***第一章 無色の転校生***
僕、紺野湊の世界は、常に不快な色で濁っていた。人の吐く嘘が、僕の目には具体的な「色」として映る。どうでもいい見栄や社交辞令はアスファルトに滲んだ油のような灰色に、悪意を孕んだ欺瞞は血を煮詰めたようなどす黒い赤色に見えるのだ。教室、廊下、街中。世界は醜い色彩で飽和しており、僕はいつしか人間そのものを信じるのをやめていた。他人と深く関わることを避け、冷めた視線で世界を観察するだけの、退屈な日々。それが僕の日常だった。
その日常が、音もなく崩れ始めたのは、初夏の気怠い風が教室に流れ込んできた、ある月曜日のことだった。
「転校生の、白石栞さんです」
担任の声とともに現れた少女に、クラス中の視線が注がれた。僕もまた、いつもの癖で彼女に目を向け、そして息を呑んだ。
彼女は、無色だった。
まるで磨き上げた水晶か、誰も触れていない新雪のように、彼女の周りには一切の色が存在しなかった。好奇の視線を向けるクラスメイトたちの周りには、下心や詮索の念が薄汚れた靄となって立ち上っているというのに、彼女だけが、そこだけ切り取られたように透明だったのだ。
嘘をつけない人間、ではない。嘘をつくという概念そのものが存在しないかのような、完璧なまでの透明感。僕は生まれて初めて見るその光景に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
白石栞。彼女はいったい、何者なのだろうか。僕の灰色だった世界に投じられた、一滴の純粋な水。その波紋の中心から、僕はもう目を離すことができなかった。
***第二章 水晶の時間***
栞と僕が言葉を交わすようになったのは、図書委員という偶然がきっかけだった。放課後の静まり返った図書室で、二人きりで古びた本の背表紙を眺める時間は、僕にとって救いだった。彼女といる時だけ、僕の世界から不快な色が消え失せる。それはまるで、濁った水が浄化されていくような、穏やかで満ち足りた時間だった。
「紺野くんは、どうしていつも難しい顔をしているの?」
ある日、カウンターに座る僕に、栞が小首を傾げて尋ねた。彼女の手には、いつも宮沢賢治の文庫本が握られている。
「別に。これが普通なんだ」
「ふふ、嘘」
彼女は悪戯っぽく笑った。その言葉に、僕はどきりとした。しかし、彼女の周りには、人をからかう時に出るはずの淡いピンク色の靄さえ浮かんでいない。
「君には、敵わないな」
僕は苦笑するしかなかった。彼女の前では、僕が長年築き上げてきた皮肉や諦念の鎧は、いとも簡単に剥がされてしまう。彼女の純粋な瞳に見つめられると、僕自身の心までが透けて見えるような気がした。
僕らは少しずつ距離を縮めていった。屋上で一緒に弁当を食べたり、帰り道に他愛ない話をしたり。彼女は僕の冷めた言葉の裏にある寂しさを見抜き、僕は彼女の物静かな態度の奥にある優しさに触れた。凍てついていた僕の心が、春先の陽だまりのように、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。このまま彼女のそばにいられるなら、この醜い色に満ちた世界も、少しは愛せるかもしれない。そんな淡い希望さえ抱き始めていた。
だが、奇妙な違和感は常にあった。彼女は、自分の過去や家族について、一切語ろうとしなかったのだ。どこから転校してきたのか、以前はどんな学校生活を送っていたのか。核心に触れようとすると、彼女は決まって、どこか遠くを見るような、悲しげな瞳で黙り込んでしまう。
それでも、彼女から嘘の色は出ない。ただ、ひたすらに透明なまま、悲しむだけなのだ。僕はその透明さを信じたくて、それ以上踏み込むことができなかった。この水晶のような時間が、僕自身の問いかけで砕けてしまうのが怖かったのだ。
***第三章 深海の告白***
季節は移ろい、文化祭を間近に控えた秋。僕らのクラスは演劇をやることになり、その準備で連日活気づいていた。僕が辟易するほどの虚飾と見栄の色が飛び交う中、栞だけはいつも通り、静かに、そして楽しそうに作業を手伝っていた。
事件が起きたのは、本番三日前の放課後だった。演劇で使うはずだった大道具のステンドグラス風の飾りが、何者かによって無残に壊されていたのだ。疑いの目は、普段から素行の悪かったクラスメイトの男子、佐伯に向けられた。
「俺じゃねえよ! 信じてくれ!」
佐伯は必死に叫ぶ。だが、彼の全身からは、恐怖と自己保身が入り混じった、どす黒い赤色のオーラが渦を巻いて立ち上っていた。明白な嘘だ。誰もが彼を犯人だと決めつけ、非難の言葉を浴びせる。僕もまた、この醜い結末にため息をつき、冷ややかに彼を見ていた。
