きみが聴いていた、夏影のレゾナンス

きみが聴いていた、夏影のレゾナンス

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第一章 錆びた音色の不協和音

葉山湊(はやまみなと)の世界は、人よりも少しだけ、うるさかった。幼い頃から、彼は人の強い感情、特に後悔や未練といった澱(おり)のような想いを、「音」として聴くことができた。それは呪いにも似た共感覚で、満員電車は不協和音の洪水だったし、卒業式は寂寥感の通奏低音で満ちていた。だから湊は、いつしかイヤホンを耳の奥に押し込み、他人との間に意識的な壁を作ることで、かろうじて心の平穏を保っていた。

そんな湊にとって、月島凪(つきしまなぎ)は唯一の例外だった。

凪は、湊の世界における静寂そのものだった。快活で、誰にでも屈託なく笑いかける彼女の周りだけは、いつも不思議なほどノイズがなかった。まるで春の陽だまりのような、穏やかで澄んだ音がする。だから湊は、彼女の隣にいるのが好きだった。美術部に所属し、いつもスケッチブックを小脇に抱えている彼女と、屋上で弁当を食べる昼休みが、湊にとっての安息の時間だった。

その均衡が崩れたのは、高校二年の夏が、じっとりとした熱気を孕んで始まった日のことだ。

昼休みの屋上。茹だるようなコンクリートの上で、湊はいつものように凪と並んで座っていた。凪は、新しいクリームソーダ味のグミを差し出し、「これ、当たりだよ」と笑う。その笑顔はいつもと同じ。なのに、湊の耳には、はっきりと聴こえていた。

キィ……コォン、キィ……コォン。

古びて錆びついたブランコが、誰にも漕がれずに揺れているような、寂しくて、ひどく懐かしい音。それは間違いなく、凪の中から発せられていた。これまで一度も聴いたことのない、心を掻き乱す不協和音。それは湊が最も苦手とする、深く沈んだ後悔の音色だった。

「凪、何かあった?」

思わず口から出た言葉に、凪はきょとんと目を丸くした。

「え、何が? いつも通りだよ」

彼女はそう言って、またグミを一つ口に放り込む。その横顔は完璧に「いつも通り」だった。だが、音は消えない。むしろ、湊が意識を向けるほどに、その軋みは大きく、鋭く鼓膜を刺した。まるで、見つけてほしくないと叫んでいるかのように。

湊はイヤホンに手を伸ばしかけたが、すんでのところで思いとどまった。これは聴かなければいけない音だ。彼女が必死に隠している心の悲鳴を、世界でただ一人聴くことができる自分が、無視していいはずがない。

じりじりと太陽が肌を焦がす屋上で、蝉の声に混じって鳴り響く錆びたブランコの音を聴きながら、湊は決意した。この夏、自分は凪の心の奥に潜む、この音の正体を突き止めなければならない、と。それは、唯一の安息をくれた彼女への、自分なりの誠意のつもりだった。

第二章 スケッチブックの海景

凪から聴こえる不協和音は、日を追うごとにその存在感を増していった。授業中、ふと彼女に視線を向けると、窓の外を眺める横顔から、キィ、と鋭い音がする。湊が声をかけると音は一瞬鳴り止むが、彼女が作り笑いの下に本心を隠した瞬間、また静かに鳴り始める。まるで、彼女の心の天気を知らせる警報のようだった。

湊は凪を注意深く観察するようになった。彼女が何に悩み、何を後悔しているのか。その手がかりを探して、彼はストーカーまがいの行為に罪悪感を覚えながらも、視線で彼女を追い続けた。

変化は、彼女がいつも持ち歩いているスケ-ッチブックに現れていた。美術部の彼女は、暇さえあれば何かを描いている。以前は、道端の猫や、教室の窓から見える雲の形、人物のクロッキーなど、その対象は様々だった。だが、あの音が聴こえ始めてから、彼女は執拗に同じモチーフを描き続けていた。

海だ。

ある日の放課後、美術室を通りかかった湊は、イーゼルに向かう凪の背中を見つけた。彼女は一心不乱に、鉛筆で波のうねりを描いている。描いては消し、消しては描く。そのたびに、湊の耳には例のブランコの音が、波音のように寄せては返した。

「凪、また海の絵?」

声をかけると、凪はびくりと肩を震わせ、慌ててスケッチブックを閉じた。

「湊か……びっくりした。うん、なんか、うまく描けなくて」

「見せてくれないか」

「だめ。まだ全然だから」

彼女は頑なにスケ-ッチブックを胸に抱え、気まずそうに視線を逸らす。そのページに、音の正体を解く鍵が隠されている。湊はそう直感した。彼女の後悔は、きっと海に関係している。誰かとの悲しい別れがあったのかもしれない。あるいは、取り返しのつかない失敗をしたのかもしれない。

湊の心は焦りで満たされた。自分のこの特殊な能力は、これまで良い結果を生んだことがない。小学生の頃、いじめられていた同級生から聴こえる悲鳴のような音に耐えきれず、「お前、本当は辛いんだろ」とクラス全員の前で言ってしまったことがある。善意のつもりが、彼のプライドを深く傷つけ、彼は転校してしまった。あの時の、軽蔑と憎悪に満ちた目が忘れられない。

