第一章 アウローラの幻影
高校二年の夏、僕は未来を見る方法を手に入れた。
それは、祖父の遺品整理中に見つけた、ずしりと重いフィルムカメラだった。黒いレザーに包まれた銀色のボディには「Aurora 7」と刻印されている。ホコリを指で拭うと、レンズが夏の気だるい光を鈍く反射した。写真部の僕にとって、それはただの古い骨董品ではなく、血の通った過去からの贈り物のように思えた。
「まだ使えるかな」
独り言ちて、手元にあったフィルムを装填する。ファインダーを覗くと、世界が少しだけ色褪せて、けれど温かみのある四角形に切り取られた。試しに、窓辺に置かれた一枚のキャンバスにレンズを向けた。それは、中学からの友人である佐伯陽菜が描きかけている油絵だ。近所の坂道を描いただけの、何の変哲もない風景画。カシャリ、と重厚なシャッター音が部屋に響いた。
数日後、暗室で現像液に浸した印画紙に像が浮かび上がってくるのを、僕はいつものように眺めていた。坂道の絵、窓枠、揺れるカーテン……。そして、そこに混じっていた一枚に、僕は息を呑んだ。
同じ構図の風景画。しかし、それは僕の部屋の窓辺ではなく、荘厳な石造りの壁に掛けられていた。絵の横には『Hina Saeki』と記されたプレートがあり、その前を、見知らぬ外国人の男女が感嘆の声を漏らしながら通り過ぎていく。まるで、パリの美術館の一室を切り取ったかのような光景だった。
「なんだ、これ……」
フィルムの異常か、現像の失敗か。だが、その写真はあまりにも鮮明で、現実味を帯びていた。胸騒ぎを覚えながら、僕は次の被写体を探した。そして、自然と足は美術室へ向かっていた。
「蓮? 珍しいね、写真部の人が美術室に」
イーゼルの前でパレットナイフを動かしていた陽菜が、絵の具の匂いをまとって振り返る。彼女の頬には、鮮やかなウルトラマリンブルーが跳ねていた。
「陽菜、ちょっと撮らせてくれないか。そのカメラ、試したくて」
「いいよ。でも、こんな絵の具まみれの格好で?」
照れくさそうに笑う陽菜に、僕はアウローラ7を向けた。「そのまま、描いてるところでいい」。カシャリ。再び、あの重い音が鳴る。その瞬間、陽菜の周りの空気が一瞬だけ揺らいだように見えたのは、きっと気のせいだろう。
そして、僕は再び暗室で奇跡を目撃した。
現像した写真の中に、見覚えのない陽菜がいた。歳は二十代後半だろうか。純白のドレスを身にまとい、大勢の招待客に囲まれて、自身の作品の前で微笑んでいる。背景には『佐伯陽菜 個展 -光の記憶-』という大きな垂れ幕が見えた。その表情は、今の彼女が持つあどけなさと、僕の知らない自信に満ち溢れていた。
心臓が早鐘を打つ。このカメラは、ただの古い機械じゃない。被写体の「ありえたかもしれない未来」を写し出す、魔法の道具なんだ。僕の手の中にあるこの重い塊は、不確かな明日への、一つの答えを提示してくれる装置だった。
第二章 ファインダー越しの理想郷
アウローラ7の秘密を知ってから、僕の世界は色を変えた。僕は神にでもなったような気分で、友人たちの未来を次々と暴いていった。
サッカー部のエースを撮れば、Jリーグのスタジアムでゴールを決めてサポーターに駆け寄る姿が写った。物静かな化学部の部長を撮れば、白衣を着て国際的な学会で発表している姿が写った。彼らにその写真を見せると、一様に驚き、そして目を輝かせた。
「すげえ! 俺、プロになれるのか!」
「これが、私の研究の成果……」
彼らの反応は、僕に奇妙な全能感を与えた。僕がシャッターを切ることで、彼らの未来に輪郭が与えられ、漠然とした夢が確固たる目標へと変わっていく。それは麻薬的な快感だった。
だが、その高揚感の裏側で、黒い澱のような感情が僕の心に溜まっていくのを、僕は見ないふりをしていた。
「蓮、本当にありがとう。この写真、お守りにする」
陽菜は、自分の未来が写った写真をラミネート加工して、いつもスケッチブックに挟んでいた。コンクールへの出品作に行き詰まるたびに、彼女はその写真をじっと見つめ、そして再び筆を握る。その姿は、以前よりもずっと力強く、輝いて見えた。
そんな彼女をファインダー越しに見つめながら、僕は焦燥感に駆られていた。誰もが輝かしい未来の可能性を持っている。僕が、このカメラでそれを証明してやっている。では、僕自身はどうなんだ?
水野蓮の未来は、どこにある?