その時だった。
「違う。佐伯くんじゃないわ」
凛とした声が、喧騒を切り裂いた。栞だった。彼女は静かに佐伯の前に立つと、クラスメイトたちを真っ直ぐに見据えた。
その瞬間、僕は目を疑った。栞の全身から、今まで見たこともない、強烈な色が放たれたのだ。それは嘘の色ではなかった。赤でも、灰色でもない。どこまでも深く、静かで、そして絶望的に悲しい、深海のような青色。それは、何かを隠している色ではなく、存在そのもので何かを訴えかけているような、魂の色だった。
「どうして、そんなことが言えるんだ?」
僕が震える声で問うと、彼女は僕を一度だけ振り返り、そして痛みに耐えるように、ぎゅっと唇を結んだ。
その日から、栞は学校を休んだ。僕の胸には、あの深海の色が焼き付いて離れなかった。あれは一体何だったのか。彼女の透明さは、偽りだったのか? いや、違う。あれは嘘の色ではない。ならば、あれは――。
居ても立ってもいられなくなった僕は、職員室の戸棚に保管されていた古い生徒名簿を、禁じられていると知りながらも探し出した。昨年度の名簿。そこに、僕は見覚えのある名前を見つけてしまった。
『二年三組 白石栞 備考:死亡(転落事故)』
指先から急速に血の気が引いていく。頭を鈍器で殴られたような衝撃。彼女は、一年前の文化祭の直前に、この学校の屋上から飛び降りて亡くなっていた。
僕が見ていた彼女は、話していた彼女は、一体誰だったんだ? 嘘の色が出なかった理由が、最悪の形で僕の胸に突き刺さる。彼女は嘘をついていたのではない。彼女の存在そのものが、この世の理から外れた、真実ではなかったのだ。
***第四章 きみがくれた青空***
僕は、吸い寄せられるように屋上へ向かった。錆びた扉を開けると、冷たい秋風が頬を撫でる。フェンスの向こう側、空と街の境界線に、栞は立っていた。まるで、最初からそこにいたかのように。
「……全部、知ってしまったのね」
振り返った彼女の表情は、穏やかだった。あの深海の青色はもう見えない。ただ、ガラス細工のような儚さが漂っているだけだった。
彼女は静かに語り始めた。一年前に亡くなったこと。親友と約束した演劇の舞台を見届けることだけが心残りで、この場所に留まっていたこと。彼女は「生きているフリ」をしていたわけではなかった。自分でも自分が何者なのか曖昧なまま、ただ強い想いだけが形を成し、そこに存在していた。僕が彼女を「白石栞」として認識し、話しかけたことで、彼女の存在はより輪郭を帯びていったのだという。
「ごめんなさい。あなたを騙すつもりはなかったの」
「違う。君は嘘なんてついてない」僕は首を振った。「君はずっと、透明だった。僕が今まで見てきた誰よりも、ずっと」
彼女が隠していたのは、嘘ではなく、あまりにも悲しい真実だった。彼女の存在は、一つの切ない「願い」そのものだったのだ。僕は、色に囚われ、物事の本質を見ようとしていなかった自分を恥じた。
文化祭当日。栞の親友が、彼女の想いを引き継いで舞台に立った。僕は、舞台袖でそれを見守る栞の隣に立った。スポットライトを浴びる親友の姿を、彼女は愛おしそうに見つめている。劇がクライマックスを迎え、万雷の拍手がホールに響き渡った瞬間、彼女の身体が、淡い光の粒子となって、少しずつ透け始めた。
「ありがとう、湊くん」彼女は僕に微笑みかけた。「あなたが見つけてくれたから、私、ちゃんとさよならが言える。あなたの世界が、これからは優しい色で満たされますように」
それが、僕が彼女から聞いた最後の言葉だった。彼女の笑顔は、僕が初めて見る、何の色もまとわない、ただ純粋な感謝の色をしていた。光の粒子が風に溶けるように消えていくのを、僕はただ見送ることしかできなかった。
彼女が消えた後、僕の世界から、色は消えた。人の嘘も、悪意も、もう僕の目には映らない。世界はただ、ありのままの姿でそこにあるだけだった。
数年後、僕は大学生になった。時々、あの屋上から見た空を思い出す。嘘が見えなくなった世界は、少しだけ不便で、少しだけ怖い。けれど、僕はもう大丈夫だった。目に見えるものが全てではないこと。言葉にならない想いがあること。そして、見えないものを信じることの尊さを、彼女が教えてくれたから。
僕はキャンパスのベンチで空を見上げる。そこには、あの日栞が立っていた空と同じ、どこまでも澄み渡った青が広がっていた。それは嘘偽りのない、ただの青空。でも僕にとっては、世界で一番美しく、信じるに値する色だった。きみがくれた、忘れられない色だった。
きみがいた世界の彩度
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