砕け散る心たちのカンタータ

砕け散る心たちのカンタータ

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第一章 薄氷のオブジェ

僕が通う私立青葉台学院は、少し変わっている。ここでは、生徒たちの感情が物理的な形を取るのだ。喜び、悲しみ、怒り、不安。そういった心の揺らぎが、手のひらから「感情オブジェ」として生成される。それは生徒たちの体質であり、この学園ではごく当たり前の日常だった。

教室はさながらオブジェの展示会場だ。友人と笑い合った瞬間に生まれた、太陽の光を閉じ込めたような琥珀色のビー玉。難しいテストを乗り越えた達成感から生まれた、精巧な歯車のミニチュア。恋のときめきが生み出す、桜貝の欠片。誰もが自分のオブジェを机の上に飾り、交換し、時に自慢げに見せびらかしてコミュニケーションをとる。

そんな世界で、僕はいつも息を潜めていた。僕、相沢湊が生成するオブジェは、決まって「薄氷の欠片」だったからだ。それは他人のオブジェのような確かな形や温かみを持たず、あまりに繊細で、指で触れればはかなく砕け散ってしまう。陽の光に透かせば虹色に輝く瞬間もあるが、その美しさは常に消滅と隣り合わせだった。自分の感情が、こんなにも脆く、希薄で、価値のないものに思えてならなかった。だから僕は、オブジェが生まれそうになると咄嗟にポケットに手を突っ込み、誰にも見られぬよう、その冷たい感触を握りつぶしてやり過ごすのが癖になっていた。

そんなある日の放課後だった。忘れ物を取りに教室へ戻る途中、普段は誰も近寄らない旧音楽室から、澄んだ音色が微かに漏れ聞こえてきた。それは風鈴のようでもあり、オルゴールのようでもある、不思議な旋律だった。好奇心に駆られ、軋む扉をそっと開ける。

夕陽が差し込む埃っぽい部屋の中、その中心に置かれたグランドピアノの上に、それはあった。

見たこともないオブジェだった。幾重にも重なった水晶の結晶体で、複雑な多面体が光を乱反射させている。オブジェ全体が内側から淡い光を放ち、時折、風もないのに微かに揺れて、先ほど僕が聞いたあの澄んだ音色を奏でるのだ。それは息を呑むほどに美しかったが、同時に、どうしようもないほどの深い孤独と、言葉にならない悲しみを湛えているように見えた。こんなにも強く、複雑で、訴えかけてくるオブジェを、僕は初めて見た。

一体、誰が?誰がこんな心を、この場所に置き忘れていったのだろう。その謎は、僕の灰色の日常に投じられた、あまりにも鮮烈な一石だった。

第二章 ガラス細工の少女

翌日から、僕はあの「音の鳴る水晶」の持ち主を探し始めた。だが、手がかりは全くない。誰に聞いても、そんなオブ-ジェは見たことがないと言うばかりだった。

そんな僕に、屈託なく話しかけてくるクラスメイトがいた。七瀬陽菜だ。彼女は僕とは正反対の存在だった。いつも笑顔を絶やさず、彼女の手からは次々と色鮮やかな「ガラス細工の花」が生まれる。そのオブジェは彼女の周りを明るく彩り、誰もがその華やかさに惹きつけられていた。

「相沢くん、また難しい顔してる。はい、これあげる」

そう言って彼女が僕の机に置いたのは、朝露に濡れた小さなスズランのガラス細工だった。純粋な親切心から生まれたそれは、繊細な細工にもかかわらず、確かな存在感を放っていた。