僕は、自分自身にレンズを向けることができなかった。もし、そこに平凡で、退屈な未来しか写っていなかったら? もっと最悪なのは、そこに何も写っていなかったら? 答えを知るのが怖かった。未来を覗き見る力を持ちながら、自分の未来だけが見えない。それは、まるで透明な牢獄に閉じ込められたような気分だった。
「蓮は、自分のこと撮らないの?」
ある日の放課後、陽菜が不意に尋ねてきた。僕はぎこちなく笑って誤魔化す。
「被写体がいいから、いい写真が撮れるんだよ。俺なんか撮っても、つまらないだけだ」
嘘だった。本当は、誰よりも知りたい。そして、誰よりも知りたくない。陽菜の真っ直ぐな瞳から逃げるように、僕はカメラを鞄に押し込んだ。夏の蒸し暑い空気が、僕の首筋にじっとりとまとわりついていた。
第三章 停滞したセルフポートレート
事件が起きたのは、県主催の美術展の結果が発表された日だった。陽菜が心血を注いで描いた作品は、落選した。
放課後の美術室で、彼女は自分の絵の前で立ち尽くしていた。いつも彼女を照らしていた光が、全て消え失せてしまったかのようだった。僕はかける言葉が見つからず、ただその小さな背中を見つめることしかできなかった。
「……あの写真があったから」
絞り出すような声が、静寂を破った。
「あの写真があったから、私、絶対いけるって、過信してたのかも。才能なんて、最初からなかったんだ……」
振り返った彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。その涙は、僕の胸を鋭く抉った。僕がしたことは、本当に彼女のためになったのだろうか。未来という名の甘い毒を盛り、努力の過程を飛ばして、根拠のない自信を与えてしまっただけではないのか。僕の軽薄な善意が、彼女を深く傷つけた。罪悪感で、息が詰まりそうだった。
その夜、僕は自室でアウローラ7を握りしめていた。陽菜の涙が、僕を追い詰める。もう逃げるのはやめだ。どんな未来が待っていようと、それを受け止める覚悟を決めなければ。僕が未来から目を逸らしている限り、陽菜にかける言葉すら見つからない。
三脚を立て、カメラをセットする。セルフタイマーの赤いランプが、僕の不安を煽るように点滅する。十、九、八……。僕は観念して、レンズを真っ直ぐに見つめた。
カシャリ。
いつもより冷たく、無機質なシャッター音が響いた。
震える手でフィルムを現像する。暗室の赤い光の下、像がゆっくりと浮かび上がってくる。そこに写し出された光景に、僕は言葉を失った。
プロの写真家になった僕でも、世界を旅する僕でもなかった。白衣を着た科学者でも、スーツを着たビジネスマンでもない。
そこにいたのは――今の僕と寸分違わぬ、高校二年生の制服を着た僕だった。
背景も、今いるこの僕の部屋そのものだ。髪型も、体つきも、何も変わっていない。ただ一つ違うのは、その表情。写真の中の僕は、まるで魂が抜け落ちたかのように虚ろな目で、ただじっと、こちらを見つめているだけだった。
輝かしい未来でも、平凡な未来でもない。これは、「停滞」だ。変化のない、成長のない、時が止まってしまったかのような未来。アウローラ7が僕に突きつけたのは、無限の可能性などではなく、残酷なまでの無だった。全身から血の気が引いていくのが分かった。足元から世界が崩れ落ちていくような、底なしの絶望が僕を飲み込んだ。
第四章 今、この瞬間のシャッター
僕はカメラを床に叩きつけようとしていた。こんなもの、なければよかった。希望を見せかけ、最後には絶望を突きつける悪魔の道具だ。
「やめて、蓮!」
ドアの隙間から、いつの間にか来ていた陽菜が飛び込んできた。彼女は僕の手からアウローラ7を奪い取るように抱きしめる。彼女の目元はまだ赤く腫れていた。
「ごめん、昨日は……。心配で、来てみたんだけど」
僕は力なくその場に崩れ落ち、自分の未来が写った写真を彼女に見せた。同情でも、憐れみでも、何でもいい。誰かにこの絶望を共有してほしかった。
しかし、陽菜の反応は予想とは違っていた。彼女は写真をじっと見つめた後、静かに口を開いた。
「蓮が撮ってくれた私の未来、嬉しかったよ。でもね、あれはゴールじゃない。ただの道しるべの一つだったんだって、落ち込んでみて、やっと分かった。私は、あの写真の私になるために絵を描いてるんじゃない。ただ、絵を描くのが好きだから描いてるんだ。落選は悔しいけど、また描く。それだけだよ」
陽菜の言葉が、霧に包まれていた僕の思考を少しずつ晴らしていく。そうだ。僕はずっと「結果」ばかりを見ていた。未来という名の完成形に囚われて、そこに至るまでの「今」を、完全に無視していた。
僕はもう一度、自分の写真を見つめ直した。虚ろな目をした、停滞した僕。それは本当に絶望の象徴だろうか。違うかもしれない。これは、白紙の答案用紙と同じなんだ。未来はまだ、何も書かれていない。ここから、お前が選んで、描いていくんだ。アウローラ7は、そう無言で語りかけているのではないか。
「陽菜」
僕は立ち上がり、彼女からカメラを受け取った。
「もう一枚だけ、撮らせてくれ」
「え? でも、同じ人は……」
一度撮った被写体は、二度と未来を写さない。それがこのカメラのルールだ。でも、もういいんだ。僕が撮りたいのは、未来じゃない。
僕はファインダーを覗き、目の前にいる陽菜にピントを合わせた。落選の悲しみを乗り越えようとする、少しだけ強い眼差し。頬に残る涙の跡。ウルトラマリンブルーの小さな染み。そのすべてが、かけがえのない「今」だった。
カシャリ。今度は、温かく、優しいシャッター音がした。
現像した写真に、未来は写っていなかった。当たり前だ。そこにいたのは、僕の知っている、等身大の佐伯陽菜だった。その写真を見た時、僕は初めて心の底から安堵し、写真を撮るという行為そのものの喜びを思い出した。
僕はアウローラ7を、祖父の形見の桐箱にそっと戻した。そして、埃をかぶっていた自分のデジタルカメラを手に取った。
未来は不確かで、不安に満ちている。でも、だからこそいいんだ。ファインダーを覗き、シャッターを切るこの一瞬一瞬が、宝物になる。僕はカメラを構え、夏の終わりの、どこまでも青い空にレンズを向けた。その空の先にどんな未来が待っているのか、もう知る必要はなかった。ただ、この青さを、この光を、僕自身の力で切り取っていくだけだ。