***第一章 灰色の訪問者***
僕、相沢樹の世界は、常にけばけばしい絵の具をぶちまけたような色彩で溢れていた。怒りは濁った赤、喜びは弾けるような黄色、悲しみは深く沈む青。人の感情が、オーラのような色となって僕の目には映るのだ。幼い頃から続くこの共感覚は、祝福であると同時に呪いでもあった。街を歩けば、感情の洪水が容赦なく僕を襲う。だから僕は、静寂と古紙の匂いが支配する、神保町の路地裏にある古書店『時雨堂』の番人として、息を潜めるように生きていた。
その日も、店内の空気は穏やかだった。西陽が埃をきらきらと照らし、棚に並ぶ背表紙たちだけが、物言わぬ客として僕のそばにいた。ちりん、とドアベルが鳴り、一人の女性が入ってくる。僕はいつものように、カウンターの奥からそっと彼女の「色」を窺った。だが、息を呑んだ。
何もない。
彼女の周りには、何の色もなかった。まるでモノクロ映画から抜け出してきたように、彼女の存在だけが、この色彩過剰な世界から切り取られたように、完全に無彩色だった。肩まで伸びた黒髪も、白いブラウスも、灰色のスカートも、その全てが背景に溶け込むことなく、しかし鮮烈な「無」として僕の目に焼き付いた。
彼女は僕の視線に気づいたのか、ふわりと微笑んだ。表情は柔らかく、口角は確かに上がっている。だが、そこに喜びを示す黄色い光はない。悲しみの青も、不安の紫も見えない。完全な、空白。僕の三十年近い人生で、こんな人間は初めてだった。
「あの、何かお探しですか」
絞り出した声は、自分でも驚くほど上擦っていた。僕の周りには、好奇心を示す若草色と、得体の知れない存在への警戒心からくる暗緑色が渦巻いていたはずだ。だが彼女には、それすら見えていないかのようだった。
「人を探しているんです」と彼女は言った。「とても古い本を、ずっと探している人のことを」
その声は涼やかで、まるで風鈴の音のようだった。しかし、その音色に感情の色は乗らない。僕は、この灰色の訪問者が、僕の静かで色鮮やかな日常を根底から揺るがす存在になることを、まだ知らなかった。ただ、心臓が奇妙なリズムで脈打つのを感じていただけだった。
***第二章 無彩色の安らぎ***
彼女は月島澪と名乗った。それから週に二、三度、『時雨堂』に顔を見せるようになった。彼女はいつも何かを探すように書架の間をゆっくりと歩き、そして何も買わずに帰っていく。僕たちは、自然と葉を交わすようになった。
「相沢さんは、どうしてここで働いているんですか?」
カウンターで文庫本の整理をする僕に、澪さんが問いかけた。彼女の周りは相変わらずのモノクロームだ。だが、不思議なことに、僕は彼女といると安らげた。感情の色が氾濫する世界で唯一、僕の脳を休ませてくれる安全地帯。それが彼女だった。
「本が好きだから、ですかね。本は、黙っていてくれるので」
「黙っている?」
「ええ。人の言葉は、色々な色がついていて……時々、疲れるんです」
我ながら訳の分からない説明だった。しかし澪さんは、ただ静かに頷いた。「分かります。私も、静かな場所が好きです」
彼女は自分のことをあまり話さなかった。ただ、時折遠くを見るような目で、「約束があるんです」と呟くことがあった。誰との、どんな約束なのか。僕の心に浮かぶ淡い藤色の疑問符を、彼女は気づくよしもない。
ある雨の日、店は僕と彼女だけになった。雨音が屋根を叩き、古い木造の建物がきしむ。彼女は窓の外を眺めながら、ぽつりと言った。
「雨の日は、世界から色が消えるみたいで好きです」
その言葉に、僕はどきりとした。僕の世界では、雨の日は人々の憂鬱が滲んで、街全体がくすんだ青灰色に染まる。だが、彼女の言う「色が消える」は、もっと根源的な意味を持っているように聞こえた。
「月島さん」僕は意を決して尋ねた。「あなたを見ていると、時々、何も感じていないように見えることがあります。怒ったり、悲しんだりしないんですか?」
僕の問いに、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その瞳は、雨に濡れた夜の路面のように、何も映さず、ただ暗く、深い。
「……どうでしょう。もうずっと、忘れてしまったみたい」
そう言って寂しそうに微笑む彼女の周りにも、やはり悲しみの青は浮かばなかった。
僕は、彼女の失われた色を取り戻したいと、柄にもなく思い始めていた。このモノクロの世界に生きる彼女に、喜びの黄色や、愛しさの桜色を見せてあげたい。それは、これまで他者との関わりを絶ってきた僕にとって、初めて抱く強烈な願いだった。彼女の灰色の世界に、僕が彩りを添える。そんな傲慢な考えが、僕の心を支配し始めていた。
***第三章 砕け散るプリズム***
澪さんへの想いが募るほど、彼女の謎も深まっていった。彼女が口にした「人を探している」という言葉。それが誰なのか、どうしても知りたくなった僕は、禁じ手を使うことにした。彼女が店に忘れていった手帳に書かれていた古い住所を頼りに、その場所を訪ねてみたのだ。
そこは、都心から少し離れた静かな住宅街だった。古びた表札には、確かに「月島」と書かれている。しかし、インターホンを押して出てきた初老の女性は、僕の顔を見るなり怪訝な表情を浮かべた。
「澪に御用ですか?……あの子は、もう五年も前に……」
女性の言葉の意味を、僕の頭は理解することを拒んだ。彼女が見せてくれた仏壇には、僕が知るよりも少しだけ幼い澪さんの写真が、黒いリボンと共に飾られていた。交通事故だった、と女性は涙ながらに語った。
