第一章 虹色の転校生
僕、水野蒼(みずの あお)の世界は、色で溢れている。ただし、それは風景や物の色だけじゃない。人の感情が、オーラのような曖昧な輪郭をもって色として見えるのだ。喜びは陽だまりのような黄色、怒りは燃え盛る炎の赤、悲しみは深く沈む藍色。物心ついた頃から当たり前の光景だったそれは、僕にとって世界の真実だった。
そして僕は、自分の色が嫌いだった。僕から立ち上るのは、いつも雨雲のような、くすんだ灰色の混じった青色。コンプレックスや自己嫌悪、漠然とした憂鬱。十七歳の僕を構成する感情は、どうしようもなく淀んでいた。だから僕は、人との関わりを避け、美術室の隅でキャンバスに向かうことを選んだ。絵の具を混ぜ合わせ、他人の鮮やかな色を再現している時だけ、自分のくすんだ青を忘れられたから。
そんな灰色の日々に、彼女は現れた。
二学期の初日、教室に紹介された転校生、月島光(つきしま ひかり)。黒曜石のような瞳に、さらりとした長い髪。彼女が「よろしくお願いします」と微笑んだ瞬間、教室中の空気が変わった。誰もが放つ期待や好奇心の暖色系のオーラが、一斉に彼女へと向かう。
だが、僕が息を呑んだのは、彼女自身が放つ色だった。
それは、僕が今まで一度も見たことのない色だった。特定の色ではない。赤、青、黄、緑…あらゆる色が、シャボン玉の表面のように淡く溶け合い、きらきらと輝きながら揺らめいている。それはまるで、小さな虹をその身にまとっているかのようだった。
完璧な調和。一点の濁りもない、光そのもののようなオーラ。僕のくすんだ青とは対極にある、絶対的な肯定の色。
僕は、一瞬で心を奪われた。
月島光。その虹色の輝きは、僕の世界を根底から覆す、あまりにも鮮烈な事件だった。
第二章 キャンバスに描けない色
光は、あっという間にクラスの中心になった。誰にでも分け隔てなく優しく、その穏やかな微笑みは周りの空気を和ませた。彼女の周りには、いつも楽しげな黄色のオーラや、尊敬の念を示す紫がかったオーラが渦巻いていた。そして彼女自身は、常にあの美しい虹色を保ち続けていた。
僕は勇気を振り絞り、美術部への入部を勧めた。「君の色を描いてみたいんだ」と、ほとんど告白に近い言葉で。光は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。
部室で並んで座る日々が始まった。イーゼルの前に座る彼女は、窓から差し込む午後の光を浴びて、神々しいほどに美しかった。僕は何度も彼女の「虹色」をキャンバスに再現しようと試みた。しかし、どうしても描けなかった。パレットの上でどんなに色を混ぜても、あの透明感と、絶えず移ろう光の粒子のような輝きは生まれない。僕の絵の具は、彼女の色の前ではただの濁った染みにしかならなかった。
「すごいね、蒼くん。私の何が見えてるの?」
ある日、彼女が僕のパレットを覗き込みながら尋ねた。
「きらきらしてて、虹みたいなんだ。世界で一番、きれいな色だよ」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ寂しそうな、それでいて安堵したような、不思議な表情を浮かべた。その時も、彼女のオーラは完璧な虹色のまま、微動だにしなかった。
奇妙な違和感は、その頃から少しずつ積もっていった。
体育祭でクラスが優勝した時も、皆が達成感に満ちたオレンジ色のオーラを放つ中で、彼女の色は変わらなかった。親友と喧嘩をしたらしい女子生徒が、悲しみの青色を滲ませながら彼女に相談している時も、彼女は優しく話を聞いていたが、そのオーラは静かな虹色のままだった。
感情とは、波だ。喜びも悲しみも、潮の満ち引きのように揺れ動くはずだ。なのに、彼女の感情の色は、凪いだ海のように常に一定だった。完璧すぎるその調和は、かえって不自然に思えた。まるで、精巧に作られたガラス細工のようだ。美しいけれど、血が通っていない。僕の胸の中で、憧れと一緒に、正体不明の小さな棘が育ち始めていた。
第三章 プリズムの告白
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。美術室の窓ガラスを叩く雨音が、やけに大きく聞こえる。コンクールに出品する絵が、ようやく完成に近づいていた。モデルはもちろん、光だ。結局、彼女の虹色を描くことは諦め、僕は僕なりに感じた彼女の光を、白い絵の具を幾重にも重ねることで表現しようとしていた。
事件が起きたのは、放課後のことだった。僕が完成したキャンバスを運び出そうとした時、足を滑らせた他の部員が、僕にぶつかった。僕の手から滑り落ちたキャンバスは、無情にもイーゼルの角に突き刺さり、中心部分が大きく裂けてしまった。
一瞬の静寂。やがて、絶望が僕の全身を支配した。僕のオーラが、今までで最も濃く、暗い、インクをぶちまけたような青黒色に染まっていくのが自分でも分かった。周囲の部員たちから、同情の青や、申し訳なさを示すくすんだ緑のオーラが立ち上る。
