クロノスタシスの残光
第一章 色褪せた世界の観測者
俺の目には、世界から忘れ去られた色が視える。
放課後の教室、夕陽に照らされた窓際の席。そこには、誰もいないはずなのに、淡い向日葵色が揺らめいていた。昨日までそこにいたはずの、快活な笑顔の転校生の記憶。今やクラスの誰もが、その席が最初から空席だったかのように振る舞っている。だが俺には視えるのだ。彼女が最後に残した、眩しすぎる青春の残光が。
この能力は祝福ではない。呪いだ。他者の輝きを拾い集めるたび、俺自身の記憶が砂のようにこぼれ落ちていく。幼い頃に両親と笑い合った夏祭りの夜も、初めて自転車に乗れた日の高揚感も、今では輪郭のぼやけたセピア色の絵画のようだ。喪失と引き換えに、俺は忘れられた物語の唯一の観測者となる。
手元には、一冊の古びたノートがある。空白のページだけで構成された、かつて『交換日記』だったもの。持ち主だったはずの俺には、誰と何を交わしていたのか、もう思い出せない。だが、街で忘れられた「色」を見つけるたび、このノートのページに、俺にしか見えないインクでその記憶の断片がひとりでに刻まれていく。
『屋上で食べた、半分このアイス。ソーダ味』
『雨上がりの図書室。濡れた髪の匂い』
そんな断片の中に、いつも一つだけ異質な筆跡が混じっている。他のどのインクよりも鮮やかで、決して色褪せることのない、未来の自分のものだと直感でわかる筆跡だ。
そして俺は、ずっと探している色があった。他のどんな忘れられた輝きとも違う、心を締め付けるほどに懐かしく、そして切ない、あの特別なアクアマリンの色を。
第二章 セピア色の邂逅
「ねえ、君、いつも何見てるの?」
声をかけてきたのは、一つ下の後輩、海(うみ)だった。彼女の瞳は、俺が探し求める色によく似た、澄んだアクアマリンをしていた。彼女はいつも、退屈そうな顔で世界を眺める俺の隣に、当たり前のように座った。
「失われた色を、探してる」
「ふぅん、厨二病? でも、嫌いじゃないよ、そういうの」
海と過ごす時間は、色褪せた俺の世界に、僅かながら彩りを与えた。彼女は俺を古い映画館に連れ出し、レコード屋で埃をかぶったジャケットの匂いを教え、屋上でぬるいサイダーを飲みながら、他愛もない未来の話をした。そんな時間があまりにも心地よくて、俺は忘れていたのだ。この世界の残酷な法則を。
彼女の笑顔が輝けば輝くほど、俺の記憶の喪失は加速した。交換日記のページが、見たこともない青春の記憶で急速に埋まっていく。そして、俺が最も恐れていたことが起きた。日記に浮かび上がる「未来の自分の筆跡」が、海との会話と重なり始めたのだ。
『大丈夫。君は独りじゃない』
その鮮やかな文字を見た瞬間、心臓が凍りついた。これは警告だ。この輝きも、いずれ忘れ去られる。海という存在が、この世界から消えてしまう。そして、その輝きを最後に記憶するのは、この俺なのだ。
第三章 残光のゆくえ
その日は、雨上がりの夕暮れだった。文化祭の準備で誰もいなくなった校舎の屋上。フェンスの向こう、街の灯りが滲み始める空を、俺と海は並んで眺めていた。
「ねえ、覚えてる? 初めて会った日、君は言ったよね。『失われた色を探してる』って」
海が不意に切り出した。彼女の横顔が、茜色の光に染まっている。
「もし、私の色が世界から消えちゃったら、君だけは覚えててくれる?」
その言葉は、予言だった。彼女は悪戯っぽく笑い、フェンスに預けていた身体を起こすと、くるりと俺の方を向いた。その瞳が、夕陽の最後の光を吸い込んで、宝石のようにきらめく。
「君と出会えてよかった。私の青春、結構いい色だったでしょ?」
その瞬間、世界から音が消えた。海から放たれた強烈なアクアマリンの光が、俺の視界を焼き尽くす。あまりにも純粋で、あまりにも切ない、青春の極致。世界の法則が、無慈悲に彼女の記憶を世界から剥奪していく。
「やめろッ!」
俺は叫んだ。
「忘れるな! 海は、ここに、いたんだぞ!」
声は誰にも届かない。隣のクラスの生徒が、怪訝な顔で俺を通り過ぎていく。まるで、最初から俺が一人でここにいたかのように。そして、俺がずっと追い求めていた『特別な色』が、まさに目の前の彼女から放たれたその光そのものであることに気づいた。光は、逃れる間もなく俺の胸に吸い込まれていく。ああ、そうか。俺は墓標だったのか。忘れられた全ての青春が、還る場所。
第四章 君が遺した色
全てを悟った時、俺の内の世界は静まり返っていた。俺が追い続けたアクアマリンは、未来の俺が海と過ごし、いずれ失うはずだった記憶の色そのものだったのだ。過去の俺は、未来の自分からのSOSを受け取り、この輝きを無意識に探し続けていた。
俺自身の過去の記憶は、ほとんどがもう色褪せて思い出せない。だが、それでよかった。この空っぽの器に、忘れられた誰かの輝きが満ちていくのなら。
ふと、手に持ったままだった交換日記に視線を落とす。ページは、海との記憶で埋め尽くされていた。そして、最後の空白のページ。そこに、あの色褪せない未来の自分の筆跡が、力強く刻まれていた。
『ありがとう。君が諦めなかったから、この記憶だけは消えなかった』
その文字を見た途端、涙が溢れた。失われたはずの海との記憶は、過去から未来の俺へと受け継がれ、そして今、現在の俺の心に、決して消えない「特別な色」として鮮やかに刻み込まれたのだ。それはもはや、忘れられた青春の残光ではない。未来を照らす、希望の光だった。
俺はこれからも、忘れられた色を集め続けるだろう。それは孤独な旅路に違いない。だが、もう独りではない。この胸に灯る、鮮やかなアクアマリンの光と共に。
世界が忘れた空の色を、僕はこれからも憶えている。