第一章 金色の英雄
インクの匂いが、勝利の匂いだと信じていた。
僕、相沢亮(あいざわりょう)の描く絵本『星の兵士』が、帝都の空を席巻していた頃の話だ。物語は単純明快。金色の鎧をまとった勇敢な兵士が、夜空から襲来する邪悪な「星の怪物」を聖なる剣で討ち滅ぼし、平和な国を守るというもの。子供たちは熱狂し、大人たちは喝采を送った。僕の描いた英雄は、銃後の人々の心を照らす、まさしく時代の光だった。
「相沢先生の絵本のおかげで、うちの子も『国の為に戦う立派な兵隊さんになる』と息巻いております」
ラジオの朗読放送が始まれば、街中の子供たちが固唾をのんで耳を傾ける。僕の仕事場には、そんな感謝の手紙が毎日のように山と積まれた。画材屋は僕のために貴重な絵の具を優先的に回してくれ、軍の広報部からは感謝状まで贈られた。僕は誇らしかった。この細いペン先が、インクの一滴が、遠い戦地で戦う本物の兵士たちと同じくらい、この国を支えているのだと。この戦争を、正しい勝利へと導く一助となっているのだと、本気で信じていた。
そんな熱狂の最中、一通だけ異質な手紙が紛れ込んでいるのに気づいたのは、ある蒸し暑い夏の午後だった。上質な便箋に達筆で綴られたファンレターの山の中で、それは粗末な紙片に、まるで泣きながら書いたかのようにインクが滲んでいた。差出人の名はない。そこには、震えるような子供の文字で、たった一言、こう書かれていた。
『うそつき』
その瞬間、部屋の空気がわずかに淀んだ気がした。僕は苦笑し、きっと僕の描く英雄が強すぎることに嫉妬した子供のいたずらだろうと、無理やり自分を納得させた。その紙片を屑籠に捨て、新しい原稿用紙に向かう。だが、そのインクの染みは、僕の心の隅に、消えない小さな黒い点となって、いつまでも残っていた。
第二章 インクの滲む街
新作の構想を練るため、僕は帝都の喧騒を離れ、海沿いの地方都市を訪れた。空襲の被害も少なく、昔ながらの街並みが残る、穏やかな場所だと聞いていた。しかし、汽車を降りた瞬間から、僕は見えない膜のようなもので覆われた、街の異様な静けさに気づいた。
子供たちの笑顔はあった。僕が『星の兵士』の作者だと知ると、彼らは目を輝かせて駆け寄ってきた。だが、その笑顔はどこか張り付いたように乾いていて、その視線の奥には、歳不相応な諦観の色が漂っているように見えた。大人たちの顔は、より顕著だった。誰もが口を噤み、俯きがちに歩いている。配給所の前には朝から長い列ができ、人々は無言で、ただ虚空を見つめていた。僕の絵本の中にある、活気に満ちた豊かな国は、ここには存在しなかった。
「先生、新しいお話では、兵士さんはどんな怪物をやっつけるんですか?」
旅館の幼い娘さんが、僕にそう尋ねた。僕はいつものように、胸を張って答える。
「もちろん、もっと大きくて、もっと悪い星の怪物さ。でも心配いらない。僕らの英雄は、絶対に負けはしないからね」
少女はこくりと頷いたが、その表情は晴れなかった。その夜、僕は一人、部屋で筆を握った。窓の外は、灯火管制で漆黒の闇に沈んでいる。インクを溶かす水滴の音が、やけに大きく響いた。金色の英雄を描こうとするのに、なぜかペンが鈍く、重い。あの『うそつき』という四文字が、インクの染みのように、白い画用紙の上にじわりと広がってくる幻覚を見た。この街に漂う声なき声が、僕の信じてきた物語の輪郭を、少しずつ侵食していくようだった。
第三章 砕け散る星
それは、月さえも姿を隠す、真の闇夜だった。突如、夜空を切り裂いて、けたたましい警報が鳴り響いた。地鳴りのような轟音。それは、僕が絵本の中で描いてきた、どんなおどろおどろしい効果音よりも、ずっと現実的で、絶望的な響きを持っていた。
「空襲だ!」
旅館の主人の怒声に突き動かされ、僕は宿泊客や近所の人々と共に、裏庭にある防空壕へと転がり込んだ。土と汗と恐怖が入り混じった、むせ返るような空気。赤ん坊の泣き声と、大人の怒声、そして途切れ途切れの祈りの声。その全てを、地上から響く断続的な爆発音が蹂躙していく。
僕の隣で、小さな女の子が母親の腕の中でブルブルと震えていた。昼間、僕に話しかけてきた旅館の娘さんだった。彼女は、僕が描いた英雄の小さなマスコットを、掌が白くなるほど強く握りしめている。
「こわい……こわいよぉ……」
「大丈夫。大丈夫よ」
母親がそう繰り返すが、その声もまた震えていた。女の子は、僕の顔を見上げた。恐怖に歪んだその瞳が、僕に助けを求めていた。
「せんせい……星の兵士さんみたいに、お父ちゃんも、空の怪物をやっつけてくれるよね……?」
彼女の父親は、南の島で戦っているのだと、昼間に聞いたばかりだった。僕の喉は、乾いた土くれのようにひりついた。僕の描いた物語が、今、この少女の最後の希望になっている。僕は、その小さな期待を裏切ることなど、到底できなかった。
「あぁ、もちろんだとも。君のお父さんは、誰よりも強い英雄だ。きっと、悪い怪物をみんなやっつけてくれるさ」
僕がそう言うと、少女は少しだけ安堵したように、母親の胸に顔を埋めた。僕は、自分のついた嘘の重さに、奥歯を強く噛みしめた。