他人の心に土足で踏み込むことの恐ろしさ。それでも、凪を放ってはおけなかった。彼女のいない静寂の世界など、湊にはもう考えられなかったからだ。

夏休みが目前に迫った終業式の日。湊は意を決して凪を呼び止めた。

「凪。今度の休み、海に行かないか」

凪は一瞬、息を呑んだように見えた。彼女の中から聴こえる軋み音が、最大音量に達する。だが、彼女はすぐにいつもの笑顔を取り繕い、小さく頷いた。

「うん、いいよ。行こう、海」

その声は、なぜか少しだけ、震えているように湊には聴こえた。

第三章 共鳴するサイレンス

潮の香りが、熱いアスファルトの匂いと混じり合って鼻腔をくすぐる。バスを降りて、松林を抜けると、目の前にどこまでも広がる青が突きつけられた。じりじりと照りつける太陽が、白い砂浜を眩しく反射している。夏休み、平日の昼下がり。まばらな人影と、遠くに響く波の音。

凪は、砂浜に立つと、ただ黙って水平線を見つめていた。彼女の隣に立つ湊の耳には、相変わらずあの錆びたブランコの音が、波のリズムに合わせて不気味に響いている。

「凪」

湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。今、ここで、すべてを話さなければならない。

「俺には、人の後悔が音になって聴こえるんだ」

凪は驚いたように湊を見た。その瞳が、わずかに見開かれる。

「君から、ずっと音が聴こえる。錆びたブランコみたいな、悲しい音だ。この海に、何か関係があるんじゃないのか? 俺でよければ、話してほしい」

過去のトラウマが蘇る。また、間違えてしまうかもしれない。拒絶されるかもしれない。だが、湊は凪の瞳をまっすぐに見つめ返した。

沈黙が落ちる。波の音と、ブランコの軋む音だけが世界を支配していた。やがて、凪はゆっくりと口を開いた。

「……そっか。やっぱり、湊には聴こえてたんだね」

その声は諦観と、どこか安堵を含んでいた。

「私のせいじゃないんだ」と、彼女は言った。「私が後悔してるんじゃない。でも、その音の理由は、たぶん、知ってる」

凪は持っていたスケッチブックを開き、湊に差し出した。そこには、何度も描き直された、鉛筆の跡が生々しい海の絵があった。荒々しい波が、今にも絵の中から溢れ出してきそうだ。

「これは、私が視た風景。湊、あなたの心の中の風景だよ」

「……え?」

湊は言葉を失った。凪は続けた。

「私にも、ちょっと変わったところがあってね。人の強い感情が、具体的な風景として視えることがあるの。湊が私と一緒にいる時、いつもこの海の風景が視えてた。最初は穏やかだったんだけど、最近、どんどん荒れてきて……。だから、どうにかしてこの風景を描き出すことで、あなたの心を少しでも軽くできないかなって、必死だったんだ」

湊は、凪が差し出すスケッチブックと、彼女の真剣な顔を交互に見た。頭が真っ白になる。俺の、心の中の風景?

その瞬間、忘却の彼方に沈めていた記憶の蓋が、勢いよく開いた。

幼い頃、家族で来たこの海。少しだけ目を離した隙に、幼い弟が波に攫われた。必死で海に飛び込み、ずぶ濡れで震える弟を抱きしめた時の、自分の無力さと罪悪感。幸い弟に大事はなかったが、あの時の恐怖と後悔は、湊の心の奥底に、鉛のように沈んでいたのだ。そして、あの事故が起きた場所は、海辺の公園のすぐそばだった。そこには、古びて赤く錆びついたブランコが、ぽつんと一つだけあった。

あの音は、凪の後悔じゃない。俺自身の後悔の音だったのか。

凪は、俺が発する悲鳴を、その共感覚で「風景」として受け止め、それをどうにか鎮めようと、ずっと描き続けてくれていた。俺が彼女を心配していたつもりが、本当はずっと、彼女に心配され、守られていたのだ。

「ごめん……」

湊の口から、か細い声が漏れた。

「俺、ずっと自分のせいだと思ってた。この能力のせいで、人を傷つけて、嫌な思いばかりしてきたから。君のことも、俺が勝手に……」

「ううん」凪は、静かに首を振った。「湊が気づいてくれて、よかった。一人で抱え込んでいる湊を視るのが、一番つらかったから」

その言葉が、湊の心の壁を、音もなく溶かしていった。彼は初めて、誰かに自分の弱さを、ありのままにさらけ出すことができた。弟のこと、能力への呪詛、孤独だった日々。凪はただ黙って、彼の言葉という名の濁流を受け止めてくれた。

湊がすべてを語り終えた時、ふと、世界が信じられないほど静かになっていることに気づいた。あれほど執拗に鳴り響いていたブランコの音が、綺麗に消え去っている。生まれて初めて体験する、完全な静寂。それは、凪がくれた、何よりの贈り物だった。

夕陽が水平線を茜色に染め始めていた。湊は、凪に言った。

「ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」

自分の能力は、呪いではなかったのかもしれない。それは、誰かの痛みを分かち合ったり、誰かと深く繋がったりするための、特別な感受性なのかもしれない。凪と出会って、湊は初めてそう思えた。

凪は、嬉しそうに微笑むと、スケッチブックの新しいページを開いた。

「ねえ、湊」

彼女が、いたずらっぽく尋ねる。

「今度は、どんな風景が視えると思う?」

湊は、凪の隣で、燃えるような夕焼けに染まる海を見つめた。凪の心は、きっとこの夕陽のように、穏やかで、暖かくて、そして力強い色をしているのだろう。

「きっと、すごく綺麗な色だと思うよ」

湊は、心からの笑顔でそう答えた。二人の影が、夏の終わりの砂浜に、長く、寄り添うように伸びていた。もう、そこに不協和音は聴こえなかった。

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