「……いらない」

「えー、なんで?綺麗でしょ?今日の小テスト、満点だったんだ」

僕がポケットの中で生成しかけた薄氷を握りつぶしながらそっけなく返すと、陽菜は少しも怯まずに僕の顔を覗き込んできた。

「相沢くんのオブジェ、見たことないな。いつも隠してるでしょ。どんな形なの?」

その真っ直ぐな瞳に、僕は言葉を失った。この脆い氷の欠片を見せたら、彼女はきっと軽蔑するだろう。そう思うと、胸が冷たく軋んだ。

僕が水晶のオブジェについて聞き込みを続けていると、意外にも陽菜が興味を示した。

「音の鳴る水晶?すっごくロマンチック!私も探すの手伝うよ!」

断る理由も見つからず、僕らは放課後、一緒に旧音楽室を訪れた。夕陽を浴びて静かに佇む水晶を前に、陽菜はうっとりとため息を漏らした。

「すごい……。こんなにたくさんの気持ちが詰まってる。嬉しいとか、悲しいとか、そんな単純な言葉じゃ表せない、もっとずっと複雑な……まるで歌みたい」

彼女はそう言うと、そっと水晶に指を伸ばした。その瞬間、水晶は凛とした高い音を一度だけ奏でた。まるで、彼女の指に共鳴したかのように。

「もしかしたら、この学園ができた頃の、古い生徒のオブジェなのかもね」

陽菜の言葉をきっかけに、僕らは図書室で学園の古い記録を調べることにした。二人で並んで分厚いアルバムをめくる時間は、僕にとって経験したことのない、奇妙に穏やかな時間だった。陽菜は時々、僕が生成した薄氷の冷たさが伝わる僕の手に、自分の温かい手を重ねて「冷たいね」と笑った。そのたびに、僕の心の氷が少しだけ溶けるような気がした。

だが、調査は難航した。過去の記録をいくら探しても、該当するような生徒は見当たらない。謎は深まるばかりだった。そして僕は、この謎を解き明かしたいという気持ちと同じくらい、陽菜と過ごすこの時間を失いたくないと思っている自分に気づき、戸惑っていた。

第三章 偽りのカンタータ

数日後、僕らは再び旧音楽室にいた。もう一度手がかりを探そうと、陽菜がピアノの鍵盤をそっと撫でた時、鈍い音がして、ピアノの足元にあるペダル部分の化粧板が少しだけずれた。その隙間に、古いノートの表紙が見えた。

「日記……?」

陽菜が取り出したのは、革張りの古びた日記帳だった。これこそが持ち主の手がかりに違いない。高鳴る胸を抑え、二人でそのページをめくった。そこに綴られていたのは、誰にも見せられない、痛々しいほどの心の叫びだった。

『今日も、上手に笑えた。みんな、私の作った花を見て綺麗だと言ってくれる。嬉しい。でも、本当は違う。本当の私は、もっと冷たくて、暗くて、いつも何かに怯えている。この気持ちをオブジェにしたら、きっと誰も近寄ってくれなくなるだろう。だから私は、綺麗な花を作る。みんなが望む、明るくて元気な「私」を演じるために』

ページをめくる指が震えた。そこに書かれていたのは、僕が想像していた過去の生徒の苦悩ではなかった。それは、今、まさに僕の隣にいる少女の心の悲鳴だった。

僕は信じられない思いで陽菜の顔を見た。彼女は顔を覆い、肩を震わせていた。いつも太陽のように輝いていた彼女の笑顔はどこにもなかった。

「……ごめん。ずっと、怖かったの」

陽菜が絞り出した声は、か細く、今にも消えそうだった。

彼女がいつも生成していた「ガラス細工の花」。それは、周囲の期待に応えるために、意識的に作り上げた「偽りの感情」だったのだ。そして、誰にも見せられない本当の孤独や悲しみ、不安は、無意識のうちにあの「音の鳴る水晶」として生成され、この誰も来ない場所に、まるで墓標のように溜まっていた。彼女は、明るく振る舞うことで、砕け散りそうな本当の自分を守っていたのだ。