どれくらいの時間が経っただろうか。爆音の嵐が遠ざかり、代わりに不気味な静寂が訪れた。誰かが恐る恐る壕の戸を開けると、目に飛び込んできたのは、地獄そのものだった。
僕が昨日まで歩いていた穏やかな街は、炎と黒煙に包まれた瓦礫の海と化していた。見慣れたはずの風景は、その全てが暴力的に引き剥がされ、赤い空の下に無残な姿を晒している。
呆然と立ち尽くす僕の耳に、母親の絶叫が突き刺さった。見ると、旅館があったはずの場所は、巨大なクレーターのように抉られ、黒く焼け焦げた柱が数本、墓標のように突き立っているだけだった。
言葉を失い、ふらふらとそちらへ歩み寄った僕の足が、何かに躓いた。それは、焼け焦げ、半分泥に埋もれた、一冊の絵本だった。僕の『星の兵士』だ。そして、そのすぐ傍らに、見慣れない一枚の紙が落ちていた。敵国の飛行機が撒いた、プロパガンダのビラだろう。
僕は、震える手でそれを拾い上げた。そこに描かれていたのは、悪魔のような形相で、銃剣を振りかざす兵士の姿。その兵士が着ているのは、僕が描いた英雄と同じ、金色の鎧だった。そしてその足元には、泣き叫ぶ異国の子供たちの姿が描かれていた。
ビラの隅に、拙い文字で、こう印刷されていた。
『これが、あなたたちの英雄の本当の姿です。私たちの空にも、星は輝いています。私たちの子供たちも、絵本を読みます。答えてください。なぜ、私たちの星を砕くのですか?』
全身の血が、急速に凍りついていくのを感じた。
星の怪物。
僕がそう呼んでいたのは、一体、誰だったのか。
僕が描いた金色の英雄は、向こう側から見れば、こんなにもおぞましい悪魔だったのか。
あの『うそつき』という手紙。それは、僕の物語によって親を、故郷を奪われた、どこかの国の子供からの、血を吐くような叫びだったのかもしれない。
僕が紡いできた物語は、希望の光などではなかった。それは、憎しみを煽り、殺戮を正当化するための、甘い毒だったのだ。
がくりと、膝から崩れ落ちた。手にしたビラが、瓦礫の街の熱風に煽られて、カサカサと乾いた音を立てた。僕の信じてきた世界が、僕自身の手で描いた物語が、轟音と共に砕け散る音がした。
第四章 名もなき星のために
戦争は終わった。
僕らの国は負け、金色の英雄は、歴史の教科書からその姿を消した。僕は、ペンを折った。インクの匂いを嗅ぐだけで、吐き気がした。言葉も、色も、僕の中から全てが抜け落ちてしまったかのようだった。
僕は帝都には戻らず、あの焼け落ちた海沿いの街に留まった。親を失った子供たちを集めた粗末な施設で、ただ黙々と、瓦礫を運び、食料を分け与える日々を送っていた。子供たちは、もう『星の兵士』の話をしなかった。英雄を信じた末に全てを失った彼らの前で、僕に語れる言葉など、何一つなかった。
そんなある夜だった。配給の芋を分け合い、静まり返った施設の庭で、一人の少年が、満天の星空をじっと見上げていた。彼は、空襲で家族全員を亡くした子だった。
「……リョウさん」
少年が、ぽつりと言った。
「もう、空から怪物は来ないの?」
その純粋な問いが、僕の心の最も柔らかな部分を、鋭く抉った。僕はすぐには答えられなかった。長い、長い沈黙が流れた。夜風が、僕らの頬を撫でていく。
僕はゆっくりと空を見上げた。そこには、ただ無数の星々が、太古の昔から変わらず、静かに瞬いているだけだった。勝者も敗者もない。英雄も怪物もいない。ただ、圧倒的な数の、名もなき光の点が、そこにあるだけだった。
僕は、深く息を吸い込んだ。そして、何年かぶりに、物語を語るように、静かに口を開いた。
「いいかい。あの空にはね、英雄も怪物もいないんだ」
少年が、不思議そうに僕の顔を見た。
「空にいるのは、僕らには数えきれないほどの、たくさんの、小さな星たちなんだよ。一つ一つの星が、それぞれの場所で、一生懸命に光っている。どの星も、誰かにとっての大切な、かけがえのない光なんだ。遠すぎて、僕らには一つの点にしか見えないけれど、きっと、あそこにも僕らと同じような世界があって、誰かが誰かを、大切に想っている」
僕の言葉は、拙く、飾り気もなかった。けれど、それは僕の魂の底から湧き上がってきた、初めての本当の物語だった。
「だからね、大事なのは、どの星が一番強いかを決めることじゃない。自分の星が輝くために、他の星の光を消してしまうことでもない。ただ、遠く離れた星にも、自分と同じように美しい光があるんだって、静かに思いを馳せること。それだけなんだよ」
少年は、黙って僕の話を聞いていた。やがて彼は、もう一度空を見上げた。その瞳には、もう怯えの色はなかった。ただ、無数の星の輝きを、そのまま映しているかのように澄み切っていた。
それから、僕は二度と絵本を出版することはなかった。僕の名は、すぐに世間から忘れ去られた。
けれど、僕は夜ごと、瓦礫の街の片隅で、子供たちに物語を語り続けた。英雄が登場しない物語。勝ち負けのない物語。ただ、遠く離れた星々が、互いの光を静かに認め合い、夜空という一つの世界を共に創り上げている、そんな物語を。
それは誰にも知られることのない、僕だけの、ささやかな償い。
金色の英雄ではなく、名もなき無数の星屑のために捧げる、僕の本当の物語だった。