第一章 未来を描く転校生
高校二年の夏、僕、水島航の世界は、茹だるようなアスファルトの熱気みたいに、ただ退屈で平板だった。所属する写真部も、シャッターを切る瞬間の高揚感などとうに忘れ、惰性で時間を潰すための隠れ蓑でしかない。ファインダー越しに見える世界は、どれもこれも色褪せて見えた。
そんな灰色の日常に、彼が現れたのは、蝉時雨が耳に痛い七月の初めのことだった。
「月島凪(つきしまなぎ)」。東京からの転校生だと、担任は気怠そうに紹介した。色素の薄い髪に、どこか遠くを見つめるような儚げな瞳。現実感が希薄で、まるで陽炎の中から歩み出てきたような少年だった。
彼との最初の接触は、その日の放課後、立ち入り禁止の屋上で起きた。錆びたフェンスに寄りかかり、街をぼんやりと眺めていた僕の背後から、不意に声がした。
「いいカメラだね」
振り返ると、月島凪が立っていた。手にはスケッチブックを抱えている。
「……ああ」
ろくに返事もせず、僕は再び街に視線を戻した。気まずい沈黙が流れる。それを破ったのは、またしても彼だった。
「未来は、撮れると思う?」
突拍子もない質問に、僕は眉をひそめた。「は?」
「だから、未来。これから起こること。写真に収められたら、面白いと思わない?」
凪は悪戯っぽく笑う。その笑顔は、彼のミステリアスな雰囲気を少しだけ和らげていた。
「馬鹿なこと言うなよ。SFじゃあるまいし」
「じゃあ、描くのはどうかな」
そう言うと、凪はスケッチブックを開き、驚くべき速さで鉛筆を走らせ始めた。サラサラという、心地よい摩擦音。彼が描いていたのは、校庭の隅にある一本の桜の木だった。そして、その枝に引っかかった、赤い風船。
「何だよ、それ」
「見てて」
凪がそう言った直後だった。校庭で遊んでいた小学生の一団から、甲高い声と共に、一つの赤い風船が手から離れ、風に乗ってふわりと宙を舞った。それはまるで引力に導かれるように、凪が描いた通りの桜の枝に、ぷすりと音を立てて引っかかった。
僕は息を呑んだ。偶然? いや、偶然にしては出来すぎている。
「……お前、何者なんだ」
声が震えた。凪はスケッチブックを閉じると、僕の首からぶら下がった一眼レフを指差した。
「君は、過去を切り取る人。僕は、ほんの少し先の未来を書き留める人。ただ、それだけだよ」
西日が彼の横顔を照らし、その輪郭を黄金色に縁取っていた。僕の心臓が、久しぶりに大きな音を立てた。この夏、何かが変わるかもしれない。そんな予感が、むわりとした熱気と共に胸の奥から湧き上がってきた。
第二章 きらめきのスケ-ッチブック
その日から、僕は凪の「予知」の虜になった。
凪は、その不思議な力を決して大袈裟に使うことはなかった。階段でつまづきそうになる女子生徒がいれば、その瞬間に彼女が掴む手すりを描き、注意を促す。カラスに弁当を狙われるクラスメイトがいれば、カラスが飛び立つ先の電線を描き、僕に「あそこ、見て」と囁く。彼のスケッチブックに描かれるのは、誰かの小さな不運を回避するための、ささやかな未来の断片だった。
「なんで、そんなことをするんだ?」
ある日、河川敷のベンチでクリームソーダを飲みながら尋ねた。
「世界のバランスを、ほんの少しだけ良い方に傾けたいんだ。僕にできるのは、そのくらいだから」
凪はそう言って、グラスの中のさくらんぼを悪戯っぽく沈めた。その横顔を、僕は夢中でファインダーに収めた。
カシャッ。
乾いたシャッター音が響く。凪を撮っている時だけ、僕の世界は鮮やかな色彩を取り戻した。凪が未来を描く瞬間の、真剣な眼差し。誰かの不幸を未然に防ぎ、ほっと息をつく時の、柔らかな微笑み。そのすべてが、僕にとってはかけがえのない被写体だった。彼の周りだけ、まるで空気中の塵が光を乱反射するかのように、キラキラと輝いて見えた。
「航の写真、すごく優しい色をしてるね」
現像した写真を見せると、凪は嬉しそうに言った。
「お前を撮ってると、そうなるんだ」
照れ隠しにそう答えると、彼はますます嬉しそうに笑った。
僕はこの輝きを、この奇跡のような夏を、形に残したいと強く願うようになった。市の写真コンテストのポスターを見つけたのは、そんな時だった。テーマは「生命(いのち)の輝き」。僕の頭には、凪の姿しか浮かばなかった。
「なあ、凪。俺、このコンテストにお前を撮った写真で応募したい」
僕の申し出に、凪は一瞬だけ目を伏せ、何かを考える素振りを見せた。だが、すぐに顔を上げると、いつものように微笑んだ。
「うん、いいよ。僕でよければ。航の撮る写真、好きだから」
その言葉が、僕の背中を強く押した。凪というプリズムを通して、僕の世界は輝き始めた。退屈だったはずの夏は、シャッターを切るたびに、かけがえのない一瞬としてフィルムに刻まれていった。
第三章 命のインク
コンテストの締め切りを一週間後に控えた、蒸し暑い放課後だった。最高のショットを狙って校舎の屋上に機材を運んでいた僕の元に、血相を変えたクラスメイトが駆け込んできた。
「水島! 大変だ、月島が……!」
凪が、倒れた。
