忘却の調律師

忘却の調律師

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第一章 失われたアリア

硝子の壁に囲まれた純白の部屋で、俺は他人の記憶に耳を澄ませていた。俺の職業は「音響記憶修復師」。人々が戦争の轟音の中で失ってしまった、あるいはトラウマによって歪められてしまった「音」を、記憶の深淵から拾い上げ、本来の響きに調律する仕事だ。

目の前の老婦人は、背を丸め、深く皺の刻まれた手を膝の上で固く握りしめている。彼女の依頼は、三ヶ月前の夜間空襲で亡くなった孫娘が、死の直前まで口ずさんでいたアリアをもう一度聞きたい、というものだった。彼女の記憶の中では、その歌声は爆撃の耳鳴りと建物の崩れる音に塗り潰され、不快なノイズと化してしまっている。

「始めます。リラックスしてください」

俺は静かに告げ、ニューラル・インターフェイスを起動した。老婦人のこめかみに装着されたセンサーが、微弱な脳波信号を読み取り、音響記憶の断層をモニターに映し出す。赤黒く表示されるのが、爆撃音のレイヤー。その下で、か細く震える青い線が、孫娘の歌声の残滓だ。

指先がコンソールの上を滑る。ノイズキャンセラーの周波数を調整し、衝撃音の波形を一つずつ削り取っていく。それは、瓦礫の中から壊れやすいガラス細工を掘り出すような、繊細で孤独な作業だった。数時間後、俺はついに、瓦礫の音の下に埋もれていた旋律の核を突き止めた。プッチーニの『私のお父さん』。まだ幼さが残る、少しだけ音程の外れたソプラノ。

俺はその声を抽出し、欠損した部分を予測アルゴリズムで補完し、温かみのあるリバーブを薄くかけた。完璧な「復元」ではない。むしろ、老婦人が聞きたかったであろう理想の歌声への「創作」に近い。

「……これで、どうでしょう」

ヘッドフォンを老婦人の耳にそっとかけると、彼女の乾いた瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。孫娘の歌声が、ノイズのない、澄み切った形で彼女の記憶に再び響き渡ったのだ。

「ああ……ありがとう、ございます……。あの子は、ここに……」

感謝の言葉が、俺の心に小さな棘を刺す。俺は偽りの平穏を売っているのではないか? 戦争の現実を美しい嘘で上塗りしているだけではないのか? そんな自問自答は、この仕事を始めてからずっと俺を苛んでいた。俺自身、幼い頃の空襲で、ピアニストだった母を失っている。あの日の爆音と煙の匂いは、今も俺の記憶にこびりついていた。だからこそ、音で心を救うこの仕事を選んだのだが。

老婦人が帰った後、部屋には静寂だけが残った。その沈黙を破ったのは、壁の通信パネルが放つ無機質な呼び出し音だった。ディスプレイに映し出されたのは、軍の紋章。

『リヒト・シュナイダー氏か。国家保安局より、特務への招集である。最重要捕虜の記憶から、機密情報を抽出してもらいたい』

それは、俺が今まで頑なに避けてきた種類の仕事だった。俺の技術は、人を癒すためにある。尋問の道具ではない。だが、非協力は利敵行為と見なされる、という相手の言葉は、拒絶の余地を完全に奪っていた。俺は、硝子の壁に映る自分の無表情な顔を見つめながら、静かに頷くしかなかった。

第二章 敵国のノイズ

翌日、俺が連行されたのは、都市の地下深くに広がる無機質な軍事施設だった。分厚い鋼鉄の扉の先、殺菌灯の青白い光に照らされた部屋に、その男はいた。敵国の中佐、エリアス。それが、俺が対峙する捕虜の名前だった。

彼は簡素なパイプ椅子に無気力に座り、虚空を見つめていた。数日前の戦闘で捕らえられた際、至近距離で起きた爆発のショックで、完全に心を閉ざしてしまったらしい。言葉を発さず、食事もほとんど摂らない。軍の尋問官たちは、彼の記憶に眠る次の攻撃計画を引き出せずにいた。