そのカオスの中で、僕は光を見た。僕のすぐ隣にいた彼女を。
彼女は、裂けたキャンバスと僕の顔を交互に見て、悲しそうな顔をしていた。しかし、僕の目に映る彼女のオーラは――何も変わっていなかった。いつもの、あの美しい虹色のままだった。何の感情の揺らぎも、色の変化もない。まるで、嵐の中で静かに佇む灯台のように。
「どうして」
僕の口から、か細い声が漏れた。
「どうして、君の色は変わらないんだ…? 僕がこんなに…悲しいのに」
僕の言葉に、美術室の空気が凍りつく。光は、目を見開いた。その完璧な仮面が、初めて微かにひび割れたように見えた。
彼女は僕の手を掴むと、人気のない廊下へと連れ出した。彼女の指先が、氷のように冷たいことに気づいた。
「ごめんなさい」
光は俯いたまま、絞り出すように言った。
「私には…色がないの」
「え…?」
「生まれた時から、私には感情の色がないの。嬉しいとか、悲しいとか、そういうのが、よく分からない。みんなが笑うから笑って、みんなが泣くから悲しい顔をする。ただ、それだけ」
僕は言葉を失った。彼女が続けた。
「私のこの色はね、本当の色じゃない。プリズムみたいなものなの。周りの人の感情の色を受けて、それを反射してるだけ。蒼くんが見ていた虹色は、私の周りにいるみんなの色の寄せ集め。万華鏡みたいに、きれいに見えるでしょう? でも、中心は空っぽなの。何もないのよ」
衝撃だった。僕が憧れ、焦がれたあの完璧な虹色は、彼女自身の感情ではなかった。それは、彼女の「空虚」が映し出す幻影だったのだ。僕が「完璧な調和」だと思っていたものは、感情の「完全な欠如」の証だった。僕の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。目の前にいるのは、虹色の女神なんかじゃない。誰よりも孤独で、色のない世界を一人で生きている、ただの少女だった。
第四章 きみのための青
廊下の窓から見える空は、いつの間にか雨が上がり、灰色の雲の隙間から頼りない光が差し込んでいた。光の告白は、僕の心を激しく揺さぶった。憧れの対象が崩れ去った喪失感と、彼女が抱える途方もない孤独への共感が、ぐちゃぐちゃに混ざり合った。
僕は今まで、彼女を「虹色」という記号でしか見ていなかったことに気づいた。その色の奥にある、彼女自身の痛みや、必死に普通を装う健気さを見ようともしなかった。
同時に、僕は自分の色について考えていた。ずっと嫌悪してきた、このくすんだ青色。この憂鬱や悲しみは、紛れもなく僕自身のものだ。痛みを感じられること、色を持っていること。それは、なんて人間らしく、そして尊いことだったのだろう。
僕は裂けたキャンバスのことなど、もうどうでもよくなっていた。
「そっか…」
僕はゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、僕の色を、君にあげる」
光が驚いて顔を上げる。その黒曜石の瞳が、雨に濡れたように潤んでいた。
「僕のこの青色は、憂鬱で、かっこ悪い色だけど。でも、悲しいって感じられる色なんだ。夕焼けを見てきれいだって思うと、少しだけオレンジが混ざる。君と話してると、嬉しい黄色が生まれる。そういう、僕が見た色、感じた色を、これからは全部君に教える。君が君だけの色を見つけるまで、僕の色を半分、君にあげるから」
僕の言葉に、光の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。それは、演技ではない、本物の涙だった。
そして、僕は見た。
彼女の周りで常に輝いていた虹色のオーラが、ふっと掻き消えるのを。まるで魔法が解けたように。そして、その空っぽになった空間に、ほんの僅か、小さな灯火のような、淡い、淡い色が生まれたのを。
それは、まだ名前のない、何色とも呼べないほど不確かで、儚い色だった。けれど、それは間違いなく、彼女の内側から生まれた、初めての本物の色だった。温かい、光の欠片のような色だった。
僕たちは、それからゆっくりと関係を築いていった。僕は、僕の世界に見える色のすべてを彼女に語った。雨上がりのアスファルトの匂いや、夏の入道雲の形、子猫の柔らかな毛の感触。僕の言葉を聞くたびに、彼女の周りには、少しずつ、新しい色の芽が生まれては、はにかむように揺れた。
僕のオーラは、相変わらず青が基調のままだった。でも、もうその色を嫌だとは思わなかった。この青があるからこそ、僕は他人の痛みを想像できる。この青があるからこそ、光の隣にいる意味を見出せたのだから。
卒業の日、僕たちは並んで校門をくぐった。彼女の周りには、もうあの偽物の虹色はない。代わりに、パステルカラーの絵の具を少しずつ混ぜ合わせたような、柔らかく、名付けようのない色彩が、春の陽光の中で優しく揺れていた。それは、誰の目にも見えない、僕と彼女だけの、新しい世界の始まりの色だった。