衝撃だった。僕の価値観が、足元から崩れ落ちていく音を聞いた。誰よりも感情豊かで、強い心を持っていると信じていた陽菜が、僕以上に深い孤独を抱え、自分を偽り続けていたなんて。僕はずっと、彼女のオブジェの、そして彼女自身の表面しか見ていなかった。自分の脆いオブジェを恥じていた。だが、僕の薄氷は、少なくとも嘘偽りのない、ありのままの僕の心の形だった。

陽菜は泣きじゃくりながら、手のひらから歪なガラスの塊を生み出した。それは花の形を成すこともできず、ただ痛々しく輝いているだけだった。僕も、胸を締め付ける苦しさに、ポケットの中で冷たい薄氷を握りしめることしかできなかった。僕らの間に、夕陽だけが静かに差し込んでいた。

第四章 きみの心の形

旧音楽室での一件以来、陽菜は学校を休んだ。彼女のいない教室は、まるで色が抜けてしまったかのように静かだった。机の上に置かれたままの、誰かからもらったであろう華やかなオブジェたちが、ひどく空虚に見えた。

僕は、どうすればいいのか分からなかった。僕の言葉で、彼女を傷つけてしまうかもしれない。僕の存在が、彼女の重荷になるかもしれない。だが、このまま何もしなければ、彼女はずっと一人で、あの音の鳴る水晶のように、孤独な音を奏で続けるだろう。

放課後、僕は意を決して彼女の家に向かった。チャイムを鳴らすと、やつれた顔の陽菜がドアを開けた。驚いたように目を見開く彼女を前に、僕は何も言葉が出てこなかった。ただ、ずっとポケットの中で握りしめていたものを、そっと彼女の前に差し出した。

僕の震える手のひらにあったのは、一枚の「薄氷のオブジェ」だった。

それはいつものように儚く、指の熱でさえ溶けてしまいそうだった。けれど、僕はそれを隠さなかった。目を逸らさずに、ただ真っ直ぐに陽菜を見つめた。

「……壊れそうだって、分かってる。綺麗でもないし、何の役にも立たない。でも、これが、今の俺の全部だ」

僕の言葉に、陽菜の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は恐る恐る、その薄氷に指を伸ばした。触れた瞬間、オブジェの縁がわずかに欠けたが、それでも、僕の心の形は消えなかった。

「……あったかい」

陽菜が呟いた。彼女の手のひらからも、オブジェが生まれる。それは、旧音楽室で見た、あの音の鳴る水晶の小さな、小さな欠片だった。彼女はそれを、僕の薄氷の隣にそっと置いた。

脆く儚い氷と、悲しい音色を奏でる水晶。完璧とはほど遠い、不器用で、傷ついた僕らの心の形。でも、それは紛れもなく本物だった。僕らは初めて、互いの本当の心を、ありのままの形で見せ合うことができたのだ。

数日後、学園祭の日がやってきた。活気に満ちた教室の片隅、僕の机の上には、もはや隠されることなく、小さな薄氷のオブジェが置かれている。陽光を浴びて、それは儚くも七色の光を放っていた。

「おはよう、湊くん」

隣の席の陽菜が、優しく微笑んだ。彼女の机の上には、ガラス細工の花と一緒に、小さな水晶の欠片が寄り添うように置かれている。彼女はもう、自分の本当の心を隠そうとはしていなかった。

世界は何も変わらない。相変わらず、周りには色とりどりの華やかなオブジェが溢れている。けれど、僕にはもう、それらが以前のようには見えなかった。どんなに美しいオブジェも、誰かの心のほんの一面に過ぎない。そして、僕のこの脆い薄氷も、誰かの心を温めることができるかもしれない。

僕らの心の形は、きっとこれからも不器用で、時々欠けてしまうだろう。それでもいい。僕らはもう、その脆さを隠さない。互いの心の形を受け止めながら、ゆっくりと歩いていくのだ。窓から差し込む光の中で、二つの不完全なオブジェが、静かに共鳴し合っているように見えた。

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