「彼の意識は、爆音のトラウマによって形成された『壁』の内側に閉じこもっている」と、同行した軍医が説明した。「君の仕事は、その壁を音響的に解体し、我々が必要とする『会話』のデータを復元することだ」

俺は黙って頷き、エリアスのこめかみにセンサーを取り付けた。抵抗はなかった。彼はまるで魂の抜けた人形のようだった。インターフェイスを起動すると、彼の記憶の海は、俺が今まで見てきたどんなものよりも荒れ狂っていた。

モニターに映し出されたのは、混沌そのものだった。銃声、怒号、金属の軋む音、そして全てを塗り潰す爆発音。それらが巨大なノイズの塊となり、彼の意識全体を覆い尽くしている。自分のトラウマが共鳴し、冷たい汗が背中を伝った。これは、ただの修復作業ではない。嵐の海に、丸裸で飛び込むようなものだ。

俺は慎重にフィルターを重ね、ノイズの層を一枚ずつ剥がしていく。軍が求めるのは、作戦会議や部下への指示といった「言葉」の音だ。しかし、いくら探っても、意味のある会話の断片は見つからない。彼の記憶は、ただひたすらに、暴力的な音で飽和していた。

何時間経っただろうか。疲労が限界に達した頃、俺はノイズの嵐の奥に、異質な音の揺らぎを見つけた。それは軍事情報とは到底思えない、穏やかで静かな音だった。風が木の葉を揺らす音。遠くで聞こえる、幼い子供の甲高い笑い声。そして……ピアノのメロディ。

そのメロディは、嵐の中の避難所のように、彼の記憶の片隅でひっそりと鳴り続けていた。それはどこか懐かしく、悲しい響きを持つ旋律だった。軍が血眼で探している情報よりも、エリアスという人間が必死に守ろうとしているのは、こちらの音なのではないか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。俺は、軍の監視の目を盗み、そのピアノの音の源流へと、さらに深く意識を潜らせていった。

第三章 不協和音のレクイエム

ピアノの旋律を追う旅は、困難を極めた。それはエリアスの記憶の最深部にあり、幾重もの恐怖と絶望のノイズに守られていたからだ。だが、俺はなぜかそのメロディを知っていた。デジャヴではない。それは、俺の記憶の底で鳴り響き続けている、決して忘れることのできない音だった。

ついに旋律の核にたどり着いた瞬間、俺は息を呑んだ。全身の血が凍りつくような感覚。モニターに映し出された楽譜のイメージと、俺自身の記憶が、恐ろしい精度で一致した。

それは、ピアニストだった母さんが作曲した、未発表の曲だった。彼女がよく、空襲警報が鳴り響く夜に、俺を安心させるために弾いてくれた、俺と母さんだけの秘密の旋律。

なぜ、この敵国の男が、この曲を知っている?

混乱する頭で、俺は軍の命令を完全に逸脱し、全ての処理能力をその一点に集中させた。ピアノの音が記録された、その瞬間の情景を復元する。モニターの映像が、ノイズの中からゆっくりと像を結んでいく。

そこは、爆撃機のコックピットだった。計器類の無機質な光が、若いパイロットの横顔を照らしている。そのパイロットこそ、目の前で虚空を見つめている男、エリアスだった。ヘッドセットから、地上の管制官の指示が聞こえる。そして、その通信に混じって、微かに、ピアノの音が流れ込んできていた。誰かの家の窓から漏れたのだろうか。静かで、あまりにも美しい、場違いな旋律。

エリアスの指が、一瞬、操縦桿の上でためらうのが見えた。彼の瞳に、一瞬の葛藤がよぎる。しかし、彼は首を振り、命令通りに、投下スイッチを押した。

カメラの視点が切り替わる。地上へ。急降下する爆弾の視点だ。見慣れた街並み。そして、俺がかつて住んでいた家。窓から、ピアノを弾く母さんのシルエットが見える。

――やめろ。

声にならない叫びが、俺の喉から漏れた。

次の瞬間、世界は閃光と轟音に包まれた。母さんのピアノの音も、家の形も、俺の日常も、全てが巨大な火球の中に消えていった。

全てを理解した。目の前の男、エリアスは、俺の母を、俺の家族を殺した爆撃機のパイロットだったのだ。彼が心を閉ざしたのは、爆撃の衝撃だけが理由ではなかった。彼が破壊してしまったあの美しいピアノの音、その罪の意識が、彼の魂を内側から蝕んでいたのだ。