血の気が引いていくのが分かった。じゃあ、僕が会っていた彼女は一体誰なんだ? 幽霊? 僕の妄想? パニックに陥った頭で古書店へ駆け戻り、僕は必死で記憶をたぐり寄せた。交通事故、五年も前……その言葉が、僕の記憶の奥底に突き刺さっていた古くて錆びついた楔を、無理やり引き抜いた。
そうだ。僕も、事故に遭ったんだ。
五年前。大学の卒業旅行の帰り道。僕が運転していた車が、雨の夜道でスリップした。対向車と正面衝突し、助手席と後部座席に乗っていた両親は即死。僕も、生死の境を彷徨った。
僕の脳裏に、砕け散るフロントガラスの光景が、フラッシュバックする。降りしきる雨、鳴り響くクラクション、そして、対向車の運転席で呆然とこちらを見つめていた、一人の男の顔。
僕は震える手でパソコンを開き、当時の事故の記事を検索した。加害者の名前は、月島雄一。そして、その記事には、彼が同乗していた娘と共に軽傷を負ったと記されていた。娘の名前は、月島澪。
全身の力が抜けて、椅子から崩れ落ちた。世界がぐにゃりと歪む。僕が見ていた「感情の色」は、共感覚などという特殊能力ではなかった。あの事故の強烈なトラウマが、僕の脳に作り出させた幻覚だったのだ。他人の微細な表情、声のトーン、仕草。それらの情報を、僕の脳が過剰に処理し、「色」という形で視覚化していたに過ぎない。僕はずっと、壊れたプリズムを通して世界を見ていたのだ。
では、澪さんに色が無かったのはなぜか。
幽霊だから? 違う。感情がないから? 違う。
答えは、恐ろしいほどに単純だった。
彼女だけが、僕にとっての「正常」だったのだ。
僕の壊れた脳が幻覚を見せる前の、ありのままの人間の姿。それが、色のない彼女だった。僕が「普通」だと思っていた、色に溢れた世界の方こそが、異常だった。僕の価値観、僕の世界、僕の全存在が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。僕が彼女に与えたいと思っていた彩りこそが、僕を苛む呪いの正体だったのだ。
***第四章 君という名の光***
真実を知った翌日、澪さんはいつものように『時雨堂』に現れた。僕の顔は蒼白で、目の下には隈が張り付いていたに違いない。僕の周りには、絶望の黒と混乱の灰色が渦巻いていたことだろう。だが、彼女にはそれが見えない。
「相沢さん、顔色が悪いですよ」
彼女の気遣う声が、やけに遠く聞こえた。僕は、もう彼女の顔をまともに見ることができなかった。僕の両親を奪った事故の、加害者の娘。しかし、彼女もまた、被害者だったのだ。
「全部、思い出したんですね」
静かな声だった。彼女は、僕が真実に辿り着くことを分かっていたのかもしれない。
「ごめんなさい。ずっと、あなたに謝りたかった。あの事故で、あなたの全てを奪ってしまったのは……私たちだから」
彼女は深く頭を下げた。その姿は、やはり色のない、ただのシルエットに見えた。
僕は、喉の奥から声を絞り出した。
「なぜ……なぜ、僕の前に現れたんだ」
「約束、だからです」と彼女は顔を上げた。その瞳には、今まで見たことのない強い光が宿っていた。「父は、事故の後ずっと心を病んで、あなたに謝罪することもできずに亡くなりました。だから、私が代わりに謝らなければと。そして、もしあなたが事故の後遺症で苦しんでいるのなら、私が……私の人生で償わなければいけないと」
償う。その言葉が、僕の心に突き刺さった。彼女もまた、この五年間、罪悪感という重い十字架を背負って生きてきたのだ。彼女から色が失われたのは、事故のショックと、その重すぎる十字架のせいだったのかもしれない。
僕はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に立った。
「顔を上げてください、月島さん」
僕の言葉に、彼女は驚いたように僕を見つめる。
「君は、僕から何も奪っていない」
僕は震える声で、しかしはっきりと告げた。
「逆だよ。君だけが、僕に本当の世界を見せてくれたんだ。色がなくても、人はこんなに優しく笑うんだって。色がなくても、心はこんなに通じ合えるんだって。僕を、幻覚の世界から救い出してくれたのは、君なんだ」
僕の世界を守っていたプリズムは、もう砕けてしまった。けれど、それでよかった。これからは、このありのままの世界で生きていく。たとえそれが、どんなに眩しく、時に残酷であったとしても。
僕は、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。彼女の手は、驚くほど温かかった。その瞬間、僕の目には、確かに見えた。彼女の指先から、僕の指先へと伝わる、淡く、しかし確かな温もりを持った、柔らかな光が。
それは、怒りの赤でも、悲しみの青でもない。幻覚ではない、僕自身の心が、今この瞬間に生み出した、生まれて初めての本当の「感情」の色だった。
世界から呪いの色彩が消えることはないだろう。けれど、もう僕は迷わない。この確かな光と温もりがあれば、どこへだって歩いていける。僕たちは、長いレクイエムの終わりを告げ、静かに、二人で未来へと歩き出す。雨上がりの空には、消え残った星が一つ、瞬いていた。
色なき君に捧ぐレクイエム
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