その言葉は、僕の頭を真っ白にした。駆けつけた先の保健室には、彼の姿は既になく、病院に搬送されたと聞かされた。
病院の白い廊下を、僕は夢中で走った。鼻をつく消毒液の匂いが、嫌な現実を突きつける。病室のドアを開けると、ベッドの上で静かに横たわる凪と、彼の両親がいた。凪の顔は、僕が知っているどんな彼よりも青白かった。
「航くん……」
凪が、か細い声で僕を呼んだ。彼の両親がそっと席を外してくれる。
「ごめん、驚かせた」
「馬鹿野郎……。何があったんだよ」
僕はベッドの脇にへたり込んだ。凪は、ゆっくりと話し始めた。それは、僕が信じていた世界のすべてを根底から覆す、残酷な真実だった。
「僕の力はね、未来予知じゃないんだ」
凪は、シーツの上で弱々しく指を動かした。
「あれは……未来を書き換える力。僕の命を、少しずつインクに変えて、未来のスケッチブックに描き込む力なんだ」
心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。
凪は、生まれつき重い心臓の病を患っていた。彼の余命は、とっくに尽きているはずだった。だが彼は、自らの寿命を削ることで得られる力で、未来を「創造」し、生き永らえていたのだ。
僕が見ていた、あのきらめき。それは、凪が命を燃やす瞬間の、眩いばかりの光だった。
「赤い風船も、階段の女の子も……全部、僕が創った未来。何もしなければ、ただ風船はどこかに飛んでいって、あの子は怪我をしていた。そんな小さな不幸を書き換えるために、僕は自分の時間を……使ってきた」
「な……なんで、そんな……」
声が出なかった。世界のバランスを良い方に傾けたい、と言っていた彼の言葉が、鉛のように重くのしかかる。彼は、自分の命と引き換えに、他人のためのささやかな幸福を創り続けていたのだ。
「君に会って、写真を撮ってもらって……すごく、嬉しかった。君が見ていた輝きが、僕の命の光だって知ったら、君はきっと悲しむから。だから、言えなかった」
凪は、力なく微笑んだ。
「でもね、航。君と過ごしたこの夏だけは、僕が創った未来じゃない。紛れもない、本物の時間だったよ」
涙が溢れて止まらなかった。僕が切り取っていたのは、友が命を削る、壮絶な瞬間の輝きだった。その美しさに心酔していた自分の無知が、刃物のように胸を抉った。ファインダー越しに見ていたきらめきは、あまりにも切なく、そして尊い光だったのだ。
第四章 君が遺したファインダー
凪はもう、力を使うことはできなかった。彼のスケッチブックは、白紙のページが増えていくばかりだった。僕は毎日、学校が終わると彼の病室に通った。何を話せばいいのか、何をしてやれるのかも分からず、ただ、彼のそばにいることしかできなかった。
コンテストのことなど、とうに頭から消えていた。
ある日、凪が僕に、最後のスケッチブックを差し出した。
「これ、航に」
受け取ってページをめくると、そこには一枚の絵が描かれていた。写真コンテストの授賞式で、僕が金賞のトロフィーを手に、誇らしげに笑っている姿。だが、その絵はどこか淡く、線が途切れ途切れで、未完成に見えた。
「これは、僕が創った未来じゃない。僕にはもう、未来を描くインクは残ってないから」
凪は、息を切らしながら言った。
「これは、僕の『願い』。航が、君自身の力で掴み取る未来だよ。僕は、それが見たいんだ」
僕は、嗚咽をこらえて強く頷いた。
写真を取り下げようと思っていた。だが、凪の言葉が僕を動かした。僕は応募作品を差し替えることにした。選んだのは、凪が力を使う派手な瞬間を捉えた一枚ではない。夏の盛りの午後、病室の窓から差し込む柔らかい光の中で、本を読みながら穏やかに微笑んでいる、何気ない凪の横顔。そこには、命を削る悲壮感ではなく、ただ、一人の少年が生きた確かな時間の輝きが、静かに写り込んでいた。タイトルは「夏光」とつけた。
その数週間後、夏の終わりと共に、凪は静かに旅立った。
季節は巡り、秋になった。コンテストの結果通知が、一通の封筒で届いた。結果は、金賞。凪の「願い」は、現実になった。
授賞式の日、僕は壇上に立ち、スポットライトを浴びていた。手にしたトロフィーはずしりと重い。
「僕には、未来は創れると教えてくれた友人がいました」
僕は、マイクに向かって静かに語り始めた。
「彼は、自分の命を削って、誰かのための小さな幸せを創り続けました。でも彼は、僕に一番大切なことを教えてくれました。それは、他人のためではなく、自分自身の未来を、自分の足で懸命に掴み取ることの尊さです。この賞を、僕に『今』を生きる勇気をくれた、最高の友人に捧げます」
式場を出て、高く澄み渡った秋の空を見上げる。ポケットの中には、凪が描いてくれた、あの未完成の絵が入っていた。そして、この手には本物のトロフィーがある。凪が遺してくれたのは、描かれた未来ではなく、未来へと踏み出すための、強い想いだった。
僕は、首から下げたカメラを構えた。ファインダーの先には、どこまでも続く青い空が広がっている。
カシャッ。
シャッター音は、あの夏に聞いたどの音よりもクリアに、そして力強く、僕の新しい始まりを告げるように、高らかに響き渡った。