俺はインターフェイスを乱暴に外し、椅子から転げ落ちた。憎悪と悲しみが、濁流のように俺の全身を駆け巡る。この男は、俺の仇だ。軍に突き出せば、彼は死刑になるだろう。それが当然の報いだ。

だが、同時に分かってしまった。彼もまた、あの日の音に囚われた、もう一人の犠牲者なのだということを。俺たちが共有していたのは、憎しみだけではなかった。一つの同じ旋律によって結ばれた、癒しようのない喪失感だった。俺と仇敵は、不協和音のレクイエムの中で、固く結ばれていた。

第四章 沈黙のフーガ

調律室の冷たい空気が、燃え上がるような俺の感情をわずかに冷ましてくれた。監視モニターの向こう側で、軍の上官が結果を催促している。復讐か。それとも、何か別の道があるのか。俺の指は、震えながらもコンソールの上に置かれていた。

憎しみは消えない。母の最期の音を、この男は断ち切った。その事実は変わらない。だが、この男を断罪したところで、母のピアノは戻ってこない。俺の心に空いた穴も埋まらない。ただ憎しみの連鎖が一つ増えるだけだ。戦争という巨大な不協和音が、また一つ、悲劇の旋律を奏でるだけなのだ。

俺は、決断した。

深く息を吸い、最後の調律を開始した。俺はまず、エリアスの記憶の中から、軍が血眼で探している作戦会議の音声を断片的に集め、AIで再構成した。もっともらしい、しかし核心部分を微妙に偽造した機密情報を作り上げ、提出用のデータとして保存する。

そして、俺は彼の記憶の最も深い場所、あの聖域であり、呪いでもあった領域にアクセスした。

俺は、彼の記憶から、あの日の爆撃の轟音を、完全に消去した。

そして、俺の母が弾いていたピアノの旋律も、綺麗に消し去った。

全ての罪悪感の源を、俺は彼の心から摘出したのだ。

代わりに、俺は彼の記憶の片隅にあった、あの穏やかな音を増幅させた。風が木の葉を揺らす音。幼い子供たちの、屈託のない笑い声。俺はそれらの音を、彼の意識全体を満たす、静かで優しい環境音へと「調律」した。

それは、復讐ではなかった。赦しでもない。赦すことなど、到底できはしない。これは、俺にしかできない、たった一つの行為。戦争が生み出した二つの歪んだ魂を、それぞれの場所に戻すための、最後の「忘却の調律」だった。

「終わりました」

俺が上官に報告すると、彼らは早速、俺が偽造したデータを再生し、満足げに頷いた。エリアスはもう用済みだとばかりに、部屋から連れ出されていく。すれ違いざま、彼の瞳が、一瞬だけ俺を捉えた。そこにはもう、かつての虚無も苦悩もなかった。ただ、生まれたての赤子のような、穏やかで、空っぽの静けさだけが広がっていた。

数日後、エリアスは捕虜交換で、記憶を失ったまま静かに故国へ送還されたと聞いた。

俺は軍を辞し、硝子張りの調律室に戻った。だが、もう二度と、他人の記憶の音に触れることはなかった。偽りの平穏を作り出す仕事は、もう終わりだ。これからは、この静寂の中で生きていく。憎しみも、悲しみも、母のピアノの音も、全てをこの沈黙の中に抱きしめて。

窓の外で、また空襲警報のサイレンが鳴り響く。かつては恐怖の象徴だったその音が、今の俺には、まるで新しい交響曲の始まりを告げるファンファーレのように聞こえていた。世界から音が消えることはない。だが、どの音を聞き、どの音と向き合うかを選ぶことはできる。俺は静かに瞳を閉じ、鳴り響くサイレンの向こう側にある、まだ聞こえない未来の音に、じっと耳を澄ませていた。

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