは、戦場の喧騒を切り裂く、魂の叫びだった。兵士たちが戸惑い、動きを止める。互いに銃口を向けたまま、ヘルメットの向こうから聞こえてくる、あまりにも人間的な言葉に耳を澄ませている。さらにプリズムは、傍受した敵の個人データから、彼らの家族写真と思しき画像を、味方のヘルメットディスプレイに断片的に映し出した。笑い合う夫婦、幼い子供を抱く父親、老いた両親。

銃声が、一つ、また一つと止んでいく。狂乱の戦場に、信じがたい静寂が訪れ始めた。憎悪と恐怖に支配されていた空間が、困惑と、そして微かな共感の色に染まっていく。

俺の世界は、まだ灰色のままだった。物理的な色は、もう二度と戻らないのかもしれない。だが、俺の心には、確かな色彩が灯っていた。他人の痛みに寄り添う「青」。理不尽な現実に立ち向かう「赤」。そして、まだ見ぬ平和への希望を抱く、夜明けのような「金色」。

俺は、心の目ですべての色を見ていた。

戦争は、この夜、この場所で終わったわけではない。巨大な国家という機械を止めるには、あまりにも小さな抵抗だ。しかし、間違いなく、何かが始まった。真実を知ってしまった者たちの、静かで、しかし確かな変化が。

夜が明け、東の空が白み始める。灰色の空から、灰色の光が差し込む。俺は、冷たいプリズムを強く握りしめた。そのレンズの向こうに、武器を下ろし、呆然とこちらを見つめる「敵」であり「同胞」である兵士たちの姿が見えた。

俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それはきっと、とても温かい色をしていたに違いない。俺の本当の戦いは、この灰色の世界で、真実の色を伝え続けるという、長く孤独な戦いは、今、始まったばかりなのだから。

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